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コスモロジーセラピーについて③ 競争主義と自信の喪失

2020-05-22 | 二つの心理療法について
 さて、サングラハ教育・心理研究所の岡野守也先生によるコスモロジーセラピーについて続けていきたい。
 前回、世界観・宇宙観に関する根源的な自信ということで、内容に少しだけ触れたが、その前に重要なのは「自信」とはいったい何なのかである。
 注目すべき現代科学版のいわば創世記、「宇宙と私の大きな物語」についてはその後に取り上げていく。

 理屈に走るようだが、コスモロジーセラピーは心理的健康の核にある「自信」を回復・増進する療法であって、この「自信」とは何かというポイントをつかまないと、何を回復し何を増進すればよいのか、ポイントがズレてしまうのではないかと思う。
 そういうわけで、コスモロジーセラピーでは前置きとして必ずその点が語られている。ここでも少し触れておきたい。

 再び重要なことは、ここでいう「自信」とは力みのない、ごく自然で柔軟な「自己信頼」のことである。

 日本特有なのかは知らないが、ふつうに世間で言われている「自信」とは、それとはかなりニュアンスが違っている。
 それはどこか不自然な力みがあって、相手に対して優越しているか、環境の中でバカにされないかどうかで、常に揺れ動くものという点が特徴だ。「自信過剰」「自信家」などという日本語は、その事情を示しているように思う。

 他人と比較し世間のモノサシを自分に当てはめて、自分が優越感を得られる分野で自分は優れていると思う心が「優越心」、さらにそれでふんぞり返っている心性が「傲慢」である。
 そして自分・自分で他人を認めないのが「うぬぼれ」や「ナルシシズム」という恥ずかしい姿である。
 それらが上記の自己信頼=本当の自信とは似て非なるものであることは、そう指摘されればおそらく誰にでもわかることだが、しかし一般に「自信がある」という心理状態はそのようなものであることになっている。

 しかし、これら優越感等は「本当の自信」ではない。
 そうではなく、コスモロジーセラピーがいう「本当の自信」とは、比較のモノサシを外し、客観的・絶対的根拠に基づいて、自分の長所と自分の能力をありのままに認められることである。

 後で見ていく宇宙観・世界観・生命観(コスモロジー)からすれば、例えば「目が見える」「息ができる」「言葉が理解できる」という基礎的レベルから、私たち人間は揺らぐことのない自信を持つことができるはずである。この自信の要素のリストアップはほとんど無限に可能である。

 さらに重要なことは、他人との間でそれを相互に承認しあう関係性のレベルも、自信の本質的な要素だということである。自己承認できる人は他人をも認めることできる。たしかにそうして周りの人とお互いを認め合えたら、多少の困難はあっても人生は楽勝だろう。

 そのベースにあって決定的なのは、言葉の動物である人間においては、心のうちで巡っている内語・セルフトークでどう「思う」かが心を決定づけているという事実である。
 これまでまさに「思ってもみなかった」ような宇宙的事実に基づいて、自分を認めるセルフトーク=思いを新たに心に浮かべ、それを繰り返し思い返し・思い巡らすことで、深く内面化していく。
 そうして心は実際に深いところから変わりうる、というメッセージがコスモロジーセラピーの核心にある。
 要するに、根本にあるのは「セルフトークの変革」ということである。つまり言葉が決定的に重要なのだ。

 もちろん、言葉を超えた人間の成長可能性は存在する。有名なA・マズローの図式で言うなら、例えば同じ岡野先生による唯識心理学は、言葉を超えた自己超越レベルを扱う中・上級編ともいうべきセラピー理論である。それに対しコスモロジーセラピーは自己承認・自己実現レベルに主として焦点を当てているのである。
 私たち人間にとって、普通のレベルでは言葉こそが決定的に重要なのだ。しかし現代、おそらくとりわけ日本では「言葉の軽さ・無力さ」は著しい。そうした中、「言葉の変革」自体を真正面から取り上げる心理学・心理療法のシステムは、今までなかったのではないかと思う。

 以上のポイントについても、ぜひ岡野先生のブログをご参照いただきたい。
 再三となるが、コスモロジーセラピーの理論・方法論については上記ブログでほぼ全面公開されている。いわばそちらの「本家」を当たっていただいた方が正確だし有効だと思う。また、併せてコスモロジーセラピーの根拠というかベースとなっている唯識心理学も、ぜひ多くの人に知ってほしいところである。
 ただし、骨格は不変であるものの、ブログのほとんどが十年以上前の記事であり、以降あまり更新されていない。現時点での到達点と、その間の重要な更新はぜひ近年の先生の一般向けの著作を当たっていただきたいと思う。



 さて、こう書いたものの、私自身まだまだその途上、というか第一歩目のところにいる一般人・クライエント側の一人にすぎない。このブログでは、その立場として、その視点からお知らせできることを記していきたいと思う。
 コスモロジーセラピー(以前の名称で言えばコスモス・セラピー―)については、先にも書いたように、出会ったのはもう15年以上も前のことになる。その自分がいまだ「第一歩」にいるというのは、もちろん私の怠惰さもあるし素質もあるのだろう。
 しかし、「アタマでわかっても気が進まない」というのは、どうも私だけに限った「抵抗感」ではないようだ。この抵抗はいったい何か、なぜ生じるのか、そしてそれをどう克服するのか。少なくともその見通しはほぼついてきたので、そのことはまた別に記したいと思う。

 戻れば、確かに、この競争社会では、一般に「自信」という言葉にないまぜとなっている「他人との比較によって左右される、不安感の裏返しとしての優越感」と「自然で力みのないあるがままの自己信頼」という、両者のはっきりとした区分けが、第一歩の作業として重要だと思う。
 常に他人との比較を強いられる競争社会では、現在とりあえず社会適応できていても、いつ「自分に競争力がなくなるのでは」という不安がいつも伴ってしまう。そうして他人を蹴落とすケチな心が生まれるわけだ。

 競争主義とは、「主義=イズム」である以上、心・内面の中にあるものである。外面世界に競争があるのは現実だし当面やむを得ない。ぜひがんばって適応してきたいものである。しかし、なぜそれを自分の心のうちにまで持ち込む必要があるのだろう。
 何より、やがて私たちは漏れなく「競争力のない」高齢者となり、一人の例外もなくやがては「競争力」を完全に失って人生を終えるのだ。いわゆる認知症など、まさにその典型の姿であろう。

 人生に不幸をもたらすだけでも、競争主義というのは心にとって無意味である。そればかりか、この「主義」は人生にはっきりと有害である。
 競争している限り、上記の本当の意味での自信は得られないのは原理的に明らかだ。しかしそんな競争主義を、私たちは学校の頃から強いられてきた。

 かなり以前に『完全自殺マニュアル』という本を批判的に取り上げたが、その著者・鶴見済なる人物は、明らかに学校的な競争主義に心底埋没した人物だった。奥付によれば確か東大卒だったと思う。全く愚かしい本であったが、しかし20年以上もたって振り返ってみれば、競争主義の成れの果ての病の、むき出しの姿を私たちに示してくれた点では、標本的な意味で評価していいように思う(今でも生存しているのだとしたらさらに格好の標本だ)。
 今ではそうした競争主義が小学校以前にまで下りてきているらしい。子どもたちの不安感・不安定感は増すばかりのように見える。

 上掲『コスモロジーの心理学』によれば、岡野先生がいくつもの大学の教室でアンケートを取ったところでは、学生(いわゆる偏差値の上の方から下の方まで)で「自分に自信があるか」についてアンケートを取ったところ、「自信がない」との答えが8・9割程度にも及んだそうである。
 これをお読みの方もご経験のとおり、学校における「自信」は、ほぼダイレクトに成績と結びついている。成績以外の要素で優越感という意味での「自信」を得ようとしても、あくまで二次的なものに過ぎない。
 そして成績で「自信」を得るためには、確かに少なくとも上位1・2割以内、おそらくはさらにそれ以上である必要がある。ということは、下位8・9割、つまり大多数は「自信」を喪失することになる。
 このアンケート結果は、たしかに私たちが経験してきた学校という競争の場の価値観の、正確な反映だと見られる。

 それにしても若者の大多数から自信を失わせる「教育」とは一体何なのだろう。

 巨視的に見ると、大競争(メガ・コンペティション)突入の時代として「競争」ということがやたらと声高に言われるようになった90年代以降、逆に日本の国から競争力は失われる一方だったたように見える。
 真のパワー=競争力とは、言うまでもなく基本的な自己信頼・自己承認にあふれた個人、相互承認に満ちた集団から生まれる。
 しかし集団的な競争力を上げようと個々人に競争を強いることで、かつてわが国の強みであった集団的競争力は却って損なわれ続けてきたのである。競争主義のパラドックスとでもいえるだろう。

 重要なのは国民集団、企業集団としての全体のパワー=競争力である。にもかかわらず、内部で個々人を競争させることによって、逆に全体として機能不全に陥る。なんとバカげた事態なのだろう。
 別に機会があれば書きたいのだが、主客分別の著しい西欧語からかけ離れた言語間距離のところにあり、とりわけ濃密な関係配慮を基調とする私たちの母語・日本語は、ここでいう「競争主義」に明らかに不向きなものである。

 それはともかく、これが教室でのアンケートにとどまるものではないことを、このブログで並行して取り上げている世界価値観調査の結果が示しているように思われる。というよりも、上記の日本人の自信喪失を教室でのアンケートにとどまらず裏付ける試みが、WVSを取り上げた当ブログでの連載の意図なのである。
 自己信頼=自信という観点で見たとき、それにかかわる調査項目での日本人の回答の低迷ぶりは、世界的に見て著しいものがある。
 国際調査の結果から見れば、個人的、社会的そして宇宙的レベルでの総合的な自信=自己信頼感において、おそらく日本人の自信喪失ぶりは世界一のレベルにある。そう結論しても過言ではないことも以降で見ていきたい。

 ともあれ、そうして喪失をあげつらって嘆くだけなら、少し調べれば誰にでもできることだ。
 重要なことは、コスモロジーセラピーこそ、現代の「自己信頼感」という意味での自信喪失を、深いところから回復させる実効性を持つということにある。
 そのことは、少なくとも理屈上は間違いないし、方法は体系的に整備されている。

 あとは私たちの実践あるのみなのである。

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