履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置し、大きさは全長約365m・後円部径約205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、全国古墳長3番目の大きさ。
本陵後円部が北側に配置されている。現在の周濠は一重だが、二重目の濠が確認されている。
写真は上から、履中天皇陵空撮及び履中天皇陵全景、同天皇陵前方部のサイドビュー、同天皇陵の後円部光景及び前方部に密集する生活道路と民家の光景。
本天皇陵の別名・上石津ミサンザイ古墳は、履中天皇の陵墓に比定され、「百舌鳥耳原南陵」として、宮内庁によって管理されている。
ただし、実際の被葬者は不明。5世紀前半の築造と考えられ、大山古墳の南西に位置している。
墳丘は3段築成で、西側のくびれ部には造出しがあり、主体部の構造や副葬品などはわかっていないが、葺石と埴輪があったとされる。
写真は上から、住宅に挟まれた、履中天皇陵の正面拝所入口の光景、拝所に差し迫った民家の様子、同天皇陵周濠を巡る“大仙風致”環境の様子及び同天皇陵の瑞々しい周濠光景。
本古墳は、本当に住宅地のど真ん中にあり、民家の真裏に古墳の周濠があったのにはびっくりです。
裏庭から「マイビーチ」、ならぬ、『マイ古墳』が堪能できるようで、羨ましい限りです。
倭の五王(讃、珍、済、興、武)に関して、「宋書」に「讃死して弟珍立つ」と書かれてあり、讃と珍が兄弟天皇であることが分かる。
この当時の天皇で、兄弟天皇は、「履中と反正」、そして「安康と雄略」の二組だが、雄略=武であることがほぼ確定しているとすれば、仁徳の息子である履中と反正が「讃と珍」になる。
本陵後円部が北側に配置されている。現在の周濠は一重だが、二重目の濠が確認されている。
写真は上から、履中天皇陵空撮及び履中天皇陵全景、同天皇陵前方部のサイドビュー、同天皇陵の後円部光景及び前方部に密集する生活道路と民家の光景。
本天皇陵の別名・上石津ミサンザイ古墳は、履中天皇の陵墓に比定され、「百舌鳥耳原南陵」として、宮内庁によって管理されている。
ただし、実際の被葬者は不明。5世紀前半の築造と考えられ、大山古墳の南西に位置している。
墳丘は3段築成で、西側のくびれ部には造出しがあり、主体部の構造や副葬品などはわかっていないが、葺石と埴輪があったとされる。
写真は上から、住宅に挟まれた、履中天皇陵の正面拝所入口の光景、拝所に差し迫った民家の様子、同天皇陵周濠を巡る“大仙風致”環境の様子及び同天皇陵の瑞々しい周濠光景。
本古墳は、本当に住宅地のど真ん中にあり、民家の真裏に古墳の周濠があったのにはびっくりです。
裏庭から「マイビーチ」、ならぬ、『マイ古墳』が堪能できるようで、羨ましい限りです。
倭の五王(讃、珍、済、興、武)に関して、「宋書」に「讃死して弟珍立つ」と書かれてあり、讃と珍が兄弟天皇であることが分かる。
この当時の天皇で、兄弟天皇は、「履中と反正」、そして「安康と雄略」の二組だが、雄略=武であることがほぼ確定しているとすれば、仁徳の息子である履中と反正が「讃と珍」になる。