2009年6月5日(金)
毎週金曜日に地元土浦市周辺を歩く同好会「健康ウォーキングの会」が主催する「鎌倉権五郎景政物語コース」を歩くウォーキングに参加した。
「鎌倉権五郎景政」については、”牛久むかしばなし”に概略次のように紹介されている。
今から900年余り前、「後三年の役」で源義家に従い、部下を引き連れ奥州へ向った。
三年余りの戦いでは、若さと剛毅で奮戦し多くの手柄を立てた。
鎌倉へ帰る途中、牛久田島台辺りを通りかかった際、清原勢鳥海弥三郎の軍勢と鉢合わせした。
合戦中、矢が右目に命中したが、ひるむことなく戦い、鳥海弥三郎を討ち止めた。
合戦後に疲れた体を馬の背にもたれて桂川の丸木橋を渡る際に、足を踏み外して川に転落した。
はい上がろうとしたが、力尽きそのまま川底に沈んでしまった。
景政、わずか十六歳という若さであった、とのこと。
翌朝里人たちが見つけ、景政を聖伝寺の近くに葬り、後にお堂をたてて供養した。
景政の墓は、今日まで所在地主によって墓守がなされ、桂の金剛院境内には顕彰の碑が建立されている。
この日は、この景政のむかしばなしに因んだ場所を巡るコースである。
集合場所は、島田台の「奥野生涯学習センター」で、23名が集まった。
軽い準備体操の後、9時45分に出発。
最初は住宅地の中を歩く。
景政がけがの手当てのために目を洗い、返り血を落とした、といわれる「おみたらしの池」
黄色の菖蒲が生い茂っていた。
右目を射抜いた矢が納められた「矢の根不動尊」。
祠の回りはびっしりと孟宗竹に囲まれ不気味なほど静まりかえっていた。
田植え後のため水量が多い乙戸川を渡り、「うつつ坂」辺りに差し掛かった。
それほどの勾配はない坂である。
「鎌倉権五郎景政の墓」を目指していたが、いつの間にか「井ノ岡神社」に着いてしまった。
どうやら道を間違えたようだ。
この辺りは、似たような農道がたくさんあり、道案内もないので迷い易い。
途中まで引き返し、桂川に沿って谷津田を歩く。
ようやく目指していた「鎌倉権五郎景政の墓」に辿り着いた。
昨年も同じコースを歩いたそうだが、結局見つけることができなかったそうだ。
リーダーも責任を果たせて一安心といった表情を見せていた。
新しい墓碑が建てられていた。平成19年10月建立と記されている。
新しい墓碑の後ろに旧い墓碑が移されていた。
桂川を渡り、金剛院に向った。
こじんまりとした金剛院の本堂。屋根の卍印が印象的である。
金剛院境内には、牛久市によって鎌倉権五郎景政の顕彰の碑が建立されている。
コースを外れて、近道を歩いた。草ぼうぼうである。
見覚えのある道に出た。牛久の大仏様がはっきりと見える。ゴールは近い。
12時ちょっと過ぎにゴール。
整理体操をして、解散。お疲れさまでした。
鎌倉権五郎景政に関しては、この日まで全く知識がなかった。
ネットで調べてみると、目を矢で射抜かれてなお敵を倒したという伝説は各地に伝わっているようだ。
墓は牛久のほかに八王子にもあるらしいし、57歳まで生きていたという話もあるようだ。
魂は鎌倉の御霊神社をはじめ全国の御霊神社に祀られているとのこと。
どこの話が本当なのか、疑問の湧くところであるが、伝承の地を歩き遠い昔に想いを馳せた今回のウオーキングであった。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”
毎週金曜日に地元土浦市周辺を歩く同好会「健康ウォーキングの会」が主催する「鎌倉権五郎景政物語コース」を歩くウォーキングに参加した。
「鎌倉権五郎景政」については、”牛久むかしばなし”に概略次のように紹介されている。
今から900年余り前、「後三年の役」で源義家に従い、部下を引き連れ奥州へ向った。
三年余りの戦いでは、若さと剛毅で奮戦し多くの手柄を立てた。
鎌倉へ帰る途中、牛久田島台辺りを通りかかった際、清原勢鳥海弥三郎の軍勢と鉢合わせした。
合戦中、矢が右目に命中したが、ひるむことなく戦い、鳥海弥三郎を討ち止めた。
合戦後に疲れた体を馬の背にもたれて桂川の丸木橋を渡る際に、足を踏み外して川に転落した。
はい上がろうとしたが、力尽きそのまま川底に沈んでしまった。
景政、わずか十六歳という若さであった、とのこと。
翌朝里人たちが見つけ、景政を聖伝寺の近くに葬り、後にお堂をたてて供養した。
景政の墓は、今日まで所在地主によって墓守がなされ、桂の金剛院境内には顕彰の碑が建立されている。
この日は、この景政のむかしばなしに因んだ場所を巡るコースである。
集合場所は、島田台の「奥野生涯学習センター」で、23名が集まった。
軽い準備体操の後、9時45分に出発。
最初は住宅地の中を歩く。
景政がけがの手当てのために目を洗い、返り血を落とした、といわれる「おみたらしの池」
黄色の菖蒲が生い茂っていた。
右目を射抜いた矢が納められた「矢の根不動尊」。
祠の回りはびっしりと孟宗竹に囲まれ不気味なほど静まりかえっていた。
田植え後のため水量が多い乙戸川を渡り、「うつつ坂」辺りに差し掛かった。
それほどの勾配はない坂である。
「鎌倉権五郎景政の墓」を目指していたが、いつの間にか「井ノ岡神社」に着いてしまった。
どうやら道を間違えたようだ。
この辺りは、似たような農道がたくさんあり、道案内もないので迷い易い。
途中まで引き返し、桂川に沿って谷津田を歩く。
ようやく目指していた「鎌倉権五郎景政の墓」に辿り着いた。
昨年も同じコースを歩いたそうだが、結局見つけることができなかったそうだ。
リーダーも責任を果たせて一安心といった表情を見せていた。
新しい墓碑が建てられていた。平成19年10月建立と記されている。
新しい墓碑の後ろに旧い墓碑が移されていた。
桂川を渡り、金剛院に向った。
こじんまりとした金剛院の本堂。屋根の卍印が印象的である。
金剛院境内には、牛久市によって鎌倉権五郎景政の顕彰の碑が建立されている。
コースを外れて、近道を歩いた。草ぼうぼうである。
見覚えのある道に出た。牛久の大仏様がはっきりと見える。ゴールは近い。
12時ちょっと過ぎにゴール。
整理体操をして、解散。お疲れさまでした。
鎌倉権五郎景政に関しては、この日まで全く知識がなかった。
ネットで調べてみると、目を矢で射抜かれてなお敵を倒したという伝説は各地に伝わっているようだ。
墓は牛久のほかに八王子にもあるらしいし、57歳まで生きていたという話もあるようだ。
魂は鎌倉の御霊神社をはじめ全国の御霊神社に祀られているとのこと。
どこの話が本当なのか、疑問の湧くところであるが、伝承の地を歩き遠い昔に想いを馳せた今回のウオーキングであった。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”
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