哲仙の水墨画

デジカメの風景写真、四季の草花、水墨画、書、短歌などを楽しみます。

関・広福寺(写真)

2017-06-29 07:17:22 | 写真
本堂の様式を見て僧に問ふ
曹洞宗と返りて驚く       樋田哲仙

 関善光寺近くを走行中にちょっとした寺を見かけて駐車場に車を停めた。広福寺とあった。突然の訪問である。寺の本堂は宗派によって建築様式がほぼ決まっているものだ。庭の掃除をしていたわかい僧に宗派を尋ねると曹洞宗と返ってきた。向拝がついているので曹洞宗には珍しい建築である。

四国歩き遍路(水墨画)

2017-06-28 07:10:00 | 水墨画
繰り返し想ひ出づるは四国路の
清き心に歩きし遍路      樋田哲仙

 今思うに、四国八十八ケ所の歩き遍路で結願したこを満足げに思い出す。36日の満願は早い歩きといわれる。初めの阿波の国は険しい山が多く、脱落す人がここで出るらしい。鶴山寺、太龍寺は峰に建つ。先ず足を痛めて歩けなくなり断念することになるが、無事済ませてひたすら歩いた。山での眺めは格別に思い出がある。 

関の七器山弁慶庵(写真)

2017-06-26 07:14:11 | 写真
俳句とて弁慶庵に立ち寄るは
広瀬惟然の元住居なり       樋田哲仙

 弁慶庵は関善光寺の裏山と背中合わせに建つ。蕉門十哲の一人広瀬惟然(いねん)の俳句記念館である。江戸中期関の酒造業の三男に生まれ、幼少期に名古屋の商家に養子として出るが、商いに不向きで読書と俳句に没頭する。ついに妻子を捨てて、関に戻り、わび住まいする。自ら弁慶庵と名づけ、剃髪して仏門に入る。芭蕉に心酔して弟子となる。これは人間として非道を生きる自由奔放さは感心できない。

切だつ絶壁(水墨画)

2017-06-25 07:09:54 | 水墨画
瀞峡の果つる辺りの目の前は
切り立つ岩に驚くばかり       樋田哲仙

 瀞峡は熊野川の志古が発着場としてジェット船の船旅である。激しい音を立てて初めは平凡な景色が過ぎるが進につれて最後の瀞八丁と呼ばれる辺りは切り立つ岩が目立ってくる。眼前に迫る絶壁は他所には見られない光景である。熊野の秘境である。 

法隆寺子規の句碑(写真)

2017-06-23 07:13:37 | 写真
子規の句碑あるを尋ねて法隆寺
聖霊院の池の畔に     樋田哲仙

 正岡子規の名句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は発表当時さほど評価を受けなかった。子規は日清戦争に従軍中喀血して、郷里に帰り静養し、回復するや帰京の途中、奈良、斑鳩に立ち寄っている。明治28年10月のことである。境内の聖霊院の前の鏡池の畔に句碑は建つ。

梅雨時に咲くタイサンボクの花(水墨画)

2017-06-22 07:17:42 | 水墨画
降り注ぐ芳しき香に振り仰ぐ
泰山木の純白の花      樋田哲仙

 タイサンボクの木は珍しくもないが、かといってどこにでもあるわけでもない。寺社や公園に見かけることが多い。大木となるため家庭には不向きのようだ。枝の頭頂に咲き、下か見ると葉に隠れて見えにくく、観賞用ではない。花は芳香が強く、木に近づくとすぐに分かる。

法隆寺の正午の鐘(写真)

2017-06-20 07:12:20 | 写真
昼時にたまたま合ひて法隆寺
子規の名句の鐘を聞きをたり       樋田哲仙

 法隆寺を訪ねて、予期もせぬ法外な幸運に巡り合えた。無料休憩所の売店の女性ととりとめのない話をしていると、女性が正午が近いから鐘がつかれると教えてくれた。急いで階段をのぼり、薬師堂の脇の鐘つき堂へむかった。まさに今つかんとするところであった。子規が句に詠んだ鐘である。これほどラッキーなことはない。

この景に月が出ていたら(水墨画)

2017-06-19 07:09:37 | 水墨画
月の出の刻限までに間のありて
待つは叶はぬ信濃路の旅        樋田哲仙

 月を観賞するには騒然とする市街地では似合わない。寂しさを伴う田舎の風景がよい。林とか山がある条件が必要となる。赤みを帯びた満月が山の稜線に登り始めると歌が生まれそうだ。昼間ではそうはならない。夕方までは時間がありすぎて待ってはいられない。が、想定するだけで信濃路の旅に満足である。  

法隆寺児童らの列(写真)

2017-06-17 07:10:38 | 写真
いく校の児らがノートに列なして
ひと日を学ぶ法隆寺かな       樋田哲仙

 法隆寺は歴史も古く、科書にも登場して、全国に名を馳せた寺である。境内には多数の学校の児童らが一日学習として来ている。5,6年生か先生に引率される光景を見かけた。さすがに法隆寺の光景である。