紫陽花はこれほどまでに往生の
潔しとは程遠き花 樋田哲夫
ツバキやサクラと違ってアジサイの散り方はぱっとしない。枯れて茶色になっても無残な姿をこの世に未練がましくしがみつかせている。往生際の悪いことこの上ない。武士たちから最も嫌われた花であったらしい。美しい花でありながら残念なことである。
潔しとは程遠き花 樋田哲夫
ツバキやサクラと違ってアジサイの散り方はぱっとしない。枯れて茶色になっても無残な姿をこの世に未練がましくしがみつかせている。往生際の悪いことこの上ない。武士たちから最も嫌われた花であったらしい。美しい花でありながら残念なことである。
陽に映えて白くけなげに咲く沙羅の
一日限りのことさらあはれ 樋田哲夫
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを表す
奢れる者は久しからず、唯春の夜の夢の如し
平家一門の栄華と滅亡を表す軍記物語で有名な「平家物語」の冒頭にある沙羅はよく知られる木。
一日限りのことさらあはれ 樋田哲夫
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを表す
奢れる者は久しからず、唯春の夜の夢の如し
平家一門の栄華と滅亡を表す軍記物語で有名な「平家物語」の冒頭にある沙羅はよく知られる木。
さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉
この句の詠者を伏せていたら、読者は凡句と一蹴するに違いない。が、実は、俳聖芭蕉の句である。となると、どこがいいのか分からないまま、今一度見直し、はてさてと探りをいれる。そして身構え、考え直し、理解しようとしたくなる。そうするうちに段々よくなってくるのだから、俳句とは不思議な力があるものだ。
梅雨晴れて長き願ひを矢田山の
あぢさゐ寺の花にめぐれる 樋田哲夫
大和郡山市・矢田寺は矢田山の山ろくに広大な寺域を持ち、アジサイで名高い。開花期になると駅と寺を結ぶ臨時バスが出るほど賑わう。昔一度訪ねたころに較べると寺へ向かう道路も開け、数軒のにわかな店も出ていた。
あぢさゐ寺の花にめぐれる 樋田哲夫
大和郡山市・矢田寺は矢田山の山ろくに広大な寺域を持ち、アジサイで名高い。開花期になると駅と寺を結ぶ臨時バスが出るほど賑わう。昔一度訪ねたころに較べると寺へ向かう道路も開け、数軒のにわかな店も出ていた。
なげけとて月やは物を思はする
かこち顔なるわが涙かな 西行法師
悲しみなさいといって月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、恋に疲れている私は月を見てなんとなく、こぼれる涙を月がそうさせるのたと、かこつけているのだ
かこち顔なるわが涙かな 西行法師
悲しみなさいといって月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、恋に疲れている私は月を見てなんとなく、こぼれる涙を月がそうさせるのたと、かこつけているのだ
久安寺の広きをめぐり一所
さながらモネの絵に佇めり 樋田哲夫
大阪から亀岡へ抜ける摂丹街道に面した池田市の真言宗久安寺は5月初旬のボタンのころは曼荼羅の浄土を思わせる庭園の花の寺であるが、アジサイを求めて6月9日に参拝してみると、少し早すぎた。久しぶりに目にした菩提樹も、まだつぼみだった。
さながらモネの絵に佇めり 樋田哲夫
大阪から亀岡へ抜ける摂丹街道に面した池田市の真言宗久安寺は5月初旬のボタンのころは曼荼羅の浄土を思わせる庭園の花の寺であるが、アジサイを求めて6月9日に参拝してみると、少し早すぎた。久しぶりに目にした菩提樹も、まだつぼみだった。
今来むといいしばかりに長月の
有明の月を待ちいでつるかな 素性法師
すぐに来るとあの人は言い残したばかりに、信じて9月の長い夜を待ち続けているうちに、朝方の月を見るまで、いたずらに待たされてしまったものよ。
有明の月を待ちいでつるかな 素性法師
すぐに来るとあの人は言い残したばかりに、信じて9月の長い夜を待ち続けているうちに、朝方の月を見るまで、いたずらに待たされてしまったものよ。
遠目にも白房立てて川中に
橡の一木は花盛りなり 樋田哲夫
トチノキは山地に生える高さ25~30㍍の大木であるが、白山スーパー林道ウォークでは川の中に自生しているのに驚かされた。大木ではないが、点在しがら数本を見かけた。20㌢前後の白い花穂を多数つけて、風にゆれる様子は目立っていた。鮮やかな緑の掌状複葉は男性的で爽快な気になる。
橡の一木は花盛りなり 樋田哲夫
トチノキは山地に生える高さ25~30㍍の大木であるが、白山スーパー林道ウォークでは川の中に自生しているのに驚かされた。大木ではないが、点在しがら数本を見かけた。20㌢前後の白い花穂を多数つけて、風にゆれる様子は目立っていた。鮮やかな緑の掌状複葉は男性的で爽快な気になる。