本堂の様式を見て僧に問ふ
曹洞宗と返りて驚く 樋田哲仙
関善光寺近くを走行中にちょっとした寺を見かけて駐車場に車を停めた。広福寺とあった。突然の訪問である。寺の本堂は宗派によって建築様式がほぼ決まっているものだ。庭の掃除をしていたわかい僧に宗派を尋ねると曹洞宗と返ってきた。向拝がついているので曹洞宗には珍しい建築である。
曹洞宗と返りて驚く 樋田哲仙
関善光寺近くを走行中にちょっとした寺を見かけて駐車場に車を停めた。広福寺とあった。突然の訪問である。寺の本堂は宗派によって建築様式がほぼ決まっているものだ。庭の掃除をしていたわかい僧に宗派を尋ねると曹洞宗と返ってきた。向拝がついているので曹洞宗には珍しい建築である。
老いらくの来むと知りせば門閉じて
あはれあな憂と会はざらましを 詠み人知らず
老いが訪れてきて私を虜にしてしまうことが、分かっているなら私は門をしっかりと閉ざして付け入る隙も与えず合わなかったものを。
あはれあな憂と会はざらましを 詠み人知らず
老いが訪れてきて私を虜にしてしまうことが、分かっているなら私は門をしっかりと閉ざして付け入る隙も与えず合わなかったものを。
俳句とて弁慶庵に立ち寄るは
広瀬惟然の元住居なり 樋田哲仙
弁慶庵は関善光寺の裏山と背中合わせに建つ。蕉門十哲の一人広瀬惟然(いねん)の俳句記念館である。江戸中期関の酒造業の三男に生まれ、幼少期に名古屋の商家に養子として出るが、商いに不向きで読書と俳句に没頭する。ついに妻子を捨てて、関に戻り、わび住まいする。自ら弁慶庵と名づけ、剃髪して仏門に入る。芭蕉に心酔して弟子となる。これは人間として非道を生きる自由奔放さは感心できない。
広瀬惟然の元住居なり 樋田哲仙
弁慶庵は関善光寺の裏山と背中合わせに建つ。蕉門十哲の一人広瀬惟然(いねん)の俳句記念館である。江戸中期関の酒造業の三男に生まれ、幼少期に名古屋の商家に養子として出るが、商いに不向きで読書と俳句に没頭する。ついに妻子を捨てて、関に戻り、わび住まいする。自ら弁慶庵と名づけ、剃髪して仏門に入る。芭蕉に心酔して弟子となる。これは人間として非道を生きる自由奔放さは感心できない。
子規の句碑あるを尋ねて法隆寺
聖霊院の池の畔に 樋田哲仙
正岡子規の名句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は発表当時さほど評価を受けなかった。子規は日清戦争に従軍中喀血して、郷里に帰り静養し、回復するや帰京の途中、奈良、斑鳩に立ち寄っている。明治28年10月のことである。境内の聖霊院の前の鏡池の畔に句碑は建つ。
聖霊院の池の畔に 樋田哲仙
正岡子規の名句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は発表当時さほど評価を受けなかった。子規は日清戦争に従軍中喀血して、郷里に帰り静養し、回復するや帰京の途中、奈良、斑鳩に立ち寄っている。明治28年10月のことである。境内の聖霊院の前の鏡池の畔に句碑は建つ。
昼時にたまたま合ひて法隆寺
子規の名句の鐘を聞きをたり 樋田哲仙
法隆寺を訪ねて、予期もせぬ法外な幸運に巡り合えた。無料休憩所の売店の女性ととりとめのない話をしていると、女性が正午が近いから鐘がつかれると教えてくれた。急いで階段をのぼり、薬師堂の脇の鐘つき堂へむかった。まさに今つかんとするところであった。子規が句に詠んだ鐘である。これほどラッキーなことはない。
子規の名句の鐘を聞きをたり 樋田哲仙
法隆寺を訪ねて、予期もせぬ法外な幸運に巡り合えた。無料休憩所の売店の女性ととりとめのない話をしていると、女性が正午が近いから鐘がつかれると教えてくれた。急いで階段をのぼり、薬師堂の脇の鐘つき堂へむかった。まさに今つかんとするところであった。子規が句に詠んだ鐘である。これほどラッキーなことはない。
いく校の児らがノートに列なして
ひと日を学ぶ法隆寺かな 樋田哲仙
法隆寺は歴史も古く、科書にも登場して、全国に名を馳せた寺である。境内には多数の学校の児童らが一日学習として来ている。5,6年生か先生に引率される光景を見かけた。さすがに法隆寺の光景である。
ひと日を学ぶ法隆寺かな 樋田哲仙
法隆寺は歴史も古く、科書にも登場して、全国に名を馳せた寺である。境内には多数の学校の児童らが一日学習として来ている。5,6年生か先生に引率される光景を見かけた。さすがに法隆寺の光景である。