あの日、桜の季節、ボクの新しい生活がスタートしました。
会社勤めも、アパート暮らしも、何もかも初めてづくしのフレッシュマンです。
会社帰り、満開の桜の並木道を歩いていると、花見客でにぎわっています。
と、道で酔客数名が取り囲んで若い娘をからかっているじゃないですか。
「やめなさい。嫌がってるじゃないか」
大声で諫めると、酔客連中はスゴスゴ散っていきます。
「もう大丈夫。ハハハ、名乗るまでもありません。では失敬」
やってみたかったんだよね、こういうの。立ち去る背中に熱い視線を感じました。
さて、数日後の晩、トントン、トントン、アパートのドアを叩く音がします。
「どなた?」
「旅の娘です。すっかり道に迷ってしまって。どうぞひと晩泊めてくださいまし」
「ア、君は先日の」
「この町に来たのは今日が初めてですわ。名をサクラ、と申します」
確かに桜並木のあの娘・・・
とにかくひと晩泊めてやりました。すると次の日もまた次の日も・・・なんとなく流れで一緒に暮らし始めちゃいました。
「お台所を使わせてください。決して覗いてはいけません。約束ですよ」
ある日、サクラがそう言うので約束しました。
翌朝、げっそりやつれたサクラが台所からヨロヨロ。
サクラの手にしたお盆には、山盛りの桜餅。
この桜餅を売ってみると、評判が評判を呼んで、たちまち行列のできるお店に。
「ではもっと作りましょう。決して覗いてはいけませんよ」
毎日毎晩、サクラは台所に籠もるのでした。
鶴の機織りのごとく日に日にやつれていくかと思いきや、なぜかサクラの場合は日に日に肥っていきましたが。
ボクは約束を守りました。桜餅作りもつまみ食いも予想範囲でしたし。
そして十年、二十年、時は過ぎゆき六十歳。
とうとうボクは会社を勤めあげ、定年退職を迎えました。
最後の帰り道も桜並木は満開でした。と、並木道の真ん中にサクラが立っています。
「お疲れ様、アナタ。とうとうこの日がやってきました。どうしてアナタは覗いてくれなかったのですか」
エ?覗く?「そう約束したから」
「女心のわからない人。実は、実はわたし・・・」
「わかっていたよ。君は酔客にからまれていた娘だろう?そして酔客はボクに近づくための仕込み、つまりサクラだ」
「そうじゃなくって。鈍い人ねえ。確かに酔客もサクラだけど、実はわたしも・・・」
そう言いかけたサクラの身体がおびただしい数の桜の花びらになってほどけて崩れ始めて、
「なんてこった。サクラ、君もか・・・」
ボクの身体もまた、桜の花びらになってほどけて崩れて、
淡い桜色の花びらの山と山が混じり合い、そして降りしきる花びらと見分けがつかなくなっていくのでした。
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