ある医療系大学長のつぼやき

鈴鹿医療科学大学学長、元国立大学財務・経営センター理事長、元三重大学学長の「つぶやき」と「ぼやき」のblog

果たして日本の大学の研究生産性は低いのか?

2019年01月19日 | 科学

統合イノベーションン戦略などの閣議決定文書を読むと、政府は公的研究費や研究者数は先進国と遜色なく、問題は日本の大学の研究生産性が低いことであると断定し、そして、国立大学の研究生産性を高めるために、いっそう厳しく共通指標で評価し、基盤的な運営費交付金の大幅な傾斜配分(メリハリ)をしようとしています。

この政策は、日本の大学の研究生産性をいっそう低下させ、海外先進国との研究力の差をさらに拡大すると想定されます。

そもそも、日本の公的研究費と研究者数が先進国と比較して遜色がなく、そして、日本の大学の研究生産性がほんとうに低いのでしょうか?

僕の著書では、日本の公的研究費と研究従事者数は先進国と比較して約1.5~2倍以上の開きがあり、研究生産性は遜色がないという結論を述べています。なぜ、このような最も基本的で重要ななデータの判断が異なるのか、不思議でなりません。

昨年末に、文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP)から、日本の大学の研究生産性が必ずしも低くないというレポートが出されています。

論文の生産性分析を考える:分析者・利用者が確認すべきことと、分析を実施する上での課題

僕の著書「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」においても、このレポートと類似の分析をして、日本の大学の研究生産性が海外先進国と比較して遜色のないことを示しています。

今、政府はEBPM(根拠に基づく政策立案)の重要性を強調していますが、このように最も基本的なデータの判断が大きく違うわけですから、政策立案をする前に、さまざまな立場の関係者がデータを持ち寄ってクリティカルに、また、フランクに吟味できる場を早急に創るべきであると思います。

僕は、日本の公的研究費や研究従事者数が海外先進国との1.5~2倍の開きを埋めようとすれば、約1兆Ⅰ千億円から2兆2千億円の公的研究資金の投入が必要であると試算していますが、これは、財政難の折、たいへん難しいことであると思います。しかし、海外先進国に比較して、公的研究資金と研究従事者数が「遜色ない」という間違った情報を国民に示すのではなく、1.5~2倍の開きがあるという現実を示した上で、国民に判断をゆだねるべきであると思います。

科学立国の危機失速する日本の学術研究力[豊田長康]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「若手教員比率」の落とし穴

2019年01月13日 | 科学

前回のブログで、大学院生の使い捨て問題について、沖縄科学技術大学院大学(OIST)では大学院生を少数に絞って、人財育成に重きを置いていることが伺われること、ただし、潤沢な研究資金が投入されていることをお話ししたところ、彦朗さんからまた、コメントをいただきました。

 

彦朗

19/01/11 19:22

>大学院生を労働力として使い捨てにしない研究環境を整えるには、政府が大学への研究資金を他の先進国並みに

これはちょっと頂けません。まるで学生を人質に取っているように読めてしまいます。研究資金がどうであろうと、学生を使い捨てにしてはいけません。
また、大学院生の労働問題は2000年頃から盛んに叫ばれていますが、その頃は予算も比較的潤沢だったのではないでしょうか?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/5828/index.html

 

彦朗さんは、以前(20年ほど前?)に、基礎生物系の大学院生としてずいぶんと辛い目に遇われたようですね。彦朗さんのサイトを読ませていただき、その当時の状況がやっとわかりました。

僕自身の研究者のキャリアーとしては、研究指導者の面では良い先生ばかりで、幸いでした。一方、当時僕が見聞きした範囲においても、研究費をけっこう獲得できている先生で、若手を労働力としか見ていないと思われる先生がおられましたね。超一流の研究者についても、今だったらアカハラで訴えられていたかも、という声が聞こえてくることがありますね。

彦朗さんのおっしゃるように、この問題は、指導者の資質も大きく関係していますね。研究費が少なくても、良い指導者の元で研究ができたら、大学院生としてはかけがえのない経験が積めるかも知れません。

 僕も、前回の彦朗さんへの説明の中で、ロジックの基本である「逆必ずしも真ならず」をうっかりと無視してしまいましたね。

「大学院生を使い捨てにしていないOIST ⇒ 研究資金が潤沢に投入されている。」

の逆の

「研究資金を潤沢に投入すれば ⇒ 大学院生を使い捨てにしない。」

とは、必ずしも言えないということですね。なぜなら、大学院生を使い捨てにする要因としては、僕が考えた「研究資金の不足のために大学院生を労働力として使わざるを得ないプアな研究環境」ということ以外にも、「大学院生を労働力としてしか見ることができない研究指導者の資質」もあるからですね。ひょっとしてこれらの他にも要因が考えられるかもしれません。

今回の僕の「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」においては、指導者の資質の問題については、残念ながら言及できていません。彦朗さんのようなケースを防止するための方策については今後の課題とさせていただきたいと思います。

 ただ、僕の著書では、若手研究者の意見を一部ですが紹介しています。これは、文科省の科学技術・学術政策研究所の「科学技術の状況に係わる意識調査」(NISTEP定点調査)の自由記載(ネットで見れます)から引用しています。

この自由記載欄を読むと最近の若手研究者や若手教員の大変な状況や不満が、よく伝わってきます。無能なシニア教員に対して早く辞めて欲しいという意見もありますが、国立大の運営費交付金削減等による教員ポスト減少によって昇任チャンスが減ったことに対する不満や、生計の不安定なポスドクを脱してやっと助教になっても、任期制教員ポストが増えており、生計の不安定さが延々と続くことに対する不満が多いです。そして、このような若手研究者のキャリア環境の厳しさが、博士課程に進学する学生数の減少に結び付いているという意見もあります。

政府は、シニア教員を早く転職させるようにしむけて、その分若手研究者を早期に教員に採用するように求めているようです。そして若手教員比率(40歳未満)を高めることを国立大学の評価の共通指標として評価し、運営費交付金を傾斜配分(メリハリ)しようとしているようです。

僕も若手研究者のキャリア環境は、なんとか改善する方向で検討していただきたいと思います。ただし、「若手教員比率」という指標を各大学の評価の共通指標とすることについては反対です。

その理由の一つが、今回僕もうっかりして陥ってしまったわけですが、先ほどの「逆必ずしも真ならず」というロジックの基本を無視してしまうことになるからです。

「研究生産性を向上させ若手研究者のキュアリア環境を改善させると想像される一つの案 ➡ 若手教員比率上昇」

の逆の

「若手教員比率を高めれば ➡ 研究生産性が向上し、若手研究者のキャリア環境が改善する」

ということは必ずしも言えないからです。

若手教員比率を上下させる要因はたくさんあります。たとえば、教員の定年の低年齢化(高年齢化)、また、教員(助教)採用年齢の低年齢化(高年齢化)があります。教員ポスト(定員)の削減(増)は一時的に若手教員比率を低下(上昇)させます。ただし、若手はそのうちシニアになりますから、中期的には若手教員比率は元にもどります。つまりポスト(定員)の増減は若手教員比率には中立的です。

テニュアトラック制は、若手研究者に自立した研究をさせて、研究能力を評価した上で教員に採用する方式ですが、教員採用年齢が高めになるので、若手教員比率を下げる要因となります。そんなことをせずに、もっと若い研究者を早く助教にした方が若手教員比率は高まります。外部の優秀な教員を准教授や教授で採用することは、若手教員比率を低める方向に働きます。内部昇格で助教を准教授や教授にすれば、助教のポストが空くので、若手研究者を教員にすることができますが、外部から准教授や教授を採用した場合には、助教のポストが必ずしも空くとは限らないからです。

国立大学が法人化された2004年に三重大学の学長になった僕は、さっそく、定年後の特任教員制度を始めました。彼らに大学からは給与を支給しませんが、つまり無給ですが、教育・研究・産学連携活動に尽力していただき、外部資金も獲得していただけます。大学にとってはこれほどありがたい存在はないと思うのですが、若手教員比率を低めることになりますから、若手教員比率が共通指標に設定されると、こういう生産性の高い人事もできなくなります。

実は日本のメジャーな学術分野で唯一臨床医学論文数だけは増えているのですが、この原因は、大学病院の経営改善によって医師数が増えたことにあります。そして、若手教員が減ったわけではなく、シニア教員が増えたために、若手教員比率が急速に低下しています。臨床医学においては、若手教員比率が低下したにも関わらず、ある意味での研究生産性は高まったのです。

職階のヒエラルキーを激しくする、つまり、助教の数に対する教授・准教授の比率を小さくすれば、若手教員比率を高める方向にプラスになります。若手教員比率を高める最も確実な方法は、職階のヒエラルキーを激しくした上で、助教を全員任期制にして、シニア(40歳)になる前に、辞めさせることです。しかし、これではせっかく優秀な助教が見つかった時に、准教授や教授に抜擢することもほとんど出来ませんね。そして、このようなキャリア環境を若手研究者が希望しているわけではないと思います。

「若手教員比率」を国立大学の評価の共通指標とすることは、全国立大学にそうすることを求める訳ですから、40歳未満で辞めざるを得ない助教や、あるいは早期退職をするシニア教員が他の国立大学の准教授や教授、あるいは特任教員に採用されるチャンスは、彼らがいくら優秀であっても極めて小さくなります。そして教員の流動化という面ではマイナスに働きます。これは一種の「合成の誤謬」という現象が起こることになりますね。

さらに、日本の大学の若手教員比率が低下していることが問題視されているのですが、スイスや韓国など、日本よりも若手教員比率が低いけれども、研究生産性の高い国がいくつかあります。また、OISTは日本の中で、最もインパクトの高い論文を産生している研究機関の一つですが、若手教員比率は他の国立大学よりも低いと想定されます。また、2016年にScienceという有名な学術誌に発表された論文では、Random Impact Ruleが提唱されています。これは、一流の研究者の生涯のうちで最もインパクトの強かった研究は、年齢によらずランダムに生じていることを示したものです。2002年にノーベル化学賞を受賞したジョン・B・フェン博士はエール大学を退職させられてからの研究で受賞したとのことです。

このようなことを考えると

「若手教員比率を高めれば ⇒ 研究生産性が高まり、若手研究者のキャリア環境が改善する」

とは、到底言えないことがわかります。

蛇足ですが「若手教員比率」を高める超裏技をご紹介しましょう。それはポスドク等の若手研究員に対して、給与等の条件はいっさい変えずに、「特任助教」という称号だけを与えることです。そして、彼らが40歳に達したら、元の研究員の称号に戻します。これで、ポスドクが多く存在する旧帝大クラスの大学では「若手教員比率は」一気に高まります。ただし、研究生産性が今よりも高まることもないし、若手のキャリア環境の改善もなされるわけではありませんね。

「逆必ずしも真ならず」に注意することの他に、「若手教員比率」の上昇が最終的な目的・目標の達成に、いったいどの程度寄与するのか、という観点も重要です。例えば「若手教員比率」を法人化前の値に引き上げた場合に、いったい研究生産性が何パーセント上がると期待されるのでしょうか?僕は上がったとしてもごくわずかであると想定します。そして、研究従事者数を増やして論文数を増やした先進諸国との研究競争力の差は、ほとんど縮まりませんね。つまり、最も大切な目的である、研究面での国際競争力を高めることには、ほとんど寄与しない指標であると考えられます。

このように「若手教員比率」というのは、一見単純そうに見えますが、たいへん複雑で難しい指標であり、落とし穴がたくさんあります。

なお、「若手研究者比率」という指標は、「若手教員比率」とは、似て非なる指標です。先ほどお話ししましたようにOISTの「若手教員比率」は低いと想定されますが、「若手研究者比率」は高いと想定されます。ただし、「若手研究者比率」を大学評価の共通指標にすることにも、大きな問題があります。

今、行政は国も地方もKGI,KPIブームで数値目標で溢れかえっています。しかし、数値目標の設定は、特に評価指標として資源の配分の根拠として用いる場合には、慎重にも慎重を期す必要があると思います。不適切な数値目標を設定してしまうと、効果があるどころか、弊害が生じてマイナスになることもありえます。1990年代に日本の企業が欧米の成果主義評価を導入した際、皮相な結果主義評価となって業績が下がり、総合評価に修正を余儀なくされた轍を踏まないようにお願いしたいと思います。

 

科学立国の危機失速する日本の学術研究力[豊田長康]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」ウラ話の3(GDPの質問への回答)

2019年01月10日 | 科学

前回、論文数とGDPとの関係性について簡単に説明しましたが、彦朗さんから、さらにいくつかのコメントをいただきました。

「真摯なご応答ありがとうございます。

気になる点と致しましては、
・『論文数(≒大学の研究教育力)』といってよいのか?
論文が多くても学生を労働力として使い捨てにしているような場合は教育力が高いとはいえないですよね。
・GDPとの相関
GDPが上がれば論文数が増える、という経路なら容易に想像ができますが、それならまず増やすべきはGDPということになります。
・OECDのデータ
日本のここ数十年のデータを解析しなければ意味が無いと思われます。そのデータで論文を増やせばGDPが上がる相関があるなら、論文を増やすべきといえますし、相関がないなら、まずなぜないのかを考えずに盲目的に増やしてもダメということになります。」


いずれも、的を射たご質問です。詳しくは、「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」をお読みいただきたいと思いますが、ここでも、簡単に回答をさせていただきます。

まず、「『論文数(≒大学の研究教育力)』といってよいのか?」のご質問についてです。ここで、ご理解いただきたいのは、「論文数」というのは「観測変数」であり、「大学の研究教育力」は潜在因子であるということです。「論文数」はあくまで、「大学の研究教育力」という抽象的な概念の一面を反映している変数であると考えます。ですから、「論文数」以外にも「大学の研究教育力」を反映する因子がありえます。

そしてGDPに貢献するのは「大学の研究教育力」という潜在因子であると想定します。「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」の第一章の結論としては「大学の「研究教育力」は経済成長に貢献する」と記載しています。

ただ、「大学の研究教育力」を反映する観測変数としては、今のところ「論文数」が最も強力です。第一章のタイトルは「学術論文数は経済成長の原動力」としているのですが、これは実はライターさんの原稿そのままの表現を僕が採用してしまっていて、ちょっと誤解を招くかもしれませんね。正確には「学術論文数で観測される大学の研究教育力は経済成長の原動力」という意味です。

そして、なぜ僕がGDPに貢献する潜在因子を「大学の研究教育力」と表現し、「大学の研究力」や「大学の教育研究力」と表現しなかったのか。それは、大学が大学院学生など若手研究者を育て、彼ら彼女らが社会に出てGDPの成長に貢献している可能性が十分に考えられるからです。「博士取得者数」という観測変数とGDPとの相関は、論文数とGDPの相関よりも弱いのですが、ある特定の条件下では、論文数と独立してGDPと相関する可能性があります。なお、今のところ先進国においては、GDPと相関する学部教育の観測変数は見つけられないので、「大学の教育研究力」という表現ではなく、「大学の研究教育力」という表現を採用しています。

「・GDPとの相関
GDPが上がれば論文数が増える、という経路なら容易に想像ができますが、それならまず増やすべきはGDPということになります。

・OECDのデータ日本のここ数十年のデータを解析しなければ意味が無いと思われます。そのデータで論文を増やせばGDPが上がる相関があるなら、論文を増やすべきといえますし、相関がないなら、まずなぜないのかを考えずに盲目的に増やしてもダメということになります。」

実は、先行研究の時系列分析では、国によって違うのですが、多くの国々で「GDP→論文数」と「論文数→GDP」と「論文数⇔GDP」などが観察されています。GDPが増えて税収が増えたら、多くの国々の政府は研究開発投資も増やすでしょうから、論文数が増えるはずですね。これは彦朗さんがおっしゃるようにたいへん理解しやすいことです。しかし、先行研究では「論文数→GDP」という現象も観察されています。このような先行研究の結果を説明する一つの仮説として、前回のブログで書きました「正循環仮説」を考えました。つまり、「GDP⇑→論文数⇑→GDP⇑→論文数⇑→」

そして、僕が確認しようとしたことは、「論文数⇑→GDP⇑」という現象がOECDのデータにおいても観察されるかどうかということです。これを数十年にわたるデータで調べました。

彦朗さんの

「論文が多くても学生を労働力として使い捨てにしているような場合は教育力が高いとはいえないですよね」

という言葉には身がつまされる思いがします。今回はデータが手元に無いので、学生の労働力としての使い捨てについては分析できていませんが、日本の大学の研究環境が他の先進国に比較してプアであることが、学生を労働力として使い捨てにするようなことを招いている可能性は、十分にありうると思います。沖縄科学技術大学院大学(OIST)では、大学院学生の数を少数に絞って、人財育成に重きをおいていることが伺われます。日本の他の大学もOISTのようなシステムになればいいと思いますが、OISTにはそれなりの国費が投入されていますね。大学院生を労働力として使い捨てにしない研究環境を整えるには、政府が大学への研究資金を他の先進国並みに、あるいはOIST並みに増やす必要があると考えます。

なお、イノベーションについて、従来は主として「量」と「質」という面から議論されてきたと思うのですが、各種のイノベーション指標とGDPを加えた因子分析により、「イノベーションの広がり」という概念も重要であることが示唆されました。どんなデータからそのようなことを推定したのか、楽しみにしていてくださいね。

 

科学立国の危機失速する日本の学術研究力[豊田長康]

 

 

 

 

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「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」ウラ話の2(論文数とGDP)

2019年01月09日 | 科学

前回のブログに対しては、彦朗さんからさっそくコメントをいただきました。たいへんありがとうございます。

「エビデンスエビデンスとおっしゃいますが、論文数が日本国民の厚生、たとえばGDPなりなんなりに貢献しているというエビデンスがいまだ提示されていないように思います。」

彦朗さんからのこのコメントは、まさに、ポイントをついたもので、前回お話ししたライターさんからの原稿への書き込みとまったく同じですね。この財政難の折、やはり論文数がGDPなりなんなりに貢献しているというエビデンスを示さないことには、国民の皆さんから、研究投資へのご理解を得るのは難しいと思います。

それで「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」の第1章は、「学術論文数は経済成長の原動力」というタイトルにし、論文数とGDPあるいは労働生産性との相関分析の説明に当てています。この章では、先行研究で論文数などのイノベーション指標とGDPとの関係性を因子分析で分析した論文と、時系列分析で因果関係を分析した論文を参考にして、OECDの公開データを用いて、論文数とGDPの関係性を、時系列に配慮した相関分析と、因子分析および共分散構造分析の結果をお示ししています。もちろん、今回の分析が妥当なものかどうかということについては、他の研究者による検証が必要ですが、論文数(≒大学の研究教育力)がGDPの成長に貢献することを示唆するエビデンスと、それに基づく正循環仮説を、一応自分なりに提示させていただきました。(他の専門家により否定される可能性は否定できませんが・・・)

また、本書では、日本の研究者も英国の研究者と同様に、自分たちのやっている研究が中長期的に、そして直接間接的にGDPにどの程度貢献しているか示す必要があると記しました。英国の学会からは、数学の研究がGDPに貢献するという報告がなされています。これによると数学研究が2010年の英国(UK)の付加価値(GDP)に与えた影響は、2080億ポンド(1ポンド147円として計算して約30兆6000億円)になり、英国全体の付加価値の16%にあたるという計算です。(Deloitte, “Measuring the Economic Benefits of Mathematical Science Research in the UK.,” Final Report, November 2012.(http://www.maths.dundee.ac.uk/info/EPSRC-Mathematics.pdf)

そして、僕は公的研究投資を増やす際の目標は、GDP増の結果もたらされる税収増によって投資額を回収することである、と書きました。

 前回のブログで、本書ではかなり思い切った主張をさくさんした旨を書きましたが、このようなGDPとの関係性についての主張がその一つです。ぜひとも英国の学術界を見習うべきであると思います。

 

 

 

 

 

 

 

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「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」ウラ話の1

2019年01月05日 | 科学

ほんとうに久しぶりのブログ更新です。ブログの書き方も少々忘れてしまいました。

平成31年のお正月、三重県亀山市は平穏でした。僕はと言えば、とってもしんどい思いをしましたが、ようやく「科学立国の危機ー失速する日本の研究力」の最終校正を東洋経済新報社に送りました。すでにアマゾンや楽天ブックスで予約販売が受け付けられているようです。

 平成27年(2015年)5月に、国立大学協会のウェブサイトに「運営費交付金削減による国立大学への 影響・評価に関する研究 ~国際学術論文データベースによる 論文数分析を中心として~」という報告書を掲載しましたが、本書はその発展版です。

実は東洋経済新報社から単行本執筆の依頼が来た時に、学長の仕事が忙しいこと、そしてそれまでに単行本執筆で3回も挫折していることがあり、申し出をお断りをしようとしたのですが、それならライターさんに書いてもらうから、ということになり、結局承諾することになりました。1回ほどインタビューがあって、しばらくすると、インタビューとそれまで僕が書いたブログを基にして書かれた原稿が送られてきました。それを校正して送り返せば、単行本が出来上がるはずだったのですが、校正を始めてみると、ところどころに、ライターさんのするどい書き込みがあるのです。たとえば、上記の僕の報告書の中に論文数とGDPとが相関するというデータがあるのですが、「果たして論文数が原因でGDPが結果と言えるのか?」とか、「イノベーション実現割合は、いったい何社くらいのデータに基づいているのか?」等々。

このライターさんの書き込みに答えるためには、一つ一つデータ分析を根本的にやり直さなければなりませんでした。そして、それを繰り返していくうちに、膨大なデータ量となって、ページ数も当初の予定の200ページよりも大幅に増えて400ページとなり、そして、ライターさんの元の文章は、ほとんどなくなってしまうことになりました。

この間、学長としての仕事に手を抜くことはできませんので、とにかくちょっとした時間を惜しんでパソコンの前に向かい、睡眠時間を削り、ブログやSNSもやめ、余暇も縮小し、家族とのコミュニケーションも減らし、周りに多大の迷惑をおかけすることになりました。そして、やっと発刊にこぎつけることができたのですが、文献のサーベイも不十分であり、やや荒削りの本になってしまったことは否めません。本書では、かなり思い切った主張をたくさんしていますが、これらの主張について、ぜひとも多くの方々による検証をお願いしたいと思っています。

どんな思い切った主張をしたのか、このブログでも追々ご紹介したいと思います。

今日のところは、日本の公的な研究従事者数や公的研究資金が、人口当りで計算すると、先進国(韓国やドイツなど)に1.5~2倍以上の差をつけられているということをあげておきましょう。これは、12月13日に放映された、テレ朝の羽鳥慎一モーニングショーで、僕がデータをお示ししましたね。ところが、日本政府は、先進国に比較して「遜色ない」と判断しているのです。この最も基本的なデータの認識がまるで違うことが大きな問題です。

日本の学術論文数は低迷しているのですが、「遜色ない」という判断の場合は、生産性の低下が原因ということになり、研究従事者数や研究資金は増やす必要はなく、大学に対してもっと厳しく評価をして交付金に差をつけ、鞭を打つかのようにして、生産性を上げるべきである、という政策になってしまいます。僕の主張はもちろん、研究従事者と研究資金を1.5~2倍に増やさないことには、先進諸国に追いつけない、ということです。

最近、エビデンスに基づいた政策立案(EBPM)の重要性が強調されるようになっていますが、データを見る時には細心の注意が必要です。政策決定者が、こうしたい、ということが先にあって、それに都合の良いデータを探し出して提示していると思わざるをえない事例にしばしば遭遇します。政府文書にデータが出てきた場合は、その出典元の文献を自分の目で確認することが大切です。それだけで、提示されたデータが不適切であることにずいぶんと気づかされます。

 

 

 

 

 

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