武器用鉄器の多量埋納古墳の実例として、黒姫山古墳の発掘事例を更に続けます。
写真は、黒姫山古墳から出土した円筒埴輪や靫形埴輪。
1947年の発掘調査では、後円部の埋葬施設は、盗掘により破壊され消滅していたが、形象埴輪列や須恵器片が出土したと云う。
写真は、本古墳から出土した甲冑や襟付短甲。
1947年の調査で、前方部中央から竪穴式石室が発見され、石室の中からは24領の甲冑をはじめ、盾・靫・矛・鏃など、大量の鉄製武具や武器が出土し、全国的に注目されるようになったと云う。
この石室は、長さ約4.3m・幅約0.7m・高さ約1.2mあり、副葬品を納めるために、砂岩の天井石8枚で覆われ、底には川原石が敷き詰められていた。
また、付属具として襟付短甲を含む甲冑24領のほか、鉄刀14・鉄剣10・鉄鉾9・石突6・鉄鏃56・刀子5などの武器が多数出土した。
甲冑の数は、一つの古墳からの出土数では日本最多と云う。
本古墳から出土した甲冑24領は、圧倒的な記録として考古学上貴重な資料。
この石室は、遺骸埋葬施設とは別に造られた、副葬品の埋葬施設と考えられており、本古墳の特徴と云える。
この調査より、黒姫山古墳は、5世紀中頃の古墳時代中期に、この地域で勢力を誇っていた丹比(たじひ)氏によって築造されたと考えられ、黒姫山古墳の被葬者は、丹比氏の首長の誰かと見られている。
また、中世の段階でかなり大規模な盛土がされており、城の砦として転用されていたことも分かっている。
洪積台地上に位置する当地は、もともと農耕には不向きであったが、丹比氏が池・溝の開発に必要な鉄製の鍬・鋤などを使い、叉渡来系の人々も総動員して、農耕を可能にしたことで、当地方で強大な勢力を創り上げたと想像される。
このことは、その権威を示す古墳が築造され、石室には大量の鉄製甲冑が埋葬されていたことで証明されている。
1957年、黒姫山古墳のもつ重要性から国の史跡に指定され、叉1978年には、周庭帯部分も追加指定され、1988年からは、国と府の補助を受けて、環境整備が実施されている。
1989年度から1992年度にかけて、史跡黒姫山古墳歴史の広場として整備され、古墳の東側には、写真の通り、前方部の竪穴式石室と墳丘上段部の埴輪列の一部が実物大で復元展示され、前方部の一部には円筒埴輪列が復元されている。
出土した大量の甲冑は、現在までに大半が保存処理を終え、堺市立みはら歴史博物館でその一部が展示されている。
写真は、黒姫山古墳から出土した円筒埴輪や靫形埴輪。
1947年の発掘調査では、後円部の埋葬施設は、盗掘により破壊され消滅していたが、形象埴輪列や須恵器片が出土したと云う。
写真は、本古墳から出土した甲冑や襟付短甲。
1947年の調査で、前方部中央から竪穴式石室が発見され、石室の中からは24領の甲冑をはじめ、盾・靫・矛・鏃など、大量の鉄製武具や武器が出土し、全国的に注目されるようになったと云う。
この石室は、長さ約4.3m・幅約0.7m・高さ約1.2mあり、副葬品を納めるために、砂岩の天井石8枚で覆われ、底には川原石が敷き詰められていた。
また、付属具として襟付短甲を含む甲冑24領のほか、鉄刀14・鉄剣10・鉄鉾9・石突6・鉄鏃56・刀子5などの武器が多数出土した。
甲冑の数は、一つの古墳からの出土数では日本最多と云う。
本古墳から出土した甲冑24領は、圧倒的な記録として考古学上貴重な資料。
この石室は、遺骸埋葬施設とは別に造られた、副葬品の埋葬施設と考えられており、本古墳の特徴と云える。
この調査より、黒姫山古墳は、5世紀中頃の古墳時代中期に、この地域で勢力を誇っていた丹比(たじひ)氏によって築造されたと考えられ、黒姫山古墳の被葬者は、丹比氏の首長の誰かと見られている。
また、中世の段階でかなり大規模な盛土がされており、城の砦として転用されていたことも分かっている。
洪積台地上に位置する当地は、もともと農耕には不向きであったが、丹比氏が池・溝の開発に必要な鉄製の鍬・鋤などを使い、叉渡来系の人々も総動員して、農耕を可能にしたことで、当地方で強大な勢力を創り上げたと想像される。
このことは、その権威を示す古墳が築造され、石室には大量の鉄製甲冑が埋葬されていたことで証明されている。
1957年、黒姫山古墳のもつ重要性から国の史跡に指定され、叉1978年には、周庭帯部分も追加指定され、1988年からは、国と府の補助を受けて、環境整備が実施されている。
1989年度から1992年度にかけて、史跡黒姫山古墳歴史の広場として整備され、古墳の東側には、写真の通り、前方部の竪穴式石室と墳丘上段部の埴輪列の一部が実物大で復元展示され、前方部の一部には円筒埴輪列が復元されている。
出土した大量の甲冑は、現在までに大半が保存処理を終え、堺市立みはら歴史博物館でその一部が展示されている。