Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

4/30日 プラザホテル最後の日 (NY)

2005-04-30 | RUGlad2BInAmerica?
4/30日ニューヨークに飛ぶ Tomotubby は、偶然にも Central Park South に建つ名門「プラザホテル」の営業最終日に立ち会うことになりました。といっても、あの豪奢な建物に泊ったりできる訳もなく、歩いて行ける距離に滞在するので、野次馬根性で見に行ってみようというだけですが。

「プラザホテル」というと「プラザ合意」の舞台。日本のものづくりにとっては当時の円高は大変だったようですが、旅行者にとっては間違いなく海外旅行を身近にした有り難い出来事だったんじゃないでしょうか。その後、バブル景気で儲けた人たちは、多数ニューヨークに繰り出して、ぶいぶい言わせていたに違いありません。当時、ロックフェラーセンターは三菱地所の持ち物で、プラザホテルは青木建設がウェスティンごと買っていたというからびっくり。

身近なところでは、「プラザホテル」というと「ホームアローン2」の舞台でした。主人公のケビン(マコーレ・カルキン)が一人で泊まるホテルがここです。「北北西に進路を取れ」「追憶」「華麗なるギャツビー」なんかの名画でも使われていて、まさに映画の歴史とともに歩んだホテルなのです。

ホテルが営業終了ということですが、ワールドトレードセンターみたいに跡形なくなくなってしまうわけではありません。この建物は歴史的建造物に選ばれていますので潰せません。ホテルを6億7500万ドルでフェアモントから買った不動産会社エラッド・プロパティーズが、2006年オープンを目指し、ホテルの大部分を分譲マンションやデパートに改装してしまうのです。総工費3億ドルというから凄い。当初、客室を805室から150室に減らし、「プラザ合意」の歴史の場である宴会場も閉鎖してしまう予定だったのですが、ブルームバーグ市長らの反対に合い、客室は348室に増やし、宴会場も保存することになりました。それでも客室は半分以下、今でも名物のセントラル・パークの望める部屋が63室といいますから、そういう部屋に旅行者が泊まるのは難しくなるに違いありません。いつかセントラルパークの見えるプラザに泊りたい。という Tomotubby の野望はここに潰えたのでありました。葡萄を食べるのを諦めた狐の心境かな。

【久しぶりに Pet の部屋】 イ・ビョンホンって

2005-04-28 | 好韓嫌韓・厭鮮
アンニョン・ハシムニカ。韓流四天王の一人、イ・ビョンホン(李炳憲)が来日してTVに出ていたのを見ていて、この人は誰(何)かに似ている、この目元、この口元(キラースマイル)、うーん、いったい誰(何)だったっけと長らく悩んでいましたが、今日ハタと気がつきました。



イ・ビョンホンって、三面怪人「ダダ」↑に似てるハムニダ。身長は 1.9 ~ 40m、体重は 70kg ~ 7,000t、出身地はダダ星だそうです。参考までに、イ・ビョンホンは、身長 177 ~ 178cm、体重 68 ~ 72kg、性格 正直でせっかちだ、宗教 仏教 だそうです。

JR福知山線脱線事故~呪われた「宝塚線」 (2)

2005-04-27 | Japan 日常生活の冒険
前回は前置きが長くなりましたが、関西は私鉄とJR在来線(JRも私鉄の筈ですが...)の競合がたいへん激しい土地なのです。大阪~神戸間は阪神、JR山陽本線(神戸線)、阪急が平行して走っているし、大阪~京都は阪急、JR東海道本線(京都線)、京阪が走っています。Tomotubby は長らく福知山線の存在を知らず、大阪~宝塚間は阪急しか走ってないものと思っていましたが、ある日その存在を知らされました。伊丹空港に行くのに、阪急伊丹駅で降りるのを間違えて、福知山線の伊丹駅で降りた人から、その存在を聞いたのでした。駅前というのに閑散としていて店すらなく、タクシー乗り場もなくて、待てど暮らせどタクシーは来ず、結局飛行機に乗り遅れた。ガッデーム。と文句を言われていました。それほど存在感のない路線でした。

このように大阪の住人にとって存在感のない路線が認知され、その沿線が宅地として開発され、そんなところにわざわざ引越ししようと人々を動機付けるためには、何といっても大阪への交通のアクセスが万全でないといけません。JRは、先行する阪急に負けじと、各駅停車だけでなく快速列車を増やしたり、新大阪に乗り入れる電車を増やしたりしました。極めつけは、大阪市内を東西に横切る尼崎~京橋間の東西線の開通でした。これによって福知山線(宝塚線)・山陽本線(神戸線)は、尼崎から東西線を経由して、片町線(学研都市線)と繋がり、神戸や宝塚からキタ新地、京橋、さらには京都府の木津、関西文化学術研究都市まで直行できることになり、たいへん便利になりました。

しかし、便利さのツケというのでしょうか、尼崎駅での乗り換えは極めてややこしいのです。神戸や宝塚から来る電車は大阪に行くものと京橋に行くものが混在し、大阪や京橋から来る電車は神戸に行くものと宝塚に行くものが混在しています。注意して行き先案内を見ないと全く違う場所に連れて行かれます。特にお年寄には判りにくいようです。

このような複雑な乗り入れは、また鉄道のタイムマネジメントを極めて複雑にする筈です。例えば、結節点の尼崎に到着する4方向からの電車のいずれかが遅れると、そのあおりで他の3方向から来る電車までが遅れてしまいます。現に脱線事故が起きた当日は、宝塚方面に向かうことのできない車輌がつっかえて、山陽本線(神戸線)や東西線までが長時間に亘り止まってしまいました。

繰り返しますが、「JR宝塚線」が人口に膾炙するため、「JR宝塚線」沿線が阪急沿線に負けないステイタスと地価を得るためには、すべからく阪急に負けないJRでないといけません。この要請が、JRに対して複数方向から来る電車を同期させるという綱渡りのようなタイムマネジメントを強いたのです。今回の悲劇は、当初から高見運転士の未熟さに拠るところが大きいと伝えられてきました。しかし、ここにきて真の原因がJRの車輌運行方針にあったことが少しずつ判明してきたように思えます。

さらに根っこを探っていくと、そこには、JRに対してのインフルエンサーである宅地業者や沿線住民の切なる想い、「福知山線」を「宝塚線」と呼びたい、呼ばせたい、宿願のようなものがあった筈なのです。その大きなプレッシャーに負けた高見運転士は、僅かの時間を取り戻すためにスピードを緩めず、呪われた尼崎駅に急いだのです。

JR福知山線脱線事故~呪われた「宝塚線」 (1)

2005-04-26 | Japan 日常生活の冒険
ニュースでは「JR福知山線脱線事故」と書かれていますが、最近この路線は、駅の放送でも「宝塚線」と呼ばれていまして、少し違和感があります。不祥事があると、「宝塚線」とはいわず、「福知山線」というのでしょうか?

大阪を起点としたJR各線に、いつからこのような「愛称」がついたのか知りませんが、

東海道本線→京都線
山陽本線→神戸線
関西本線→大和路線
片町線→学研都市線(既に片町駅がなくなっているのに、未だに片町線と呼ぶのは如何なものか)

などと言い換えられています。京都線と神戸線は許せるけど、大和路線と学研都市線はえらいイメージアップしてる。しかし、まだましです。

福知山線→宝塚線

これは、ほとんど詐欺に近い響き。東北本線を宇都宮線というよりずっとひどい。
大阪市内の人にとって、宝塚というと、西宮の北の方の阪急沿線の高級住宅地や「歌劇団」を思い出すのですが、福知山の印象ははっきりいって「ド田舎」です。つい最近まで、宝塚より奥は人の住むところではない。猪や鹿や熊が出ると言われていました。その証拠に、福知山線の通る、宝塚の山ひとつ奥の三田という街は、日本一の人口増加率を誇っていました。もともと人が住んでいなかったのだから当然といえば当然。駅の近くには今でも牛がいたり、猪鍋が食べられる店があります。

で、福知山は?というと、その三田の、山いくつ越えるのか判らないほどの凄い山奥なのです。あの中澤裕子の出身地です。Tomotubby が中学生のとき、福知山出身の体育教師がいたのですが、生徒から「丹波の山猿」とかいわれていつも虐められていました。プリンスみたいに紫の車で通勤してました。

宝塚から尼崎までですら、今でも線路脇は見渡す限り田んぼ。というところが多いのです。それでもJRと沿線住民の並々ならぬ努力の結果、「宝塚線」という名前が少しは普及してきたかな。と思っていたのですが、今回の脱線事故報道で「福知山線」が国民の脳裏にしっかり焼きつきましたから元の木阿弥。「宝塚線」普及運動の努力も水の泡でしょう。

その宝塚の方から南に延びる線路が尼崎で山陽本線(神戸線)に90度の角度でぶつかるのです。その少し手前で線路は左に大きくカーブするのですが、今回の大事故はここで起こったのでした。(つづく)


バスキア、シュナーベル、ウォーホル (NY)

2005-04-25 | RUGlad2BInAmerica?
ゴールデンウィークのニューヨークのアートシーンで面白そうなのは、ブルックリン美術館のバスキア回顧展。よくみると、美術館のホームページに出ている3つの絵のうちのひとつが、Pet 君の持っているTシャツの柄なのでした。本人曰く、随分前にユナイテッドアローズで買って、くたびれてきたけどお気に入りとのこと。最近、ユニクロがバスキアのTシャツを出してるけど、あちらは、ちょっとダサいって。Tomotubby は昨年買ったユニクロのウォーホルのTシャツ気に入ってますけど。初期の写真を使っていない頃のものです。


業務放送。業務放送。Pet 君。↑の絵のTシャツの画像送ってちょうだい。

それから、画廊C&M Artsでは、ジュリアン・シュナーベルの回顧展をやっていまして、こちらも気になります。New York Magazine でもお薦めになっていました。割れたお皿を沢山貼りつけた上から、ブルーと赤錆のような絵具を塗り付けた大迫力の作品は、前にどこかで観た記憶があります。Tomotubby としては、彼の桜の絵を載せたいんですが、この絵が載っている画集は実家の本棚にあるので、紹介は別の機会にしたいと思います。



80年代初めに新表現主義世代の旗手として現れたバスキアには、ポップアートの御大アンディ・ウォーホルとコラボレートして制作した作品のシリーズがあります。GEやパラマウントやナイキなど米国企業のコーポレート・ロゴ(この部分はウォーホルが担当)が大きく入ったアレです。最近GEの人にお世話になったから、お礼に二つ載せておきます。









二人の画風は全然違っていますが、組み合わさると不思議と統一感があります。この二人にやはり新表現主義で括られるフランチェスコ・クレメンテが加わったコラボレーションもありました。

80年代も終わりに差しかかると、ウォーホル、バスキアが続けて亡くなりますが、その後90年代に二人と仲の良かったシュナーベルが「バスキア」という、その名の通りのバスキアの自伝的映画を撮ります。


ウォーホルはデビッド・ボウイが演じています。

この映画は日本でも公開され話題になりました。監督シュナーベルは、正統的な手法を用いて、鬼籍に入った二人を現代美術の歴史を生きた画家として描いています。友情と敬意を込めて。

余談ですが、映画に出てくるバスキア役のパイナップルのような髪型、SoulⅡSoul の Jazzy.B にちょっと似ているな。と思って調べたら「Keep On Movin'」 (この曲大好き) がブレイクした年はバスキアの没年1989年だったのでした。


こういうのが流行ってたのかな。

セントラルパークでもお花見するぞ

2005-04-24 | RUGlad2BInAmerica?
セントラルパーク・ネタ三連発。はしゃぎすぎ。内輪で盛り上がっていましてすみませぬ。

Tomotubby の発した「セントラルパークの桜は大丈夫か?」の問いに対して Mikiさんに続き、ニューヨーク在住たまさんからもコメントを頂きました。(これまでもシンガポールやシカゴからコメント頂いたことあったけど) 改めてブログは世界と繋がってるんだ。と実感。

A「こんにちは~NY在住者たまです。Tバックありがとうございました♪
NYの桜は残念ですが散り始めてます。枝垂桜や八重桜は間に合いそうですよ。
ちょっと肌寒い日もあるので、ジャケットは忘れずに・・・。」

Tバックってパンツみたいじゃん。と思いつつ、なぬ、散り始めてる。冷や汗たら~。でも、枝垂桜や八重桜は間に合いそう。とのこと。つまり桜にもいろいろあるってことですよね。八重桜の多い大阪の造幣局の「桜の通り抜け」が、染井吉野の開花に比べて遅くなるようなものですか。納得。

たまさんのブログは「たまむしの家。-アタシの旦那はドイツ人」。セントラルパークでの日本人のお花見の様子が出ていますが、Mikiさん家族と違って、こちらは日本にいるみたい。赤ちゃんが「ティアレタヒチ」よろしく、桜を耳にのせて、どこか哲学者的な表情をしているのが可愛い。J

たまさん。さんきゅぅでした。ニューヨークでも流行?のオレンジのジャケット持って行きまーす。メトロポリタン美術館に来ているErnst の絵は今年の流行を先取りしていたのかも。

そういえば最近ターコイズ・ブルーの色目もブーム。ミネアポリスでトランジットするので、空港内にある Spirit of the Red Horse というネイティブアメリカンのアクセサリーのお店に寄るのが楽しみです。

セントラルパークでもお花見がしたい

2005-04-23 | RUGlad2BInAmerica?
よく考えると、このシーズンにアメリカに行くのは初めてでした。

四季のある国のよいところは、やはり季節の移り変わりを体験できることです。その土地に着くまでは全く想像しなかったような四季折々の素晴らしい自然のイベントが旅行者を迎えてくれます。特に春は、花々が咲き誇り、新緑がまぶしく、ホントにこのシーズンにここに来て良かったなぁ。と思わせてくれます。

ニューヨークはどうかな?と、ブログ検索で「セントラルパーク」を調べていたら、ニューヨーク在住のMikiさんのブログ「Notes from New York」に、桜の記事が出ていました。写真が綺麗。桜の下で「おいなりさん」を食べている旦那様が幸せそうです。

Tomotubby としましては、この桜がいつまで咲いているのか? Tomotubby が行くまで咲いててくれるかな?と気になりますので、Mikiさんに単刀直入に聞いてみることにしました。

Q「来週末NYに行きますが桜はまだ咲いているでしょうか?? 咲いていれば今年は二回お花見できるんですけど」

早速お返事いただきました。

A「*Tomotubby様 来週末はまだ大丈夫かもしれません。ブルックリンのボタニックガーデンでは桜祭りを予定しているのが5月1日ですから。このボタニックガーデンの桜も見事です。2度のお花見、良いですね。」

ということで、期待できそうです。Mikiさんさんきゅぅ。ブルックリンの桜祭りも行ってみたくなりました。

窓の外はセントラルパークだったりする

2005-04-23 | RUGlad2BInAmerica?
ようやくニューヨークのホテル予約が完了。米国のサイトを通じて、セントラルパーク・サウスのパークビューのお部屋が取れました。メトロポリタン、グッゲンハイム、ホイットニー、MOMAなど主要な美術館にも近く、五番街やブロードウェーにも歩いて行けて、申し分ない立地です。

でも、ディスカウントしてもらって日本円で一泊4万というのは、タヒチの水上コテージ並みではないですか。ボストンに泊まったときもそうだったけど、このへんに行くと完全に金銭感覚が麻痺してしまいます。パークビューは一泊4万なら破格、一泊5万以上というのがざらで、中には10万というのもあったりして、一泊するお金があれば日本に帰れるじゃない。お金というのはあるところにはあるものだな。これが世界における富の一点集中なんだな。と変に納得しました。

それで、まだ見ぬ窓からの眺めを想像してにこにこ(にやにや?)しています。南北にとてつもなく長いセントラルパークの南詰めに位置する高層階からの眺め。ビルディングと道路という人工物の枠に区切られた中に溢れる新緑が、足元から地平線まで果てしなく 4km も続いていく、これはまさに都会で見る絶景(イメージを絵にしてみました)ではないですか。以前からこの景色を見るのが夢だったので、4万円、高いけど、ま、いっかー。ここで何千円かをケチったために、窓の向こうがビルの壁だったりしたら、悲しいものね。今回は一点豪華主義で行こう。

さっき気づいたんですが、セントラルパークって夜になると真っ暗なんですよね。昼間の外出は控えて、部屋でのんびりしてようかな。ベーグルでも食べて....その分、夜は活躍したりして。

Max Ernst 回顧展 !!

2005-04-22 | RUGlad2BInAmerica?
ジャズではブライス=ウルマー=レッドマンが聴けず悔しい思いをしましたが、今度は朗報。ニューヨークで開催中の展覧会を調べると、真っ先にメトロポリタン美術館で、マックス・エルンストの回顧展が開催されているのを発見。このブログでは先月のデュシャン、今月のマグリットデルヴォーに続いて、大好きなエルンスト登場です。まるでシュールレアリスム月間ですね。出展作中、好きな絵をご紹介:-


「The Robing of the Bride」(1940) ヴェネチアにあるグッゲンハイム美術館分館にあった絵で、どこかレオノール・フィニーの絵にも似ています。エルンストお得意のデカルコマニーの技法が使われていますね。そういえば、ペギー・グッゲンハイムはエルンストの奥さんだった時期がありました。


「The Garden of France」(1962) Tomotubby には懐かしい絵です。この絵をちょこっと真似して「森のミューズ」なる油彩の大作を描いたことがあったのでした。

以下、備忘録としてペースト(暇な時に訳しますので勘弁ね):-


Max Ernst: A Retrospective
April 7, 2005–July 10, 2005
Special Exhibition Galleries, The Tisch Galleries, 2nd floor

A founding member of the Surrealist group in Paris, German-born Max Ernst (1891~1976) was one of the most inventive artists of the 20th century. His paintings, steeped in Freudian metaphors, private mythology, and childhood memories, are regarded today as icons of Surrealist art. Comprising some 180 works, this exhibition?the first retrospective to be shown in New York in 30 years?includes his most important paintings, his celebrated collages, drawings, sculptures, and illustrated books lent by private and public collections in Europe and the United States.


More About This Exhibition
Philippe de Montebello, director of the Metropolitan Museum, stated: "While the importance of Max Ernst in the history of Dada and Surrealism has been recognized worldwide, the spectrum of Ernst's work—along with its inventiveness—has been less well known in the United States in recent years. The Metropolitan's upcoming exhibition should redress this. As the first major survey of the artist's career in this country in three decades, 'Max Ernst: A Retrospective' mirrors the extraordinary variety of Ernst's oeuvre and will include some of his most celebrated works from the different periods of his life."


More About the Works on View
Ernst's famous proto-Surrealist paintings from the period of evolution from Dada into Surrealism are among the highlights featured in the exhibition. Based on the method of collage, they are built of separate elements that create strange images, combining threat, comedy, and dream. Most famous among them are the iconic paintings created between 1921 and 1923, including Celebes (1921, Tate Modern, London), in which a hulking, horned elephantine creature, part machine and part beast, stands on a vast plain against a cloudy sky, gazing at a headless female nude. In Ubu Imperator (1923, Centre Georges Pompidou, Musée National d'Art Moderne, Paris), an anthropomorphic top dances in a vast, empty landscape. Such works might be said to capture early on the Surrealist notion of estrangement.

Other works from this period deal with themes of blindness and entrapment. In Saint Cecilia (1923, Staatsgalerie, Stuttgart), the patron saint of music and the blind is encased in a structure that covers her eyes and constricts her entire body, save her arms, which are outstretched to play an invisible keyboard. In The Wavering Woman (1923, Kunstsammlung Nordrhein-Westfalen, Düsseldorf), a large creature that could be either human or an automaton is engulfed by an electrical charge. In Oedipus Rex (1922, private collection), male fingers, pierced by a mechanical device, emerge through an open square in an enclosed brick structure and balance above the heads of two trapped, birdlike creatures.

Ernst's great technical refinement is on display in A Night of Love (1927, private collection). The artist dipped strings of various strengths in water and then dropped them onto the canvas. From the remaining traces of these strings, he created the image of a couple wrapped in a starry night sky.

Particularly significant are the artist's collage novels, narratives made up of disparate images culled from nineteenth-century engravings and combined in unsettling compositions. Among the novels included in the exhibition are La Femme 100 têtes (1929, The Spencer Collection, The New York Public Library), Rêve d'une petite fille qui voulut entrer au Carmel (1930, Collection Timothy Baum, New York), and Une semaine de bonté (1934, The Spencer Collection, The New York Public Library).

The artist's subsequent works incorporate the techniques—popularized by the Surrealists and used most memorably by Ernst—of frottage (making a rubbing from a textured surface), grattage (frottage applied to painting), and decalcomania (manipulation of a still wet painting by pressing a second surface against it and then pulling it away). In the paintings, Ernst explores the themes of the forest and the distant city, which poignantly foreshadow the political storm clouds gathering over Europe. For example, in The Fireside Angel (1937, private collection), Ernst reacts directly to the menacing rise of Fascism.

Foreboding and memory characterize many of the remarkable paintings created by the artist during his time in the United States from 1941 to 1953. The large-scale Vox Angelica (1943, private collection) can be interpreted today as a manifesto on European art in exile, with its evocation of the life that had to be left behind when artists fled the advance of the war.


About the Artist
Max Ernst was born on April 2, 1891, in Brühl, a small German town located near the Rhine River between Bonn and Cologne. His father, Philipp Ernst, a devout Catholic and an academic painter, was a teacher at a school for the deaf. Max Ernst, an avid reader, studied philosophy, history of art, literature, and psychology at the University of Bonn from 1909 to 1914. Highly intelligent and imaginative, he initially began painting in a naive Expressionist style that mingled aspects of Cubism with Futurism.

From 1914 to 1917, during World War I, Ernst served in the German army on both the western and eastern fronts. He continued painting in the Expressionist style until the summer of 1919, when he saw the work of Giorgio de Chirico reproduced in the magazine Valori Plastici. This encounter with the melancholy, magical, and empty cityscapes of the Italian artist proved decisive for Ernst's later artistic development, as he became one of the most enthusiastic leaders of the Dada movement in Cologne. Before long, his remarkable Dada collages attracted the attention of the French poets and writers André Breton, Louis Aragon, and Paul Eluard in Paris, who saw in these works analogies to their own poetic experiments.

In 1921, Breton organized an exhibition of Ernst's Dada collages in Paris, and in 1922, Ernst moved to the French capital, never to work again in his native country. Three years later, in 1924, the thirty-three-year-old artist became one of the founding members of the Surrealist group. The proto-Surrealist paintings that he created between 1921 and 1923, first in Cologne and later in Paris, are now regarded as signature works of the movement. Composed of illusionistic but irrational scenes, they evoke dreams and hallucinations but defy interpretation. These powerful images later influenced the early works of Tanguy, Masson, Magritte, and Dalí among others.

The artist's collages are even more representative of the Surrealist movement. In them, Ernst combined cutout details from a variety of sources, including nineteenth-century engravings from popular novels and mail-order catalogues, and botanical and scientific prints from teaching-aid catalogues. These transformed images are fantastic, magical, sometimes disquieting, and always surprising.

In 1941, escaping the Nazi threat in Europe, Max Ernst arrived in the United States. First in New York, and later in Sedona, Arizona, he created remarkable paintings and sculptures. In 1953, Ernst returned permanently to Europe, and died in Paris in 1976, one night before his eighty-fifth birthday.