ある医療系大学長のつぼやき

鈴鹿医療科学大学学長、元国立大学財務・経営センター理事長、元三重大学学長の「つぶやき」と「ぼやき」のblog

大学改革の行方(その2)

2012年08月21日 | 高等教育

 お盆休みは三重の実家でずっと論文書きをしていて、やっと完成。「大学病院における鍼灸診療の経験」という6月に開催された第61回全日本鍼灸学会での会頭講演の内容をまとめました。私が三重大学長だった2007年に、私立の鈴鹿医療科学大学(鈴大)との間で包括連携協定を結び、その連携事業の一環として2010年から三重大病院で鍼灸外来がはじまったんです。鈴大には、鍼灸学科があり、その卒業生の鍼灸師と鈴大の教員が三重大で鍼灸診療に携わっています。私は鍼灸の専門家ではないのですが、そんな経緯もあって、この2年間の三重大病院での鍼灸外来の経験を報告しました。

 さて、今日は、前回の鼎談のお話の続きですね。鼎談から少し日が経って、記憶もぼちぼち薄れかけているのですが、財務省主計官の神田さんが強調されていたことを思い出しますと、一つは、わが国の財政がどうしようもないところまで来ていること、二つ目は「選択と集中」は世間ではあたりまえのことであること、三つ目は、大学の幹部の皆さんとお話しすると、大きな危機感をいだいておられるが、果たして一般の教職員の皆さんまではどうなんだろうということ。4つ目は、急減している若年人口に比して大学が多すぎるので、身の丈に合う程度に減らすべきであること。この他にもいろいろとおっしゃいましたが、だいたいは、神田さんのご著書にお書きになっていたことだったと思います。

 地方国立大学の学長であった私には、「選択と集中」という言葉を聞くたびに、あるいは「傾斜配分」や「メリハリのついた予算配分」でも同じことなのですが、地方大学の予算をいっそう削って上位大学との格差をますます拡大させるということなんだな、と、とってもいやーな感じになるんです。

 実際、平成19年の財政制度等審議会の資料に、国立大学への運営費交付金を科研費の取得額で配分するという試算が出され、それによると多くの地方大学の運営費交付金が半減するということでしたからね。当時の朝日新聞は「競争したら国立大半減?三重など24県で『消失』」と報道しました。どうして「三重など」と名指して報道されるのかよくわかりませんでしたが、そのおかげで、私は緊急記者会見を開いて、地方大学の意義を記者の皆さんに訴えることになりました。そうしたら、三重県知事と津市長がさっそく動いてくれて、近畿知事会と全国知事会の反対決議にまでいったんです。その結果、当時の骨太の方針の原案の、「運営費交付金の『大幅な傾斜配分』」という文言が、急遽『適切な配分』に変更されたんです。

 そのような地方大学切り捨ての「選択と集中」政策に対して、当時私が反論した主な論拠としては、以下のようなことがあげられます。

1)研究費あたりの論文数では、地方大学の方がむしろ多く、効率的に論文を産生していること。

2)すでに、日本の大学間には欧米諸国に比して十二分に急峻な傾斜配分がなされており、その傾斜の角度をさらに急峻にしても、わが国全体としての国際競争力が高まるとは思えないこと。

3)地方大学は、その地域にとってかけがえのない存在意義を有しており、大学を評価する際には、一つの評価軸だけではなく、地域貢献機能などを含め、複数の評価軸で評価するべきこと。

 ただし、私は「選択と集中」そのものに反対していたのではなく、「選択と集中は両刃の剣」という表現を使って、警鐘をならそうとしたわけです。実際、「選択と集中」で成功した企業もありますが、誤った「選択と集中」をしてつぶれた企業もごまんとあるはずですからね。

 あの「選択と集中」企業の成功例とされていたシャープでさえも、今、苦境に立たされていますね。当時、三重県がシャープを亀山市(私の実家のあるところ)に誘致した時、本省のある官僚の方が三重大学を訪問し、学長の私に対して「シャープが来たのだから、三重大も液晶の研究で選択と集中をしたらどうですか」とおっしゃいました。今となっては、その話に乗らなくて、ほんとうに良かったと思っています。当時のシャープの株主総会の記録を見ても、経営陣はある株主から、「選択と集中」のやりすぎではないかとの質問をされていました。

 一方、日立のような、インフラ事業まで手広く範囲を広げて、どちらかというと「選択と集中」をせずに多様性を保ってきた企業が今生き延びていますね。

 「選択と集中」はもともとゼネラル・エレクトリック(GE)社のCEOジャック・ウェルチ氏が、シェアが1位または2位の事業を選択して集中するという経営方針を打ち出したことに始まると言われていますが、GE社の場合、「選択と集中」とはいっても、電気機器、医療用機器、原子力・水力発電、素材産業、航空機、ロケット、軍事産業、メディア産業、金融業など、実に多様な事業を展開しています。これで、よくも「選択と集中」と言えたものですね。

 あるいは、GE社が示していることは、「選択と集中」が成功する条件は、一つを捨てても、他に戦えるものをいくつも持っていること(多様性)ということになりませんかね?

 いずれにせよ「選択と集中」をしさえすれば成功するというような単純なものではなく、リスクにもなる両刃の剣ということだと思われます。少なくとも「選択と集中」をする(予算削減以外の)目的・目標を明確にし、捨てることによるダメージと集中することによるメリットの差引を慎重に検討した上で、決められるべきでしょうね。

 国立大学間の選択と集中の結果、日本国全体としての国際競争力や、あるいは地域再生力が低下しては、本末転倒だと思います。実は、私は、その目的実現のためには、大学間の選択と集中というよりも、大学(科学技術も含む)以外の予算を削って大学(科学技術も含む)へ振り向けるような「選択と集中」が必要だと考えているのです。そのためには、もちろん、大学が、国民に他の予算を削ってまで大学に予算を集中してもいいと思っていただけるだけの改革を示す必要がありますけどね。


  さて、地方大学について、鼎談のお二人がどのようなお考えをもっておられるのか、お二人のご著書の中から、示唆がえられるところを引用してみましょう。

 

神田眞人著「強い文教、強い科学技術に向けて」p213の1~8行および注63)

 「もちろん、ランキングはその順位を決めるファクターによるので、一概に大学の良し悪しを言うこともできないが、少なくとも国際競争力や大学としての存在意義を持ち続けるためには、各都道府県に同じような大学をつくるのではなく、競争力を持った先端の教育研究を行う大学と地域に根差したコミュニティーカレッジのような大額(注63)とに分化・特化していくことも含め、大胆な大学改革が必要となってきている。」

 「注63) 地方大学を軽視する趣旨ではない。「東大に集中しすぎると他大学で人材と学問が育たなくなるが、学問を発展させるためには、多様な考え方と多様な人材が必要・・・地方大学は、それぞれの地方での『地の拠点』として重要な役割を果たしている」(「地方大学は生き残れるか」黒木登志夫(2010)(中央公論2010.2)p62-63)といった主張は承知しているし、地方大学独自の様々な試みには興味深いものもある。

 例えば、「大学大競争」(読売新聞大阪本社(2003)p77―100)は、地方からの挑戦として、愛媛大学、鳥取大学、姫路工業大学などの活躍を紹介している。東日本大震災においても、小生自身、福島第一原発事故による原子力災害対応に携わる中、長崎大学大学院医歯薬学総合研究科等の放射線医療におけるプレゼンスを認識した。

 従って、大切なのは、横並びで全部必要だ、全部不要だ、という乱暴な議論をするのではなく、少子化時代における財政持続可能性の観点からも、各大学の強み弱み(プロファイル)を的確に把握して、将来像を議論していくことだと考える。」

  本間政雄さんのお考えについては、前のブログで引用させていただいた「狭まる大学包囲網・・・国家戦略としての大学政策はあるのか?」の中の「地方国立大学のミッションの再定義とは?」に詳しく書かれています。その章の最後の段落を、再掲することにします。

「たとえば、すべての県に国立大学の工学部や農学部が置かれれば理想的であるが、県域を越えて通学が可能な、たとえば三重大学、岐阜大学、名古屋工業大学などは集約・統合・再編成が可能ではないだろうか?つまり、2ないし3つの県を一つの単位に考え、その中に必ず国立大学の工学部や農学部を置くという考えに転換するのである。

 県域を越えた学部・研究科の統合は、こういうケースに限定すべきで、例えば「第二東北大学」構想のように、秋田、弘前、岩手、山形各国立大学の工学系学部をどこか1か所に集約するという案は取り上げるべきでない。と同時に、地方国立大学の運営費交付金は原則として削減するべきではないと考える。規模は縮小するが、交付金のレベルは維持すれば、相対的に教員の数も財政も余裕が生じる。その結果、人材育成の面でも研究成果の面でも質は必ず向上する。」

 

 このような文面から、お二人とも、改革を求めつつも、地方(国立)大学の存在意義について、お認めいただいていることがわかりますね。

 文科省の「大学改革実行プラン」(p12)においても、「大学COC機能の強化について」が書かれています。COCとはCenter of Communityの略ですね。COC拠点形成が、地方大学の大きな存在意義の一つになりうるという主旨だと思います。(三重大学では、このページに書かれていることは、すでにすべて実行してしまったと思いますが・・・)

 そんなことで、鼎談のお二人と、文科省の大学改革実行プランにおける地方大学についての認識が、大筋で一致しているように感じられ、元地方国立大学長であった私の立場としては、少し安心をさせていただいた次第です。もっとも、「財政持続可能性」の観点から大学予算の削減を求められる段になると、話が違ってくる可能性もあるのではないかという懸念は消えません。

 もう一つ、私は臨床医学の出身なので、大学病院についても神田さんがどういうお考えなのか気になっていたところでした。法人化後の大学病院に対する交付金の大幅削減に対して、私は国立大学協会の病院経営小委員会の委員長として、さまざまな制度改革に取り組み、そして各国立大学病院も懸命の増収努力をしたわけです。

 神田さんは大学病院のおかげで事業費が増え、感謝しているとおっしゃいました。

 神田さんのご著書の207~208ページのグラフを見ると、確かに国立大学法人の事業費は毎年相当額増加していますね。

 神田さんの文章の中に「使える金額が増えているのに大学側の不満は減らないどころか寧ろ増えているのが実情である。何故不満が減らないかといえば、つまるところ配分の問題ではないかと思われる。」とあります。

 ただ、私から言わせていただくとすると、このようなグラフやデータからは、大学病院のデータを除くべきではないでしょうか。事業費の増は、すべて大学病院の収益と費用の増で説明できると思います。

 また、209ページの教員と職員が増えているグラフですが、これも大学病院のデータを除くべきではないでしょうか。大学病院では7:1看護体制を満たすために急速に看護師の数を増やしましたからね。

 また、一見グラフでは教員数の数がかなり増加しているように見えるのですが、その数字を読むと、H16年60997人から、H22年61690人への増ですから、693人の増にとどまっています。これは、おそらくは余力のある大学での特任教員という形での増であろうと想像されます。

 大学病院のデータを、大学全体のデータに含めることで、正確な判断を誤らせることにつながる可能性を懸念します。神田さんがお書きになっている「使える金額が増えているのに大学側の不満は減らないどころか寧ろ増えている」ことの理由としては、私は、大学病院の収益と費用の増によって、大学の使える金額が増えているだけであって、病院以外のセグメントでは、特に余力の小さい大学で、運営費交付金の削減によって教職員数が減らされて不満が増えており、大学病院についても、増収がもとめられて研究をする時間が少なくなって不満がつのっているということだと考えています。そして、それが、論文数の停滞~減少という形で、鋭敏にデータに反映されていると考えます。

 いずれにせよ、神田さんが大学病院を評価していただいていることには、たいへんうれしく思いました。

(このブログは、豊田個人の感想を述べたものであり、豊田が所属する機関の見解ではない)

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