茅野大墓古墳は、全長約85mの帆立貝式前方後円墳で、茅野狐塚古墳から北に進むと同古墳の森が見えてくるはずが、現在発掘調査中であり、墳丘を埋め尽くしていた木々は切られ、外見上は古墳らしくない。
ホケノ山古墳の南に所在する、4世紀後半の古墳時代中期の本古墳は、現在古墳の一部が民家の庭になっている。
4世紀後半は、大和王朝が朝鮮に攻め入り、百済・新羅を破った頃。
本古墳は、箸墓古墳の東南約500mの田んぼのなかにあり、箸中古墳群の中では、箸墓古墳に次ぐ規模の古墳。
写真は、茅野大墳古墳墳頂から望む葛城山・二上山と箸墓古墳及び同古墳墳頂から遥かに望む畝傍山と天香久山。
三輪山の西麓に位置する本古墳は、帆立貝式前方後円墳の代表的な事例として国史跡に指定されている。
また墳丘の西側にある細長い池は、周濠の痕跡と考えられている。現在桜井市では、本古墳を一般公開すべく、史跡整備を計画している。
写真は上から、茅野大墳古墳の現在の発掘調査現場、今回の発掘調査前の同古墳の森及び同古墳の発掘調査現場2点。
今回の発掘調査は、本古墳の範囲確認など国指定史跡整備事業の一環としてスタートしたらしく、暫く続くと云うこと。
平成20年秋の発掘調査では全長約85mで、直径約70m・高さ約9mに推定される後円部の北側には、長さ約15m・高さ約1mの小規模な前方部を観察することができると記されている。
調査以前までは、全長約66m・後円部径56m・前方部長さ約10m・高さ8mほどとされていたが、今回の調査により全長約85mに訂正されることになった。
3世紀前半のホケノ山古墳は、全長約80m・後円部径約55m・高さ約8.5m・前方部長約25m・高さ約3.5mの規模であり、これまでは茅原大墓古墳より一回り大きいとされていたが、今回の調査により逆転されたことになる。
今回の調査では、前方部東側で葺石が確認され、高さ約60cm分が残存し、約40度の傾斜をもつ墳丘斜面に沿って構築、使用された葺石は30cm前後の大きさで、付近の河原などから運ばれたらしい。また、葺石の周辺からは、円筒埴輪片が出土したと云う。
帆立貝式は、前方後円墳の一形式で、通常は円墳状の後円部に方形、もしくは梯形状の長い前方部が付着するが、帆立貝式の場合は前方部が非常に短く、低い形式の古墳で、平面の形式があたかも帆立貝に似ているところから、命名された。
この帆立貝式古墳は、普通の前方後円墳に対して、その数がきわめて少なく、大和政権の規制により変形を余儀なくされた存在と云える。
写真は、茅原大墳古墳から出土した円筒埴輪片。
平成21年度に実施した第3次調査では、後円部頂と2段目の平坦面で円筒埴輪列が確認されたが、写真のように、円筒埴輪は上部が失われ、底部径が40cm以上の大きなものが含まれていたと云う。
このほか後円部と前方部の接続部分では葺石が見つかり、出土遺物としては円筒埴輪のほか蓋形埴輪などの破片があり、これらから築造時期は、4世紀後半~5世紀初頭頃・古墳時代中期初頭と考えられる。
桜井市から天理市にかけての奈良盆地東南部では、3世紀代から相次いで全長200m以上の大型前方後円墳が築造されまたが、4世紀後半頃の天理市・渋谷向山古墳を最後にそのような大型古墳は築造されなくなり、桜井周辺の勢力がこの時期に衰退していったと推定される。
茅原大墓古墳はその衰退期に築造されたと考えられる。
茅原大墓古墳は決して小さな古墳ではないが、前段階の大型前方後円墳と比較すると規模が小さく、墳形が帆立貝形となっている点は、この地域の勢力衰退の様子を象徴的に表していると云える。
前方後円墳として築造が許されなかったという点からすれば、大和政権の規制が考えられる。
ということで、茅原大墓古墳は、当時の政権中枢における勢力変動を示す重要な資料と云える。
被葬者は地元では、倭佐保姫(11代垂仁天皇の皇后)の御陵として言い伝えられている。
1982年に国史跡に指定され一部を除き市有地となっており、桜井市が将来的に史跡公園化を目指し、順次調査中の古墳。
ホケノ山古墳の南に所在する、4世紀後半の古墳時代中期の本古墳は、現在古墳の一部が民家の庭になっている。
4世紀後半は、大和王朝が朝鮮に攻め入り、百済・新羅を破った頃。
本古墳は、箸墓古墳の東南約500mの田んぼのなかにあり、箸中古墳群の中では、箸墓古墳に次ぐ規模の古墳。
写真は、茅野大墳古墳墳頂から望む葛城山・二上山と箸墓古墳及び同古墳墳頂から遥かに望む畝傍山と天香久山。
三輪山の西麓に位置する本古墳は、帆立貝式前方後円墳の代表的な事例として国史跡に指定されている。
また墳丘の西側にある細長い池は、周濠の痕跡と考えられている。現在桜井市では、本古墳を一般公開すべく、史跡整備を計画している。
写真は上から、茅野大墳古墳の現在の発掘調査現場、今回の発掘調査前の同古墳の森及び同古墳の発掘調査現場2点。
今回の発掘調査は、本古墳の範囲確認など国指定史跡整備事業の一環としてスタートしたらしく、暫く続くと云うこと。
平成20年秋の発掘調査では全長約85mで、直径約70m・高さ約9mに推定される後円部の北側には、長さ約15m・高さ約1mの小規模な前方部を観察することができると記されている。
調査以前までは、全長約66m・後円部径56m・前方部長さ約10m・高さ8mほどとされていたが、今回の調査により全長約85mに訂正されることになった。
3世紀前半のホケノ山古墳は、全長約80m・後円部径約55m・高さ約8.5m・前方部長約25m・高さ約3.5mの規模であり、これまでは茅原大墓古墳より一回り大きいとされていたが、今回の調査により逆転されたことになる。
今回の調査では、前方部東側で葺石が確認され、高さ約60cm分が残存し、約40度の傾斜をもつ墳丘斜面に沿って構築、使用された葺石は30cm前後の大きさで、付近の河原などから運ばれたらしい。また、葺石の周辺からは、円筒埴輪片が出土したと云う。
帆立貝式は、前方後円墳の一形式で、通常は円墳状の後円部に方形、もしくは梯形状の長い前方部が付着するが、帆立貝式の場合は前方部が非常に短く、低い形式の古墳で、平面の形式があたかも帆立貝に似ているところから、命名された。
この帆立貝式古墳は、普通の前方後円墳に対して、その数がきわめて少なく、大和政権の規制により変形を余儀なくされた存在と云える。
写真は、茅原大墳古墳から出土した円筒埴輪片。
平成21年度に実施した第3次調査では、後円部頂と2段目の平坦面で円筒埴輪列が確認されたが、写真のように、円筒埴輪は上部が失われ、底部径が40cm以上の大きなものが含まれていたと云う。
このほか後円部と前方部の接続部分では葺石が見つかり、出土遺物としては円筒埴輪のほか蓋形埴輪などの破片があり、これらから築造時期は、4世紀後半~5世紀初頭頃・古墳時代中期初頭と考えられる。
桜井市から天理市にかけての奈良盆地東南部では、3世紀代から相次いで全長200m以上の大型前方後円墳が築造されまたが、4世紀後半頃の天理市・渋谷向山古墳を最後にそのような大型古墳は築造されなくなり、桜井周辺の勢力がこの時期に衰退していったと推定される。
茅原大墓古墳はその衰退期に築造されたと考えられる。
茅原大墓古墳は決して小さな古墳ではないが、前段階の大型前方後円墳と比較すると規模が小さく、墳形が帆立貝形となっている点は、この地域の勢力衰退の様子を象徴的に表していると云える。
前方後円墳として築造が許されなかったという点からすれば、大和政権の規制が考えられる。
ということで、茅原大墓古墳は、当時の政権中枢における勢力変動を示す重要な資料と云える。
被葬者は地元では、倭佐保姫(11代垂仁天皇の皇后)の御陵として言い伝えられている。
1982年に国史跡に指定され一部を除き市有地となっており、桜井市が将来的に史跡公園化を目指し、順次調査中の古墳。