〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

河野良和氏の心理療法について②

2020-04-10 | 二つの心理療法について
「二つの心理療法について」ということで、今回は河野良和氏の心理療法の2回目である。

 かねてご紹介している岡野守也先生のコスモスセラピー(及び唯識心理学)と交互に取り上げる予定で、同セラピーについては本家・岡野先生のブログ(https://blog.goo.ne.jp/smgrh1992)をご覧いただいたほうがよほどいいのではないかと思うが、思いは尽きないので不肖・筆者のレベルでも語れることは語りたい。

 しかし岡野先生の場合と異なり、河野氏の心理療法については、絶版となった、しかもおそらく全く売れなかったらしい本(詳細後述)を除いて、世間そしてネットでも、どこにもそうした情報はない(20年来更新されていないらしい同氏の研究所のサイト以外)。


河野良和氏
河野心理教育研究所サイトより)

 なぜこうして交互に取り上げるかといえば、岡野先生と河野良和氏の心理療法が、双方を重要なところで補完する可能性があるためだ。補うなどと言えば両先覚者にたいへん失礼なようだが、そういう問題ではない。両者の業績は大げさではなく、あらゆる心理療法や自己開発につきものだった問題や限界を克服する可能性がある。

 双方とも人間のいわば「人間心理の真理」を別の側面から見ており、両者が重なる部分に注目することで相補的なものとなると思われるのである(言葉のあやだが、宗教がかった妙な「真理」ではない。横文字でトゥルースフルネスのことだとでも言えばニュアンスが通じるだろうか)。
 ともに「真理とはシンプルで美しい」(渡辺京二氏)という事情をよく表している心理理論・方法論である。そして、真理はより以上の真理になりうる、と言ってもよいだろう。

 しかし不肖、両者に熟達していないこの程度の身だからそう見えるということなのかもしれない。
 そこで実際そうであるかは、興味を持たれたらぜひ両氏の本を読まれご判断願いたい。幸い、どちらもアタマの学びとしてはたいへんわかりやすく整備されている。

 特に、前に記したように、岡野先生のコスモロジーセラピーはこれ以上ないくらいに素人にとって平易に語られている。しかし実践してみると凡人にとっては意外にハードルが高い。それは砕いて語られている内容が実際には日常レベルから高度かつ深いレベルまで幅が広いということもあるだろう。

 しかし、おそらくそればかりではない。平易に「そう思えば、そうなるはず」と記されていることが、筆者のような凡人レベルの人間には「そう思うことができない」「思ってもどうにもならない」ものとして体験されるからだ。そして大多数の人にとってもそうであろうと思う。
 特に精神的にマイナスを抱えた人にとってはなおさらだろうことは、筆者の過去の落ち込み体験からも容易に実感的に推測できる。

 その効果はきわめて高いことが理論的には確実に予測されるにもかかわらず、なぜかそうならない。
 おそらく「できる人」から見れば、「おなじ心の構造を持つおなじ人間なのに一体なぜ」「サボっているだけではないか」というところであろう。
 しかしその「できない」事情が、まさに「できない」こちら側にい続けてきた凡人たる筆者には、我が事として長らく実感されてきた次第である。
 うまく名状し難い、このモヤモヤとした内なる障害とは一体何なのか?

 これは、学んできた限りコスモロジーセラピーの不備でなどではなく、サイコセラピー一般に常について回ってきた問題であり、いわば「壁」なのだと見られる。
 その障壁・メンタルブロックの解除の努力は、コスモロジーセラピーでも常識のレベルで最大限試みられている。

 それでも、おそらく「できない人」はやはりその点で躓く。
 これは客観的に見て不可解・不条理な現象である。運良く「できる」人はそれでいいが、常に少数にとどまっているように見える。逆に、「できる」人ほど、なぜ他の多くの人がそうではないのか、実感的に理解できないことだろう。

 このいわば「難しくてできっこない」というメンタルブロック現象は、先述の高名なフランクル先生のロゴセラピーであろうと、その他何療法であろうと変わらず、むしろより高い壁として現れることに違いない。若い頃、件のロジャーズ派のカウンセリングで筆者が感じたのがまさにそれである。

 誤解のないように繰り返すが、コスモロジーセラピーでは上記のようにこの「壁」をなるべく低くするよう配慮されている。そして、それさえ超えれば極めて効果の高いことは、まだその途上にある身であっても容易に予測されるところである。

 しかしこれ程までに噛み砕いた親切な方法であってとも、というよりだからこそ、その「できる」と「できない」の壁がはっきりとした形で浮かび上がってくるのだと思われる。
 それがなぜかは、過去さらには現在でも、はっきり捉えられないままとなっている「心の謎」である――そう見えてならない。

 その結果、西洋心理学の実に一世紀半にわたる進歩にもかかわらず(思えば、それもメスメリズムのような催眠現象に端を発したものであった)、いまだにサイコセラピーなど精神医療の現場ではまったく影が薄く、というよりもあたかも無きが如しである。
 この不可解な心というブラックボックスに対しては、効果のあやしいそんなものより、ひたすら薬物療法ということに相なるわけだ。

 しかし、実際にはクスリの効果の程もきわめてあやしいことは、福祉・医療の現場におられる方にはまさに実感されているとおりである。
 筆者はたまたま多数の精神障害者に長期的に関わる仕事をしているが、クスリで治癒したというケースに一度でいいからお目にかかってみたいとかねてから思っている。現代の精神医療への批判についてはまた別の機会に譲る。
 たとえそんなものでも、少なくとも外面から入出力の対応関係が目に見えるというだけマシということなのだろう。医者も製薬会社も大いに儲かってなによりである。しかし儲けの種になっている患者にとってはそうではない。

 かくして、「思えば変わるはず」なのに「思ったとおりにならない」というこの不条理な現象は、明らかに現代でも「謎」のまま放置されている。
 これはその意味を考えると、大げさではなく人間にとって残された最大の謎である。河野氏に即して先に言ってしまえば、盲点に入ったかのように、誰もがそれを当たり前のことと「思って」いるのである。

 改めてこの心の不可解さ・不条理さは、コスモロジーセラピーのように、一般向けに可能な限りのところまでユーザーフレンドリーにされたときに、初めてはっきりと顕わになってくるのだと思う。
 特に日本人にとって、欧米由来の難しげな専門用語で語られる心理療法では、理解し改善することのできないのは何かこちら側のアタマの問題のように感じられてしまう。
 確かに、そんなセラピーの内的構図においては、この不可解なメンタルブロックがはっきり意識されることはなかっただろう。

 おそらく河野良和氏は、私たちの内にある「躓きの石」が何で、どのようにその「壁」を突破するのかを、心理学史上初めて明らかにしている。

 もちろん、ここで把握している「心理学史」など全くの管見の限りの狭い知識にすぎない。むしろそれが人間全ての普遍的な心理的事実であるとすれば、同じような「発見」は古今東西さまざまな人によってなされてきた可能性すら考えられる。
 そうした実例があればぜひご教示願いたい。しかしいずれにせよ、その洞察は日本語でアクセスできる情報としては、一般に全く知られていないのは確実である。

 河野氏の業績は、思えば奇妙なこの内的現象を、独自の心理療法を発展させる中で思いがけず発見したこと、そして専門家としてのキャリアを度外視して、このまさしく常識と正反対の「おとぎ話のような現象」(同氏)を、悩める人一般の利用に供したことにある。
 おそらく、先述のようにアカデミズムから距離をおいた立場だったからこそできた行動だったのだと思われる。

 それでも、これは勇気のいる行動だったに違いない。なぜなら、常識外れのことを公言すれば、信用を失いかねないのがあらゆる「業界」の常だからだ。その後、同氏が著作の続かないまま物故されたところから見て、実際そうなった可能性すら見て取れる。
 この現象を広く一般に伝えたい・伝えなくてはとのその志は半ばにも至らずに、残念ながら生涯を終えられたようだ。

 しかし、たとえ生前は日の目を見なかったとしても、その業績が今日でも多くの人に知られるべきものであることには少しも変わりない。
 出版状況やネットで見る限り、氏の業績の真価はおそらく誰にも知られていない。
 現在の危機状況下で、これを筆者一人の知識にとどめておくのは、たとえ一般的には「変な目で見られる」としても、もはやできない思いがするのである。冒頭に書いた「罪深い」というのはそういう意味である。
 しかし幸いな事にというべきか、この場はあくまで匿名のブログである。臆せず進みたい。

 くだくだと書いてきたが、催眠療法の日本での第一人者にして、豊富な臨床経験を持っていたという河野氏の発見のポイントは、次のようなものである。


・一見怪しげな催眠現象を引き起こす他者からの暗示とは、実は「聞こえてきたそのとおりに自分で思ってしまう」という形での、自らの「思い」による自己暗示である。すなわち、催眠の本質とは自己催眠なのである

・そればかりか、私たちのあらゆる「思い」は、催眠状態であろうと通常の意識状態であろうと、常に強力な自己暗示としての作用を持っている

・全ての「思い」がそうであるということは、「思い」の作用そのものに関してどのように「思う」かもまた、強い暗示効果を伴っていることを意味する。そして現実にそのようになっている

・このために、「そんなことありっこない」「思っただけではどうにもならない」という常識的な認識=「思い」もまた、現に暗示として働き、心はそのとおりにどうにもならないものとなってしまっている

・心理的な治療を妨げるこのブロックに対処するため、「思い」の中核にある暗示作用について、現象どおりに「すべての思いが暗示となっている」とはっきり知る=「思う」ことが重要となる

・さらに進んで、一般にあるかないのかわからないとされている「暗示」などというよりも、実際にはこの現象はあたかも「魔法の呪文」とでも表現すべきものである

・全ての「思い」がそうした強力な作用を持つ以上、その実態どおりに「この思いは『魔法の呪文』なのだ」と認識する=「思う」ことで、心理療法の治療効果は劇的なものとなる



 このように、私たちの内面における全ての「思い」が、あたかも「魔法の呪文」のように働いているのだという。
 これを読んだ方は、はたしてどう「思った」だろうか。

 河野氏によれば、「そんなことありえない」と「思った」とすると、思ったそのとおりありえないこととなる。実際、すべて「思った」とおりになっているわけだ。

 理屈としてこれが正しいことは、これから述べていくようにおそらく間違いない。しかしあまりに常識からかけ離れた話で、これを知って二十年以上経つ筆者も、腹の底から納得して使いこなすという意味では、まだまだその途上にいるにすぎない(これも「そう思っている」からそうなっている、ということになるだろう)。

 したがって、この常識外れの「心の第二条理」(河野氏)に徹し切れていない筆者がいろいろ言っても仕方がない。
 また、上記の骨子だけではピンと来ないのが当たり前だ。そのコツは河野氏がこれまたわかりやすく記されている。

 そこで、以降は河野氏自身のいまや絶版になった最後の著作(1996年)から直接引用しつつ、解説していきたい。
 この方法は、厳密には著作権上問題がある可能性があり、関係者の方から指摘されれば改める用意がある。

 しかし誰にとっても大切なはずのメッセージが広がるのであれば、そうすることが故・河野良和氏の遺志に沿ったものだろうと思われてならないのである。


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