近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

枚方市の牧野車塚古墳とは!

2010年02月28日 | 歴史
牧野車塚古墳は、枚方市小倉東町に所在し、枚方台地の北縁に沿って標高22m余りのところに築かれた古墳時代中期の前方後円墳。地名により「小倉車塚古墳」も云う。

本古墳は、現在は公園として整備され、コナラなどのドングリの木が多い事から、幼児によるドングリ拾いの人気スポットになっていると云う。





写真は、牧野車塚古墳墳頂から望む前方部及び本古墳南斜面の墳丘様子。

天野川流域の低湿地の周辺に村落を営んだ農耕氏族が築いてきた4世紀型の古墳で、この地域は、北河内でも前期古墳が多く分布しているらしい。






写真は、本古墳前方部墳頂から幽かに覗く東側の市立きららビル方面及び本古墳北側から望む後円部。

前方部が東を向き、周囲に幅およそ10mの空濠があり、墳丘は2段築成となっている。

本古墳は4世紀後半に造られたものと考えられており、北河内地区の首長の墓と見られ、大正11年に国指定史跡に指定された。

墳丘の周りに濠をめぐらし、西と南には外堤を設け、墳丘と周濠東側は大阪府北部の代表的な古墳だが、葺石は認められず、かつては埴輪も散乱していたというが今は見られない。

後円部側外堤西側の当時発掘調査で、幅4~5m・深さ20から30cmほどの濠跡が確認され、築造当初には2重濠であったことが判明した。また濠内からは円筒埴輪も検出されたと云う。

主要部の構造や副葬品の内容が不明のため、正確な築造年代は決められないが、墳丘の形状からみて4世紀後半の築造と考えられている。

なお、付近には赤塚・権現塚・子供塚。ショーガ塚等の地名が知られており、かつては牧野車塚を盟主墳とする古墳群が形成されていたものと見られる。





写真は、公園化された、本古墳南側からの全体像及び本古墳墳頂に敷かれた舗装道。

昭和54年10月、国史跡に追加指定されたところは、枚方市が公有化した周濠の南側と、昭和53年に発掘調査で確認した墳丘西側の外濠部分で、これらの追加により、全周の約3分の2が国史跡に指定されたことになる。

ということで全体像として、全長107.5m・前方部44m・後円部径54.5mの前方後円墳。

本古墳は、大和に描かれた大三角形の頂点に位置するとし、イギリスのストーンヘンジ(イギリスで最も重要とされている、巨石が同心円状に配置された、約5,000年前の遺跡)との関連性にも言及され、真偽は判らないが謎めいた古墳。

5世紀以前は神話と実話が混在しており古代史自身謎が多いが、本古墳の埋葬者は4~5世紀の重要な人物だったことは間違いないだろう。







枚方市の禁野車塚古墳とは!そのⅡ

2010年02月26日 | 歴史
枚方市の禁野車塚古墳巡りを続けます。

本古墳は、枚方市宮之阪の国史跡に指定された前方後円墳で、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半、同約280m)と同じ規格で造られた相似墳と云われている。





写真は、後円部から見た、前方部の画面中央部両側が内側にくびれた形状と前方部左手の南側から見た、くびれ部分が舗装された様子。

写真のように、前方部が三味線のばち形をしている点、後円部からくびれ部にかけてスロープがあるほか、幅が最も狭い部分が前方部にある点などの特徴が箸墓古墳と共通し、縮尺を調整して測量図を重ねると等高線がほぼ一致したことから、相似墳と判断したという。

叉丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られた点と、大阪府柏原市の芝山産の石材が共に使われた点が、箸墓古墳と共通しているらしい。

ということからも、本古墳の埋葬者は箸墓の密接な同盟者だったとみられる。

箸墓古墳を造ったのと同じ技術者集団が、淀川上流域を支配し大和王権と従属関係にあった人物を埋葬するために造ったと見られている。

淀川左岸の古墳時代の始まりを解明する上でも極めて重要な古墳と言うことが出来る。

この地が淀川と天野川の合流地点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられている。

箸墓古墳の相似墳は、3世紀中ごろから4世紀前半までに造られたとみられる約20基が西日本で確認されている。

奈良県内には西殿塚古墳(全長約230m)など3基がある。他府県では、京都府木津川市の椿井大塚山古墳(同約175m)などがある。

同じような形状の本古墳が、府内で確認されるのは初めてで、府内最古級の古墳となる。

枚方市の禁野車塚古墳とは!そのⅠ

2010年02月24日 | 歴史
禁野車塚古墳は、全長約110mの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳。

後円部の直径は約57m・同高さは9.9m・前方部の幅40mほどを測り、前方部を西に向けている。

しかし2008年に3大学よる測量調査を行ったところ、墳丘全長もこれまでより約10メートル長い約120mであることが判明したと云う。





写真は、史跡公園化された、禁野車塚古墳前方部末端と本古墳前方部脇を流れる、歩道を挟んで北向きの天野川流域。

本古墳は、天野川水系の古墳時代を考える上で不可欠の古墳として、1972年に現状の墳丘部分が国史跡に指定された。

淀川支流の天野川東岸に面して造られているが、墳丘の発掘調査が実施されておらず、被葬者は分かっていない。

ここ前方部は、史跡公園端の金網部分で削られている。





写真は、京阪電鉄踏切を挟んで接する、本古墳後円部光景と近年発掘調査が行なわれ埋め戻された後円部裾部。





写真は、本古墳から北側を望む、国史跡記念公園石碑及び、本古墳南側斜面の墳丘光景。

はっきり分からないが、墳丘は2段に築成されたそうで、葺石と埴輪の存在も認められたと云う。

内部構造や副葬品については明らかではないが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性がある。

したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定されていた。

しかし、これまでに出土した埴輪から本古墳の築造時期が、3世紀末から4世紀初めに遡るとみられる。


大阪高槻市の阿武山古墳とは!

2010年02月22日 | 歴史
阿武山古墳は、高槻市大字奈佐原の阿武山中腹・標高約210mの尾根上にある。昭和9年、京都大学の地震観測施設建設の際に偶然発見されたらしい。

桑原遺跡から東側・高槻市側の丘陵へ急上昇し、その頂部付近に7世紀末の阿武山古墳がある。









写真は上から、高槻市と茨木市に跨る阿武山中腹に築かれた阿武山古墳の遠景、近景及び墓室。

本古墳は高槻市・茨木市に跨る7世紀末・古墳時代終末期の円墳で、盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5mの浅い溝を円形に巡らせ、直径82mほどの墓域を区画している。





写真は、本古墳から出土した浹紵棺(きょうちょかんと読み、意味は漆で塗りかためた布を重ねてつくった棺)及び冠帽や緑や青のガラス球を連ねた玉枕。

花崗岩とレンガで造られた石棺式石室には、夾紵棺と呼ばれる乾漆棺が安置され、推定年令60歳代の男性遺体が発見されたことから、「金糸をまとった貴人の墓」として大いに注目された。

石室中央に置かれた夾紵棺の頭部からは、写真のような冠帽や青と緑のガラス玉を銀線で連ねて錦で包んだ玉枕が出土したと云う。

これらは元どおり埋め戻されたらしいが、当時撮影されたX線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽をそえてあったことが分かっている。

被葬者は相当な地位にあった人物と考えられるが、「藤原家伝」によると、藤原・中臣鎌足は、飛鳥時代に中大兄皇子(後の天智天皇)に協力して蘇我氏を滅ぼした、645年の所謂「大化の改新」の前年に“三島の地”(現在の高槻市内)に隠棲していたと云う。

藤原鎌足は大化改新に力を尽くしたことで、朝廷における最高の実力者となり、琵琶湖に近く、当時から交通の要衝とされていた山科に「陶原の館」と呼ばれる邸宅を建てたと伝えられている。

邸宅には“山階精舎”と呼ばれるお堂がつくられたと云う。

その後阿武山、そして多武峯へと改葬されたと伝えられており、当地高槻市安威を藤原鎌足の墓とする説が沸き起こり、昭和58年に国指定史跡となった。

遺体が纏っていた金糸が、藤原鎌足に送られた「大織冠」ではないかとされ、また鎌足の死亡の原因が落馬によるものだという記事もあり、骨折がこれを証明していると云える。

藤原鎌足に授けられた、大織冠とは藤原鎌足が死ぬ直前、藤原姓とともに天皇から下賜されたもので、冠位十二階より上位の、冠位の最高位を表し、日本書紀にもその記録が残されているらしい。



高槻市の芝谷遺跡とは!

2010年02月20日 | 歴史
芝谷古墳は、芝谷中学校の北側の道路を隔てた場所で、芝谷町中央公園内にあり、芝谷町日吉台丘陵中央部・標高約92mの尾根上に位置する。







写真は、芝谷古墳、柵越えに覗く同古墳墳丘及び芝谷町中央公園越しに望む、同古墳の森。

全長約40mの前方後円墳だが、一寸目には巨大な墳丘を持つ古墳のようにも見える。

丘陵尾根上に保存されていることもあり、前方後円墳であるとは認識できない。

古墳の周囲は、石垣とフェンスで完全に囲まれており、墳丘に立ち入ることはできない。

更に立派な幅の広い階段が古墳墳頂部に向かってつけられているが、厳重に保存され、古墳に入れない状態になっているのはどうしてか?

厳重保存の理由は分からないが、開放されていない以上、この古墳についての実態、詳細を知ることはできない。

埋葬施設などは不明だが、採集された埴輪片から、古墳時代終末期頃の築造と見られ、被葬者は丘陵下に拡がっている、“浦堂”地域一帯の有力者と推定されているらしいが???



高槻市の塚原古墳群とは!

2010年02月18日 | 歴史
塚原古墳群は、古墳研究の先駆けとなった古墳群として注目されたと云う。

本古墳群は、大阪平野を一望する阿武山東・南斜面一帯に営まれた6世紀中頃から7世紀中頃に造られた、府下屈指の群集墳。

本古墳群の分布範囲は、東は高槻赤十字病院構内、西は安威川、南は経王寺境内、北は京大阿武山地震観測所付近にまで及んでいる。

当地塚原地区には、古墳時代後期に造られた、10数群・110余基に及ぶ古墳群があり、「塚原八十塚」とも呼ばれたそうで、現在は40基ほどが残る。

現在は宅地化が進み、開発によって失われた古墳も数多くあるが、現在でも広範囲にわたり散在しており、一部は公園の一画などに保存されている。

塚原3丁目の阿武山ゴルフセンターから背後の山中にかけて分布するが、ゴルフ練習場にも残された古墳を見ることができる。









写真は上から、塚原2丁目・3丁目に広がる塚原古墳群・八十塚古墳の看板及び森の中に取り残された墳丘、阿武山ゴルフ練習場に残る複数の墳丘、民家に接した“塚原B33号墳”の案内板と横穴式石室。

これらのほとんどが横穴式石室を有する、直径8~17mの円墳で、2~4基毎にかたまって営まれており、家族ごとに墓域が決められていたと思われる。

写真の塚原B33号墳は、周濠を巡らせた直径18mほどの円墳で、埋め戻され保存された石室の全長は約6.6mもあり、耳輪・鉄製の武器・食器などの副葬品のほか、木棺の金具・鉄釘などが出土したと云う。

これら古墳群に葬られた人々は、安威川流域にあった集落の有力者層と考えられる。

古墳の多くは横穴式石室をもつ円墳だが、方墳や埴輪を巡らせた円墳もある。

出土品は、土師器・須恵器の他、埴輪・装身具・馬具・鉄刀などの鉄製武器・刀の把頭などもあり、被葬者の人物像・職業・身分を知る手がかりとなる。





写真は、塚原古墳群から出土した金製耳飾り及び鉄製武器類。

又、旧石器・縄文・弥生時代の遺物も出土していると云う。

ここに葬られた人々は、埋葬品から安威川流域の集落の有力者層と考えられている。

本古墳群周辺には、阿武山古墳や桑原古墳群など藤原鎌足はじめ藤原氏ゆかりの墓群が散在していること、或いは出土した貴重な副葬品から察するに、被葬者の中には、藤原氏系の墓群があるかもしれない。

明治5年に大阪造幣局に招かれたイギリス人技師、ウイリアム・ゴーランド氏によって世界に紹介され、わが国の古墳研究の先駆けとなった記念すべき古墳群らしい。






高槻市の昼神車塚古墳とは!

2010年02月16日 | 歴史
昼神車塚古墳は、上宮天満宮への参道(石段)登り口の右手、日神山南麓に接して、府道をはさんだ南に位置する前方後円墳。

日神山南麓に接する前方部を横切って府道が通っているが、交差部は前方部の下をくぐるトンネル構造となっている。







写真は、平成10年当時の北側から望む昼神車塚古墳の光景、本古墳北側に配列された埴輪列及び道路のトンネル上に載るように移設された、本古墳東側の様子。

全長約60m・後円部直径約35m・前方部幅約40mの墳丘で、6世紀中頃の古墳時代後期の築造という。

現在は上宮天満宮の境内に含まれるが、東・西・南側は民地に接するため全体像は見えないし、本古墳が見える北側は鉄柵で囲まれて、内側へは入れない。

墳丘上に“車塚・上宮天満宮境内”との石標が立ち、テラスには、写真の通り、前方部から出土したという角笛をもつ狩人・猪を追う犬・人物像・円筒などの埴輪が並べられているが、いずれも複製品。

本古墳は、標高48mの天神山へ登る石段の登り口にあるが、天神山は高槻市街を北から見守っている形。天神山からは銅鐸が出土したと云われている。

本古墳からは多数の埴輪が出土しており、継体陵とされる“今城塚古墳”や宮内庁指定の継体陵である“太田茶臼山古墳”などの埴輪は同じ窯で作られたようで、土師氏が当地に滞在して古墳や埴輪作りに従事したとされる。

土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族と云われている。

本古墳は、野身神社の祭神・野見宿禰の墓という伝承があり、1798年の“摂津名所図解”には民家に囲まれた塚の上に“のみ塚”とあるらしい。

高槻市の今城塚古墳~継体天皇陵の所在地を巡って!そのⅡ

2010年02月14日 | 歴史
高槻市の今城塚古墳の所在地を巡って、真相解明に迫ります。

天皇陵は、大和・河内地方に集中しているが、唯一継体天皇陵のみが攝津の地に営まれている。

継体天皇の出身地でもない摂津に、何故陵墓が築かれたかは明らかではないが、淀川と山陽道を間近に望む沃野に大王陵を誇示することにその意義があったと考えられるが?????

一方茨木市の“太田茶臼山古墳”は、宮内庁直管轄の継体天皇陵として観光案内にも表示されている。茨木市教育委員会の現地説明看板にも否定的なコメントは今の所見当たらない。

太田茶臼山古墳は、5世紀前半から中頃の造営見とられることから、継体天皇の没年が531年であることを考え合わせると、年代的に継体天皇陵とは別物であることは間違いない。

全長約226mの古墳のメンテは、鉄条門・外濠の瑞々しさ等言うこと無しのほぼ完璧に近い保管状況からも、事実誤認が、双方の管理・保存レベルをこれほどまでに大きく変えてしまうかと思うと、残念でならない。









写真は、茨木市の太田茶臼山古墳の空からの全体像、平成9年当時の正面像、
平成22年1月の本古墳サイドビュー及び幅30m前後の周濠。

本古墳の規模は、墳丘全長226m・前方部幅147m・前方部長117m・前方部高19.8m・後円部径138m・後円部高19.2mほどで、幅約28~33mの濠がめぐっている。

また後円部と前方部が接するところに、写真の通り、造り出しが設けられている。

本古墳は、民家の密集地に、外濠に囲まれて浮き上がっているように見える立派な古墳。
見た目の通り、継体天皇陵に相応しいが???

2002年10月からの発掘調査の結果では、5世紀中頃に造られた埴輪が、埋葬された当時の状態で墳丘本体上に確認されたという。このことは、この古墳の被葬者は継体天皇でないことを裏付ける有力な証拠になる。

常識的に考えれば、5世紀中葉の継体陵(太田茶臼山古墳)は、継体天皇の先代ということになり、第26代・継体天皇から第19代・允恭天王(412~453年)まで遡ることになるが、残念ながら先代天皇陵とは、適切な関連性が見当たらない。

太田茶臼山古墳は土地の豪族の墓と考えられているが、明確ではないと云う。





写真は、太田茶臼山古墳から数百mの範囲に点在する陪冢の事例。宮内庁銘の石碑が立てられている。他にも近所に2ヶ所の陪冢が見受けられる。

大きな古墳、特に天皇陵の近くには古墳の被葬者の従者や近親者を葬った小さい古墳、陪冢が見られることはしばしばで、この太田茶臼山古墳も数基の陪冢が、近所に保存されている。

ということで、どのような氏族・人物が想定されるのか?については、宮内庁指定の継体陵(太田茶臼山古墳)か、或いは、すぐ近くの今城塚古墳か、両者を堂々巡りするのが今までの経過であった。

これまでの仮説や通説を一切外して、考古学的な解釈だけでなく、当地域の伝承・史跡や地政学的考察、天文と地理とを結び付けた方位暦など、複合的な総合判断が求められるが、太田茶臼山古墳の被葬者は誰なのか、現状では結論付けることは極めて難しい。




高槻市の今城塚古墳~継体天皇陵の所在地を巡って!そのⅠ

2010年02月12日 | 歴史
継体天皇陵の本命と見られる、高槻市の「今城塚古墳」は、全長350m・総幅約340mの巨大古墳で、6世紀前半の造営とされる国指定史跡。



写真は、今城塚古墳の空からの映像。

今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳で、西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、日本最大の家型埴輪や精緻な武人埴輪が発見されている。

本古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳。







写真は、地震による総崩れ状態の石組跡、数多くの埴輪出土状況及び高さ約170cmの日本最大の家型埴輪。

今後の整備・公開に向けて平成9年以降、引続き確認調査が行われており、古墳の規模をはじめ、城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られている。

なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からは、大量の円筒埴輪や太刀を持った武人、力士や巫女、盾や動物など、さまざまな形をした形象埴輪を多数設置した埴輪祭祀区も確認されている。



写真は、今城塚古墳墳丘の張出し部で行なわれたと見られる、埴輪祭祀場跡で、いろいろな埴輪が散乱しいている。

家型・人物・動物などの形象埴輪が配置され、亡き大王との別れを惜しみつつ、新たな大王が引継ぐ祭祀場として、造られたのではないか?
大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めている。



写真は、平成10年当時、本古墳外濠で魚釣りが横行していた光景。

巨大古墳は荒れたい放題に荒れており、宮内庁の管理下になかったことが、これほどメンテナンス上の不行き届きをもたらすものかと、事実誤認の恐ろしさと悲哀を痛感せざるを得ない。

現在も発掘調査中とのことだが、引続き発掘が出来るのは、皮肉にも宮内庁の管轄にないためであると見られ、現状とは相矛盾している状況。





写真は、柵で囲まれた平成10年当時の今城塚古墳及び本古墳の墳丘。

今城塚古墳は、遺跡公園として出入り自由、わずかに柵が設けられているが、犬の散歩コースとしても恰好。外濠も一部にその面影を残しているが、復旧は難しいのではないかと思われる。

そういう中で、平成16年から7ヵ年計画で、本古墳の修復再現プロジェクトが進められている。





写真は、平成22年1月現在進行中の今城塚古墳の修復再現工事。

本古墳の遺構を盛土で保護し、墳丘は裾部に護岸列石を復元し、埴輪祭祀場周辺から二重濠の復元整備、造出し部の復元と埴輪列の再現等々により、往時を想わせる墳丘や全体像の再現工事を進めている。

順調にいけば、平成23年春には、壮大な歴史空間が史跡公園として蘇る予定。

本古墳の被葬者とされる、継体天皇の経歴については、凡そ以下のように言い伝えられている。越前・近江の豪族で、淀川流域にも勢力をもつ息長氏の出であるという説が有力。

大和の豪族大連・大伴金村に推され、大王位につくが王宮は樟葉の宮(枚方市)、筒城の宮(京田辺市)、弟国の宮(長岡京市)などを転々とし、晩年まで中央(大和)に入れなかった。

葛城氏など、今で言う強力な抵抗勢力が存在したためだが、一説によると、葛城氏の支族であった、蘇我氏の協力を得てやっと大和入りを果たしたというが・・・・・・。













高槻市丘陵地の遺跡群とは!

2010年02月10日 | 歴史
高槻市の3分の1が、山林により占められる丘陵地形という、大阪平野の北にひろがる北摂山地が特徴的で、広い範囲にわたり雑木林が保たれてきた。

しかし1963年に北摂山地を横断する名神高速道が開通したが、その敷設工事と共に宅地開発も急速に進み、日本を代表する数多くの古墳群を有する古墳地帯や弥生時代の環濠集落なども、その犠牲となり、一部或いは全体が消滅してしまった経緯がある。





写真は、高槻市丘陵地をV字形に上下する、名神高速道路の異常な形状とこの高速道路沿いに集中する古墳群。

本古墳の南東に位置する、“美しが丘”の標高80~100mの丘陵上には、弥生時代後期の古曽部・芝谷遺跡があり、尾根や急斜面を造成して、100棟以上の竪穴式住居や幅8m・深さ5mほどの濠がめぐる大きな高地性ムラが開発されていたと云う。





写真は、現在の美しが丘住宅地とここから望む高槻市街地光景及び平成7年当時・当地の古曽部・芝谷遺跡の現地説明会風景。

丘陵の中腹にある、幅5mほどの環濠が、東西約600m・南北約500mの住居地を巡っている。

これら環濠からは多くの土器、石や鉄の武器や農耕具、米やドングリなどの食料が見つかったが、中には河内地方や滋賀県、さらには瀬戸内海を通じて香川県や広島県から運ばれてきた土器もあり、広範囲の交流があったことが窺い知れる。

古曽部・芝谷遺跡から続く谷を下ると安満遺跡にたどり着くが、見つかった土器や石器の形・材質から古曽部・芝谷ムラの人々は安満ムラとの強いつながりのなかで暮らしていたことが窺えると云う。

本遺跡の所在地は、30数年前頃には木々に覆われていたが、バブルの頃この山を崩して宅地開発をする計画が持ち上がり、事前調査したところ、この辺りに巨大な弥生時代の高地性環濠集落跡が発見されため、一時開発が中止された。このような巨大規模集落跡を保存するかどうか議論があったらしい。

結局開発許可が下りたものの、バブルがはじけ長い間、空き地になっていたが、ここ数年で開発が進み、写真の通り、今では瀟洒な住宅街になっている。

起伏が激しい丘陵地の“美しが丘”住宅地から南東へ数百mの紅茸町にも、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡・古墳群が見つかっている。



写真は、現在の紅茸町住宅地で、市立第八中学校の南側斜面にある。

名神高速道沿いに立地する当地には、弥生時代後期の集落跡に重なって、5~6世紀に造られた17基の古墳が見つかっている。

この紅茸山古墳群は、1970年当中学校建設に先立って、紅茸山遺跡の発掘調査が行なわれた際に発見され、住宅地開発の中で、現在でも当学校内に紅茸山C1号墳として残されている。






高槻市の土保山古墳とは!

2010年02月08日 | 歴史
土保山古墳(どぼやま)は高槻市郡家本町に所在し、名神高速道路工事に伴って、道路予定地となった、当時の高槻工兵隊演習場跡地に立地する、現在の市立第二中学校の学校敷地から発掘された。









写真は、本古墳から望む名神高速道と開発された住宅街、市立第二中学校内の発掘現場から垣間見る名神高速道の防音壁、本古墳から出土した石室全景及び石室内部。

本学校は、高槻市で2番目の市立中学校として、1949年に高槻市立第一中学校から分離開校した。古墳は、現在の同校敷地内に復元されている。

古墳本体は、道路・住宅地などの開発に伴い消滅してしまったと云う。

昭和30年代の発掘調査がまだ珍しかったころ、高槻市では名神高速道路の建設に伴い、多くの古墳が発掘調査されたが、そのひとつが土保山古墳で、大阪府教育委員会が主体となり、京都大学から多くの研究者が参加して行なわれたと云う。

本古墳は、5世紀中頃に造られた直径約30mの円墳で、昭和34年名神高速道敷設に伴う発掘調査の結果、竪穴式石室と貴重な副葬品を埋葬した木棺が見つかった。

本古墳で見つかった大量の埴輪は、太田茶臼山古墳(5世紀中頃、茨木市・現継体陵)や史跡今城塚古墳(6世紀前半、郡家新町)といった巨大古墳をはじめとして、土保山古墳や昼神車塚古墳などの三島地方の有力者の墓にも立て並べられた。

太田茶臼山古墳や今城塚古墳のような、天皇家のお墓だけでなく、本古墳や昼神車塚古墳などの三島の有力者からも、頼まれれば、埴輪を提供していたことになる。



写真は、本古墳から出土した木棺。

木棺からは、弓のほか、鏡・首飾り・櫛・鎧・刀・盾・矛・馬具などが検出された。

弓・矢・甲などは完全な状態で発見され、当時豪族が所有していた武具が明らかになったが、当地大王の武人的な性格を知ることができる。

発掘品の中には、色々な弓が見られたが、それらは多く断片で全形はわからないらしい。
しかし古墳時代後期の本古墳から出土した“弓六張り”は、見事な漆塗りの約2mの長弓で、奈良朝時代の正倉院の木弓、その後の奈良春日大社の木弓につながるものと云う。

遡ると、縄文式時代後期の是川遺跡(青森県八戸市)、弥生式時代の唐古遺跡(奈良県田原町)、登呂遺跡(静岡市南)などから出土した弓のなかに、長弓形式のものがあるらしい。

発掘調査時は、今のように木製遺物を保存処理する技術が十分でなかった時代。

木棺は自然に乾燥のままで、不用意に動かすと破損の恐れもあり、しかも長さは約3mもあると云う。


高槻市の新池埴輪製作遺跡とは!

2010年02月06日 | 歴史
新池埴輪製作遺跡は市内上土室にあり、5世紀中頃から6世紀中頃までの3時期・約100年間操業していた、日本最古最大級の埴輪生産遺跡。

ハニワ生産工房の始まりは450年頃で、第3期の530年頃には、今城塚古墳のために工房が更に追加され、生産はピークに達したと云う。

そして大型の前方後円墳が築かれなくなった550年頃にはハニワづくりも終焉したと云う。





写真は、平成10年当時の新池埴輪製作遺跡の大型埴輪窯跡と工房跡及び当時のマンション開発状況。

3棟の大形埴輪工房・18基の埴輪窯・工人集落などが、丘陵上約27,000㎡の発掘調査で確認され、大王陵級古墳の埴輪生産システムを具体的に知ることができる全国でも初めての貴重な遺跡。

ここで作られた大量の埴輪は、“太田茶臼山古墳”(5世紀中頃の茨木市・現継体陵)や“史跡今城塚古墳”(6世紀前半、郡家新町)といった巨大古墳をはじめとして、“土保山古墳”や“昼神車塚古墳”などの三島地方の有力豪族の墓にも立て並べられていた。

また同時に確認された7世紀の集落跡からは、新羅土器も出土して、『日本書紀』の欽明天皇23年条にある新羅人の子孫が住むという「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」そのものにあたると考えられ、『日本書紀』の記述を裏付ける遺跡でもある。







写真は、現在の高層住宅群一角に再現された古代のハニワ工房と窯跡群。
上の写真のように、斜面をトンネル状に掘りぬいて窯を造った。ハニワ工房には20人ほどのハニワ工人が働いていたらしい。

写真の通り、緑豊かな自然環境に恵まれた、当地辺り一帯は、上述写真の12年前のマンションを中心とした宅地開発状況と比較しても、宅地開発が一層進んでいる。

“史跡新池ハニワ工場公園”は、新池東側の丘陵上に展開する最古・最大級のハニワ工場跡を整備し、マンガ陶板や復元ハニワを通して、楽しく古墳時代やハニワづくりの様子が学べるところ。

当地に工場が造られ、ハニワの製造が始まったのは西暦450年頃とされている。当時、ハニワは太田茶臼山古墳のために造られたらしい。



写真は、新池ハニワ工房のうち、今城塚古墳用にハニワを焼いたとされる、最大級の18号窯を当時のまま復元している埴輪窯。

480年頃には窯、住居共に新設され、番山古墳などのハニワを焼いていたと推定されている。

更に、530年頃には今城塚古墳のために窯が多数造成され、ハニワの生産量は最大となり、今城塚には数万本のハニワを送り出したと云われている。

ハニワの製造工場は日本全国で約90ヶ所発見されているらしいが、天皇陵のためのハニワ工場の全体像が明らかになっているのは、この新池遺跡だけ。

この埴輪製造工場は約100年間稼働した後、550年頃以降からは大きな古墳が築造されなくなったため、この工場も閉鎖されたらしい。



高槻市の前塚古墳とは!

2010年02月04日 | 歴史
前塚古墳は、今城塚古墳のすぐ北側、一部がすし屋の駐車場として使われているが、墳丘が小山として残されている。

現状は径約64m・高さ約7mの円墳状だが、前方部が削平されたためで、元々は周濠を伴う帆立貝形前方後円墳。







写真は、西側から見た、現在の前塚古墳全景及び1階が回転すし屋店舗のマンションに密接した同古墳の南側側面及び6年前の同古墳東側の墳丘裾部分。





写真は、駐車場として削り取られた、現在の前塚古墳光景及び6年前田圃に囲まれていた当時の、墳丘中腹に残されていた駐車場。

両写真を比較対照してみると、住宅開発テンポの速さが窺い知れる。古墳墳丘裾部と前庭の田圃が、すっかりコンクリート舗装されてしまった。

本古墳は、番山古墳とほぼ同形・同規模で、家形埴輪などの埴輪が検出されている。

叉本古墳からは、凝灰岩製の長持形石棺が出土し、鏡・鉄刀・鉾などが見つかっている。

前塚古墳という名称とその場所から見て、この古墳は今城塚古墳の陪冢(ばいちょう:大きな古墳に近接した小さい古墳で、近親者や従者を葬った墓)ではないかと見られている。

写真のように、住宅マンションは、同古墳の裾の部分を一部削り取り、古墳裾部分に密接して建てられている。

墳丘部には駐車している車が見えるが、墳丘の上部一部が削り取られ、駐車場になっている。

自然環境に恵まれ、閑静な住環境だけに、住宅開発の勢いに押されて、文化財保全が犠牲にされてきたきらいがあるが、これからは文化財保護所管部門の監視機能の強化に期待したい。

前塚古墳東側の墳丘裾部分は、見ての通り、墳丘の裾が段状になっているのが特徴的。

この古墳が造られたのは5世紀後半と考えられており、もともとは西向きの前方後円墳だったらしいが、現状では円墳のように見える。

高槻市の二子山古墳とは!

2010年02月02日 | 歴史
二子山古墳は、高槻市上土室に位置し、宮内庁により継体天皇陵の陪冢となっている。二子山古墳は名前の通り、2つの墳丘が近接している。

高槻市内の名神高速道路は丘陵地と淀川の沖積地の間を横断している。高速道路の開通で周辺は住宅地としても開発された結果、多くの遺跡も消滅した。





写真は、宮内庁公認の継体天皇陵陪冢の石碑及び二子のように見える二子山古墳現場。その向こう側には名神高速道の防音壁が見える。

二子山古墳は、写真に見られるように継体天皇陵の陪冢(“ばいちょう”とは大きな古墳に近接した小さい古墳のこと)で、継体天皇の近親者や従臣を葬った墓として宮内庁の管理下にある。

本古墳が“二子山古墳”と呼ばれているのは、写真でもわかるように二つの墳丘が近接した形に由来しているものと思われる。二個の墳丘の裾は互いに重なっているが、冬期、墳丘上の木が落葉すると二つの墳丘の存在を認めることができるらしい。

このあたりの古墳は、地域の古い呼び名から「三島古墳群」と呼ばれている。

このあたり「土室」地区の丘陵地域から平野部にかけては、「塚原」地区と呼ばれ、5世紀の高槻を代表する古墳が集中して造られたところとして知られている。当地にはあらゆるかたちの古墳があり、古墳の宝庫だったらしい。

古墳群には、北から番山古墳、土保山古墳、石塚古墳、二子山古墳、高樋古墳などが分布していた。

昭和22年に調査が行われた“土保山古墳”には、長持形木棺を納めた竪穴式石室が発見され、副葬品として弓や刀、盾、短甲など貴重な遺物が多数出土したと云う。しかし現在は番山古墳と二子山古墳しか残っていないと云う。

二子山古墳墳丘の東南側は、写真にも見えるように、名神高速道路に密接し、二つある墳丘の内、一つの墳丘の裾は高速道路の下側に入り込むような状態で高速道路がつけられている。

一般道は高速道路に近接して平行につけられているが、古墳のあるところはそれを避けるために、写真のように、道は大きく迂回している。

この付近には、かつて多数の古墳や遺跡が存在したようであるが、水田・道路・宅地造成等で殆どが破壊されたという。

古墳の付近は夜になると寂しくなり、古墳から幽霊が出るという噂があったらしい?幽霊のせいか、迂回による急カーブのせいかわからないが、ここで交通事故がしばしば起こると云うが・・・・・・。