ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.30 高遠城

2012年04月29日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2012年4月29日(日)


この日は朝から高遠城を訪問した。
高遠城は、三峰川(みぶがわ)と藤澤川に削られた河岸段丘上の突端に位置している。
段丘上から見れば平城のように見えるが、他の三方から見ると川敷から80mもの高い丘の上にある山城の姿をしている。
そのため、一般的に平山城と言われている。

高遠城勘助曲輪(かんすけくるわ)の駐車場から見た本丸辺りの桜(タカトオコヒカンザクラ)
既に盛期は過ぎているようで、くすんだ色に見える。
もう1週間ほど早ければ真っ盛りだったと思われるが、こればかりはどうしようもない。


勘助曲輪
高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張りをしたと伝えられている。
勘助曲輪の名称は、山本勘助に由来するが、築城当初この曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際に、
新たに造成されたのではないかと言われている。今は駐車場になっている。
ちょうど「さくら祭」が開催されていて、駐車料金(普通車)700円を払ったが、
松本城では300円だったので、ちょっと高い気もする。


タカトオコヒカンザクラの花びらはピンクがかった色をしており、小さくて可愛らしい。
明治八年(1875)頃から植え始め、現在では約1,500本が植えられている。
樹齢130年を越える老木もあるそうだ。
平成二年(1990)には日本さくらの会の「さくら名所百選」に選ばれている。


入口(グランドゲート)で入園料500円を払い、二の丸への道を進む。
入園料は、さくら祭期間中のみとなっている。


左側は本丸で、手前の二の丸とは空堀で仕切られている。
散った桜の花びらが空堀に絨毯を敷き詰めたようだ。


空堀が本丸を取り囲むように掘られているのが分かる。
周囲の空堀は傾斜度40度、幅15m、深さ17mという規模を誇る。
各曲輪が空掘で仕切られているのが高遠城の特徴でもある。


二の丸跡の「高遠閣」
昭和十一年(1936)、町民の集会や観光客の便に供することが町の発展のため有意義であるとの思いから、
高遠出身の有志4名が建て、町に寄贈したものだそうだ。
国の登録有形文化財となっている。


二の丸城址公園


二の丸には、「天下第一の桜」碑が建てられている。
高遠城趾公園のタカトオコヒガンザクラは色の美しさとその規模から「天下第一の桜」と称されている。


二の丸から本丸へ通じる「桜雲橋」(おううんきょう
高遠城本丸を囲む空堀に架かっている。


桜雲橋を渡ると本丸跡への入口となる「問屋門」がある。
この門は高遠城下、本町の問屋役所にあったもので、問屋役所取り壊しの際に、
本丸御門があった跡に移築された。


問屋門をくぐると、右手に明治十四年(1881)に建てられた「公園の碑」がある。


本丸跡の桜
高遠城址公園には、いたるところに桜が植えられている。
満開の時に来ていれば、と悔やまれる。


本丸跡の勘助曲輪際に新城(盛信)・藤原神社が建てられている。
高遠城の戦いで織田軍と戦い、壮烈な最後を遂げた武田信玄の五男、仁科五郎盛信を祀った神社とある。


本丸跡の笹曲輪際に「太鼓櫓」が移築され、残されている。
江戸時代には、鼓楼は搦手門の傍らにあって、時を報じるのに太鼓で知らせていた。
時刻がくると、時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。


本丸から南曲輪へ至る橋
現在は土橋となっているが、本丸南東隅にある、中村元恒・元起記念碑を建てるために造られた、とのこと。


南曲輪
本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少(幸松)の頃、母お静の方と居住したところと云われている。


カメラを構える人の先には・・・


桜の木の間から雪を抱いた北アルプスが望める、”絶好の撮影ポイント”らしい。


法幢院(ほうどういん)曲輪
二の丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、
曲輪の東方には、幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。
かつて、ここには法幢院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が営まれた。
一般の人も参詣できるようにと、城の東、月蔵山のふもとの龍ケ澤に移り、
「桂泉院」と改名して現在に至っている、とのこと。


廣瀬奇壁(ひろせきへき)・河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の句碑


この辺りからも北アルプスを望むことができる。


いったん高遠城南口を出て、100名城スタンプが置かれている歴史博物館、高遠湖へ向かう。
かなり急な坂道を下る。


坂道の両側には、土産物などを売る店が並んでいた。


歴史博物館前に名君の誉れ高い保科正之公と生母お静の顕彰碑がある。
お静が正之公の大願成就を願い奉納した、金剛宝金剛幢金剛願の地蔵があり、これをお静地蔵と呼んでいる。
保科正之公のNHK大河ドラマ化を熱望する幟がはためいていた。


「絵島囲み屋敷」が公開されていたので、見学した。
絵島は、宝永元年(1704)の頃七代将軍家綱の生母「月光院」に大奥女中として仕えていた。
容貌が美しく、月光院の信頼も厚く、同僚にも慕われて出世し、大年寄(取締役)にまでのぼりつめた。  
その後、絵島は正徳四年(1714)芝居見物で知り合った人気役者「生島新五郎」と馴染になった。


絵島が住んでいた屋敷
大奥の権力争いから、増上寺墓参りの帰りに芝居見物をして、帰城が遅れたことを咎められ、
公務をおろそかにしたということで裁きを受ける身に。
そして役者生島新五郎と懇意になったという疑いをかけられてしまう。(当時大奥女中と役者との恋愛は御法度)
生島新五郎は三宅島に流罪、絵島は高遠に遠流(おんる:死ぬまで流される)の身となった。
絵島は月光院の口添えがあったため死罪は免れ、61歳で病死するまでの28年間をこの屋敷で幽閉の身を送った。


絵島が暮らしていた8畳の部屋


質素な住まいである。(写真は台所)
屋敷を囲む塀には”忍び返し”が付けられた物々しい造りであった。


高遠ダム
天竜川水系三峰川(みぶがわ)に建設されたダム。
高さ30.9mの重力式コンクリートダムで、灌漑と水力発電を目的とする多目的ダムである。


高遠湖は「ダム湖百選」に選ばれている。


信州高遠美術館の天守閣が見える。
なかなか格好良い。


信州高遠美術館
開館20周年記念として、片岡鶴太郎展(平成24年4月1日(日)~5月6日(日))が開催されていた。


信州高遠美術館から北アルプスを望む。


再び高遠城址公園に戻り、城内の空堀を歩いてみることにした。
南曲輪と法幢院曲輪を繋ぐ白兔橋を見上げたところ。


二の丸と本丸の間の桜雲橋からの景観は、高遠城跡には欠かすことのできないシンボルだそうである。


桜雲橋から勘助曲輪方向への空堀は通行止めになっていた。
そのため、桜の花が絨毯のように敷き詰められた状態のままだ。


二の丸跡の花見風景
大勢の客が今年最後の桜を楽しんでいた。


勘助曲輪駐車場から望んだ北アルプスの雄姿を記憶に留め、高遠城を後にした。



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