近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “天狗党の乱”

2007年05月15日 | 歴史
幕府は、天狗党追討令を出し、水戸藩・関東諸藩に討伐を命じた。



写真は、水戸藩士・市川三左衛門の肖像画。
水戸藩は、保守派の市川三左衛門らを中心とする諸生党を結成し、1864年8月、諸生党・諸藩連合軍と天狗党との戦闘が、筑波山山麓で開始された。

一進一退を繰返していくうちに、保守鎮圧派の中にも天狗党に対する賛同論が広がり、宍戸藩主・松平頼徳や鎮圧派・武田耕雲斎などが天狗党に合流し、天狗党は益々自己増殖していった。

諸生党と天狗党との内部抗争・戦乱は次第に暴徒化し、一族の屋敷を放火したり、家人を投獄したり、身内を虐待したり、報復したりと、市川・藤田両党リーダーとも暴徒を抑えることができないほど、先鋭化・泥沼化していった。

当初参加していた他藩の志士たちは、天狗党の目的が水戸藩内の内部対立抗争に傾いていくに従って、離反していった。

一度は敗戦・後退していた諸生党は、幕府の応援を得ることにより挽回し、そして宍戸藩主・松平頼徳が切腹し、千人余りの天狗党員が投降すると共に、天狗党は大混乱に陥った。



写真は、天狗党首領・武田耕雲斎の肖像画。
一旦は後退・再編成し直した後、総大将・武田耕雲斎の天狗党は、朝廷に直接尊皇攘夷の志を訴えることを決し、京都に向けて出発・進軍を続けた。

この時点で、天狗党は数十門の大砲を所持し、軍隊も精鋭集団であったことから、多くの諸藩は臆して手が出ず、見守るだけであったと云う。

1865年1月、天狗党一行は、遂に最期の地、越前新保(福井県敦賀市)に至った。
幕府としては、長州と同様、勝手な行動を許すわけにはいかず、慶喜は自ら追討軍総大将として鎮圧に出陣したことを武田耕雲斎の知るところとなり、耕雲斎は降伏し、慶喜は公平を期するために天狗党の身柄を幕府に引き渡すよう命じ、天狗党の処分は幕府に一任してしまった。



写真は、天狗党員が押し込められた、異臭で苦しめられた、敦賀浜のにしん倉・回天館。

武田耕雲斎ら天狗党の主要メンバーが幕府・諸藩の一つ、多賀藩に投降し、“天狗党の乱”は、完全に鎮圧された。
多賀藩は天狗党の行動は単に勤皇の志に動かされたものなので、寛大な処分を嘆願したが、同情論・過激派による更なる挙兵を未然に防ぎたい幕府によって全員の処刑が決定された。



写真は、水戸市松本町常盤共有墓地の天狗党353名の殉難志士の墓。
武田耕雲斎が斬首されたのをはじめ、353人が斬首され、他は遠島、追放などの処分が科されたと云う。

その処分の厳しさは、幕府だけでなく、幕府に一任した慶喜への非難を招くと共に、将来に禍根を残すことになった。
暴徒化した天狗党に対する報復としての、厳しい仕打ちは、将来身内同士のプライベートな仕打ちを呼ぶことになる。




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