カキぴー

春が来た

敗戦が生んだあだ花、「オンリーさん」にまつわる想い出。

2011年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム
僕が地元の工業高校を卒業し、養父が経営するプロパンガスの販売会社に勤めて間もなくの頃だったが、暗くなりかけた店の前にMGのスポーツカーが停まり、アメリカ人の男性が入ってきた。 僕が片言の英語で対応したが、今日からこの街に住むようになったのでガスの設備をして欲しいという依頼、そして自分は早朝から出かけてしまうのでワイフと打ち合わせするようにと、自宅までの地図を描いてくれたが、そこは昔から有る洋風の大きな屋敷だったのですぐに分かった。 翌日先輩社員とともに訪問すると日本人の若い奥さんが居て、ひとどおり家の中を案内してくれた後、台所にオーブン付のレンジ、食堂・応接間にガス暖房機、さらにガス給湯ボイラーから風呂・洗面所・台所に給湯する一切の見積もりを頼まれた。

終戦から11年しか経っていない1956年当時、一般家庭の台所にもやっとプロパンガスが普及し始めたが、10kgのボンベを置きゴムホースで鋳物のコンロに繋ぐだけ、ガスレンジなどを使う家はまだ少なかった。 そんな時代に厨房・給湯・暖房の全てをガスでまかないたいという客が現われたのだから驚いた。 ガスの量も膨大で50kgの大型ボンベを6本設置し、そこからのガス配管、ボイラーからの温水配管、排気フードの取り付け、工事に伴う家屋の補修など、一般家庭用の設備としては会社始まって以来の大規模工事。 それにしても当時最も高価な燃料であるガスをふんだんに使うアメリカ人の生活レベルを、夢のように思ったものだ。

恐るおそる出した見積もりは、日本で入手できない特殊な暖房機のみは支給を受けることで受注し、既存建物での工事なので苦労したが無事引き渡すことができた。 出入りしてるうちに家庭の事情も徐々に分かってきた。 アメリカ人の彼は僕の住む福島県郡山市から東へ20kmほど離れた大滝根山(1192・5m)の山頂にある、米軍のレーダーサイトに勤務する40歳代のエンジニア将校。 そしてワイフと紹介された彼女は、当時「オンリーさん」と呼ばれていた米軍高級将校のいわば愛人。 戦後の困窮期には世間から白い目で見られながらも、そうしたかたちで生計を立てる女性も存在したのだ。 同じ敗戦国のドイツやイタリアにも同じような女性が居たはず。

しかし彼女は卑屈なところなど微塵も見せず、いつもセンスのいい服装を着て凛としており、彼も彼女には一目置いているように感じられ、彼女もまた彼を尊敬していたようだった。 僕はそんな彼らとすっかり気が合い、休日にはよく遊びに行って40年~50年代に公開されたハリウッド映画の話をしたり、アメリカの作家ヘミングウェイ・アーウインショー・スタインベックなどの作品について論じたり、当時FEN放送にかじりついて聞いたジャズの名曲を、彼のレコードプレーヤーで聞かしてもらった。 戦後どっと押し寄せた眩しいばかりのアメリカ文化に触発され、強いショックと憧れを抱いていた田舎の青年が、現実にそのライフスタイルに接して受けた影響は、その後の僕の生き方にインパクトを与えたように思う。

ある日ディナーに招待された。 但しガールフレンドを連れてくるように言われ、考えた末に中学の同級生で東京の大学でピアノを勉強中の「T子」に頼み込んで同伴してもらうことにした。 友人の助言に従い15分ほど遅れて訪問すると、まず応接室で食前酒のカクテルをご馳走になりながら談笑し、それからおもむろに食堂に移動してアメリカンスタイルのコース料理をご馳走になった。 食事が終わるとまた応接間に戻ってデザートと食後酒でしめくくるかなり長時間の夕食だったが、それが欧米の一般的なもてなしのルールであることを学んだ夜だった。 夫妻はその後2年ほどして沖縄への転勤に伴い越して行った。 T子は今年の9月すい臓がんのため亡くなった。 あいにく雨の日の葬儀だったが、50年以上も前になってしまったオンリーさんとの記憶に想いを馳せながら、長いお経を聞いていた。        


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