近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

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奈良県田原本町の唐古鍵遺跡公園建設にまつわる最新情報そのⅢ

2016年05月29日 | 歴史
奈良唐古鍵遺跡公園建設にまつわる最新ストーリーの最終編をお送りします。

先ずは唐古鍵遺跡の弥生時代の推移を概観してみると、中期には3ヶ所の居住区が統合され、全体を囲む大環濠が掘削される。

内側の環濠は幅8m以上、その大環濠を囲むように幅4~5mの環濠が4~5重に巡らされる多重環濠。

これらの多重環濠群は居住区の外縁を幅150~200mで囲み、環濠帯を形成している。大環濠で囲まれたムラの大きさは、直径約400mと考えられる。

このムラの西南部に河内や近江、紀伊など各地の搬入土器が多く出土する私的な場所であり、また、南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡、北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土する所などがあり、各種工人の居住の場所と推定される。

南地区の中央部に高床建物が建っていた可能性が高く、ムラの中枢部と考えられる。

このようなことから大環濠内では、各種の機能別に区画されていたと考えられている。

弥生時代中期初頭(紀元前3世紀末~2世紀初頭)に建てられた東西約7m・南北11.4mの大規模な建物の柱穴跡及び柱の一部が見つかった。





上の写真は、第74次発掘調査で検出された大型掘立柱建物跡とケヤキ製柱根の一部。

弥生時代中期初頭(紀元前3世紀末~2世紀初頭)に建てられた東西約7m・南北11.4mの大規模な建物の柱穴跡及び柱根の一部が見つかった。

今回検出された大型掘建柱建物は、南北に3列の柱穴列から成る。東柱列5本・中央柱列5本・西柱列6本で、柱穴の長軸約2m・短軸約1m・深さ約60cmの規模を持つ。

柱根が残存しヤマグワとケヤキ材計4本が確認されが、多くの柱で床を支える総柱型の高床式建物の跡で、日本最古と云われる。

その後弥生時代中期末の洪水で環濠の大半は埋没する。その後再掘削が行われるが、弥生時代後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小していく。 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少していったと云う。

唐古鍵遺跡から僅か2kmほどしか離れていない、纒向遺跡との関係について、唐古鍵遺跡は大規模な多重環濠集落であったが、纒向遺跡にはそれが見えないことなどから、唐古鍵遺跡が纒向遺跡の衛星集落ないし「邪馬台国」の一部だったかもしれない。

その後集落の移動が起こり、弥生後期には人口現象が著しい。

唐古鍵集落の弥生時代文化が纒向へと引継がれていったとも考えられる。


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奈良県田原本町の唐古鍵遺跡公園建設にまつわる最新情報そのⅡ

2016年03月31日 | 歴史
奈良の唐古鍵遺跡公園建設にまつわる最新情報第二段を以下紹介します。

整備委員会による整備計画では、遺構を保護するための盛り土を行ったあと、唐古池の東側に発掘調査で見つかった環濠を復元。

コナラやクヌギ、ヤマモモ、シラカシなどの樹木を植えて、当時の植生もよみがえらせる。又散策路周辺にはノシバも植える。





上の写真は、当遺跡の現在の入口と遺跡内部の唐古池越しに見える楼閣光景。

池の東側の国道24号沿いには公園への入り口と、当時の建物跡を再現した遺構展示館を設置。

平成15年に大型建物跡が見つかった場所については、「復元整備ゾーン」として展示方法を検討する。

池の南側にはイベントや野外活動ができる広場、トイレ、東屋(壁がなく、柱だけの、眺望、休憩などの目的で設置される簡素な建屋)などを設置予定。

町は「町民の皆さんに憩いや歴史学習の場を提供するとともに、観光拠点にもなるように整備したい。遠くの山並みや周辺の田園風景がよい借景となり、散策や自然観察も楽しめる場所になるだろう」としている。

ここからは、唐古鍵遺跡ならではの画期的・全国的にも珍しい特徴・発見について概観する。

最初に取上げなければならないのが、多量に見つかった絵画土器。

絵画土器は百数十点を数え、全国出土総数の半分ほどを占める。

絵画土器の中でも楼閣絵図は写真の通り、既に本遺跡内に復元されている。

更に絵画土器の絵図の中には、シャーマンの衣服を髣髴とさせるものも見つかっている。






上の写真は、唐古鍵遺跡から出土した絵画土器に描かれた楼閣絵図と絵図をそれらしく復元した、唐古池脇の楼閣光景。





上の写真は、本遺跡から出土した壷に描かれたシャーマン風衣服とその絵図をもとに復元した衣服を纏ったシャーマンの模型。

絵画土器に描かれたこれら絵図からも卑弥呼や倭国との関係が想造される。

卑弥呼に象徴される倭国の最有力候補地である、桜井市纒向遺跡は当地から僅か2kmほどと近距離にある関係をどう考えるか

ここからは次回のお楽しみに・・・・・・。
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奈良県田原本町の唐古鍵遺跡公園建設にまつわる最新情報そのⅠ

2016年03月06日 | 歴史
首題の弥生時代巨大集落が復元される、奈良県田原本町の唐古鍵遺跡公園建設にまつわる最新情報を、以下3回シリーズで紹介します。

奈良県田原本町が、国史跡「唐古・鍵遺跡」(弥生時代)で史跡公園整備を進めている。

遺構展示館や広場などを設けるほか、発掘調査で出土した環濠や森を復元し、「弥生の風景」をよみがえらせる。

平成29年度完成・平成30年4月オープンを予定している。









写真は、上から現在の唐古鍵遺跡の上空写真、遺跡公園完成予想図及び平成27年9月上旬現在の公園工事現場2点。

唐古・鍵遺跡は町北部に位置する弥生時代を代表する集落跡。環濠に囲まれ、全体の広さは約42万㎥で、町教委による発掘調査で建物跡のほか、土器や木製品など膨大な量の遺物が出土している。

本遺跡は、稲作農耕が始まった弥生時代を代表する環濠集落跡で、遺跡発見から100年以上の発掘調査史があり、直近の発掘調査は第115次に及ぶ。

弥生時代600年間継続したムラは近畿地方の中核集落と考えられ、多種多様な出土遺物から当時の生活文化を知ることができる。

ムラの周囲には、幅5~10mの環濠が幾重にも巡り環濠帯を形成し、敵からの防衛や運河の機能を担っていた。

集落の内部では、石器・木製品の生産や青銅器の鋳造を行い、物資流通の中心となっていたと思われる。

唐古池周辺の中心部約10万㎥は平成11年に国史跡に指定され、町は公有化をはかるとともに、有識者による整備委員会を組織し、平成21年度から史跡公園整備を進めてきた
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奈良御所市の中西遺跡、古墳時代前期最大級の集落 祭祀用か!そのⅢ

2015年11月01日 | 歴史
御所市中西遺跡要説の最終回として、2015年の発掘成果である、古墳時代前期の様子を更に掘り下げて紹介する。











写真は上から、南北居住区が区画された溝跡、竪穴建物跡や土坑光景、放置された状態で見つかった多量の土器片、壷などの復元土器及び土器が見つかった井戸。

井戸からは高杯・瓶などの土器がまとまって出土しており、井戸の祭祀で使用したと見られる。

この他にも写真の通り、祭祀で使った土器を投棄したと見られる土坑・溝が確認されている。



写真は、中西遺跡から出土した鏡形石製品。

注目される遺物には、流路から出土した鏡形の石製模造品があり、古墳時代前期後半頃のものと見られ、石製模造品初期の例で、直径6.1cm・高さ1.1cm・重さ97.3g。県内では4例目らしい。石製模造品は集落内の祭祀に伴う遺物と考えられる。

秋津・中西両遺跡の建物群は一体のものとして計画的に配置され、当時最大規模だった可能性がある。ヤマト政権の実態が不明な「空白の4世紀」の実情に迫る発見だ。

秋津遺跡では2009年度以降、東西約150m・南北約100mの範囲で、現代の伊勢神宮などにみられる「独立棟持柱(むなもちばしら)建物」と呼ばれる建物跡やそれらを板塀で囲んだ「方形区画施設」が出土。

祭殿のような祭祀空間のあった可能性が指摘されている。





写真は、御所市秋津遺跡現場全景と板塀で囲まれた掘立柱建物跡。

秋津遺跡で見つかった建物・板塀跡は、奈良県桜井市の纒向遺跡で確認された、東西方向に直線的な建物配置をもつ居館遺構と同じく、計画的に配置されたと見られる。

纒向遺跡の居館遺構の想定範囲は、南北100m・東西150mとされているが、これは秋津遺跡の方形区画施設の想定範囲である南北100m・東西150mとほぼ同一で、偶然とは考えにくい。

今回、秋津遺跡南西の中西遺跡で、一辺3~6.5mの竪穴建物跡計26棟や、人工的に掘られた幅30cm~1m程度の複数の区画溝が出土。

竪穴建物群は秋津遺跡の建物群と方位をほぼ揃え、計画的に配置された構造であることも確認された。

前述の通り隣接する秋津遺跡では、祭殿とされる大型建物跡が発見されており、両遺跡で南北約400m・東西200m以上に及ぶ集落と判明。

古墳時代前期としては最大級と云われ、同研究所は「祭祀的な性格の強い集落で、利用方法が異なる土地を明確に分け、計画的に建物が配置されており、全国でも非常に珍しい」と評価している。

北側の秋津遺跡は、祭祀地域と考えられ、南側の中西遺跡は居住地域とみられる。

秋津・中西遺跡の古墳時代前期集落に関する発掘調査は、今回の第26次で一段落すると云われ、今後は発掘遺物の整理作業に伴い、より詳細な当時の様相が明らかになることを期待したい。









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奈良御所市の中西遺跡、古墳時代前期最大級の集落 祭祀用か!そのⅡ

2015年10月11日 | 歴史
御所市中西遺跡要説の二回目として、2015年の発掘成果である、古墳時代前期の様子を以下紹介する。



上の写真は、葛城山を望む中西遺跡水田が洪水による土石流で覆われた状態で出土した様子。

長年にわたり当地で行われた工夫や改良は、当然、大和盆地一帯に素早く広がったと思われるが、他で成功されたことが持ち込まれた結果の改良なのかもしれない。

単に水田を造る、米を収穫できる、というのではなく、この地では間違いなく生産性が追求されるとともに、収穫量を増やすための工夫がされ続けたと考えられる。即ちどの地域よりも大穀倉地帯として発達したのではないかとも考えられる。

先進の文化や技術の窓口であり、鉄という宝を支配できた北九州に対し、どこよりも大きな穀倉地帯を持つ大和という図式だったのかもしれない。

更には、驚異的な人口集中を生み出したと考えられる。魏志倭人伝に言うところの、奴国2万戸に対し、邪馬台国7万戸。人口急増が、国の中心となった源ではなかったかと再認識したと云える。

最新の発掘調査では、葛城氏という一族が、巨大な力を持ったのも、武力ではなく食料生産の力だったのかも。

そして2015年8月10日、御所市の秋津遺跡に隣接した中西遺跡で、古墳時代前期のものと思われる、竪穴住居26棟や井戸、溝などの跡が見つかったと、県立橿原考古学研究所が発表した。

今回の発掘現場は、以前発掘調査が進められた、弥生時代を通じての水田跡のすぐ脇で、今回発掘調査された古墳時代遺跡の下層にも、弥生時代の水田跡が洪水跡とともに確認されている。





上の写真は、今回の中西遺跡発掘調査地帯全体の上空写真と当遺跡が工事に伴い、見つかった京阪奈道路の遠景。





真上の写真は、平成27年8月23日に行われた、中西遺跡の現地説明会光景と今後共発掘調査が継続される、ブルーシートを被った遺跡現場から望む金剛山遠景。

古墳時代前期の遺構として中西遺跡からは、竪穴建物・掘立柱建物・土坑・井戸・溝などが見つかっている。

中西遺跡の現地説明会には、全国各地から多くの考古ファンが押し寄せた。

今回の当遺跡発掘調査では、26棟の竪穴建物は、調査区の中央やや北寄りの位置で検出した溝によって、北側群と南側群に区画されている。

北側群に属する竪穴建物の床面からは土器が放置された状態で出土しており、生活の一端を垣間見ることが出来る。




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奈良御所市の中西遺跡、古墳時代前期最大級の集落 祭祀用か!

2015年10月04日 | 歴史
今回発掘調査前の2013年3月、橿原考古学研究所と京都大学大学院農学研究科は、奈良県御所市にある中西遺跡・秋津遺跡で見つかった水田跡の調査結果を発表した。これ又近年稀に見る偉大発見で、注目に値する。

そこで、本遺跡発掘調査の真骨頂について、3回に分けて報告する。

この遺跡は弥生時代前期ですから、紀元前400年頃、2400年程前の遺跡で、本遺跡からは2万5000㎡に約2000枚の水田跡が見つかっている。



写真は、弥生時代前期の2000枚にも上る、小さな水田区画が網の目のように連なる巨大な水田跡光景。

2万5000㎡の水田跡の遺跡は、多分、日本最大のものと思われる。

少し前になるが、滋賀県の守山市で服部遺跡が、約2万㎡の水田跡が発見されて騒がれた。今回の中西遺跡は、それを上回る大きさを持ちます。

引続き2015年8月に発掘調査結果が発表された当遺跡所在地は、奈良県御所市にあり、紀伊国から紀ノ川を遡って大和へ入るその入り口にある町。

葛城氏の地元であり、中西遺跡のすぐ南にある丘の上には、宮山古墳がある。室大墓とか、室宮山とも呼ばれるこの古墳は全長238mの大前方後円墳。

葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の墓ではないかと言われているが、西暦400年頃に造られた古墳ですから、今から1600年程前になる。

日本において最初に王朝が造られた地が大和であることは疑いのないところで、九州王朝という説もあるが、古代日本の政権の中心が大和であったことは紛れもない事実。

しかし大きな疑問の一つが、「なぜ大和なのか?」というもの。何とも不思議ですよね!

確かに日本列島の真ん中あたりにあるが、古代において大和の位置はそれ程大きな意味があるとは思えない。大和盆地自体が、敵から身を守るための自然が生んだ堅牢な要塞であったとも思えない。

人が生活していくためには、水が必要。水のないところに人は住めない。守山市の服部遺跡が語るように巨大な淡水湖である琵琶湖こそ、天からの恵み以外の何物でも無いと思われるが、我が国は大和から始まった。

大和川の水系が、毛細血管のように拡がる大和盆地は、確かに住みよい場所であったかも。しかし、それでもなお、何故大和でなければならなかったのか?という疑問は解決してくれない。

中西遺跡調査は、その問題を少し解決してくれたように思われます。

弥生時代前期・2400年前の時点において、非常に多くの試行錯誤の跡が見つかったのが、3mx4m程度の水田の大きさ。

畦の工夫や水を張るための工夫。取水方法の工夫。200年間の間に、水田の形が変化していっていることが分かると云う。



写真の地図は、中西遺跡に隣接し、その西側を流れる葛城川との位置関係。

葛城川は大和川へと続き、大和盆地に巡らされた大和川水系であり、南へ流れる宇智川は吉野川から紀ノ川へと連なり、この辺りは大和川水系と紀ノ川水系の分水嶺となっている。

水田保持のために欠かせない安定的な水資源として、洪水に伴う破堤を成因とする河畔の池は、一般に押堀(オッポレと読み、水害や暴風雨などで田畑が水没してできた大きな水溜り)と呼ばれ、葛城川周辺などにその例がみられ、葛城川の場合、地元ではダブと呼ばれている。

押堀とは洪水の際、破堤に伴って洪水流が堤内に流入し、土地をえぐった跡に水がたまって形成されたもの。

しかし押堀は、河川周辺の土地の高度な利用のためや、防災上の理由で埋め立てられつつある。奈良盆地の葛城川周辺においても埋め立てられた例もあるものの、比較的よく残存している。

この理由としては、押堀には河川からの伏流水が常にもたらされるために、これを灌概用水として利用することができ、渇水の危険性が高かった地域としては都合がよかったからで、長年にわたり洪水を繰り返したものの水田維持・確保に役立ったと見られる。



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静岡県沼津市の卑弥呼と同時代の高尾山古墳が破壊の羽目に!そのⅡ

2015年09月21日 | 歴史
大都市部には余り伝わっていないと思われるが、考古ファンには心配でたまらない、ローカルビックニュースとして、首題の件を続けます。



この写真は、前方後円墳の中央部墳丘と底部前方部が一部残された状態の高尾山古墳の姿。

写真の通り、今のところ古墳は完全破壊を免れている。しかし国から補助金をもらって道路工事を随分進めてしまったこともあり、都市計画の変更や廃止ともなると、国からの補助金返還や用地の再取得などの苦しい問題に直面する。



写真は道路工事直前の存続か否か、命運を待つ高尾山古墳の哀れな姿。

補正予算が執行されれば、全面発掘調査を名目に墳丘全体が削り取られ、その跡に道路が整備される。

ところで、これほど貴重な遺跡が道路建設直前まで未発見だったのはなぜか。

当古墳の上には、熊野神社と高尾山穂見神社の2社が鎮座していたからだ。しかし地元では「この小山の下に古墳がある」と言い伝えられていたという。

都市計画で神社の敷地は道路予定地とされ、2008年に神社は隣接地に移転した。跡地の小山を調査したところ、高尾山古墳が見つかったと云う。

古墳の規模は墳丘長62m強・高さ約5mあり、築造年代は邪馬台国の卑弥呼と同じ古墳時代最初期で、当時の東日本では最大級だ。

日本考古学協会は「日本列島における古墳文化形成を解明する上できわめて重要。駿河の古墳時代最初頭の重要遺跡で、歴史・文化的重要性を知る起点」と主張している。

2015年7月1日の毎日新聞は、「文化庁、国土交通省、県、市、学識経験者で公開の協議をした上で(古墳存廃の)結論を出す」と市長が述べ、それまで予算執行は保留する考えを示したと報じている。

静岡県知事も6月25日の定例記者会見で「保存と道路整備を両立できないか」と述べている。

考古学協会や保存を求める市民団体、古墳マニアは、ツイッターで現状保護を訴え、署名活動を展開している。

ウェブサイトでは、平成27年7月7日現在2万筆に迫る署名が寄せられていると云う。

後世に語り継がれるべき日本最古の古墳の存続命運は如何に、はたして皆様方はどう考えられますか


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静岡県沼津市の卑弥呼と同時代の高尾山古墳が破壊の羽目に!

2015年09月07日 | 歴史
ここからは、非常事態緊急レポートとして、近畿地方の史跡めぐりを中断して、我が故郷の由々しき現状についてご理解とご協力をお願いたしたく、これまでの経過を2回に分けて報告します。

道路建設予定地にある古墳の存続をめぐって静岡県沼津市が揺れている。最悪の場合は、古墳破壊の危機に瀕している。

2008年に市内で発掘された「高尾山遺跡」は、西暦230年頃に築造されたもので、全長が62mと破格の大きさがあり、東日本で発見された、卑弥呼時代最大の大型前方後円墳の一つ。



写真は、2008年発掘当時の後円部墳丘中央部の樹木が残されたままの発掘調査の様子。

出土した埋葬品などから、ヤマト政権と主従関係にある「古代スルガの王の墓」ではないかと見られる。東海道を抑えるようにドッカリと座り、卑弥呼のライバルとも云うべき東国の王の墳丘であることは間違いない。

歴史的には、卑弥呼と戦っていた狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみここ)の古墳の可能性も否定出来ない。

というのもこの古墳の墳丘や堀からは、北陸・滋賀・浜松地方などの幾内以東の広い範囲から運ばれてきた外来土器が大量に出土した。

当時卑弥呼が存在したと見られる幾内を東側から包囲する地域の人々が集まって、この古墳を築造し、墳丘でお祭をした生々しい痕跡が出土した。

遺体の頭部には、割られた銅鐸、胸には小さく粗末な勾玉、矢じりが32個がまとまって置かれ、又長大な刃渡りの鉄槍を右手にして葬られていた。

日本考古学協会や良識ある住民は保存を求めているが、沼津市は都市計画通り道路建設を進める方針であり、市議会は取り壊し費用を含む補正予算案を2015年6月30日既に可決している。

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大阪高槻市の環濠集落安満遺跡で最古の水田や木棺墓跡発見!そのⅢ

2015年08月02日 | 歴史
先般6月27日に現地説明会が行われた、弥生時代を通じての巨大環濠集落・安満遺跡について、第三弾を続けます。









写真は上から、安満遺跡の方形周溝墓が並ぶ墓域、田圃に残された大畦畔・土坑・木棺墓跡及び組合せ式木棺と乳幼児用と見られる土器棺。

度重なる洪水により水田域には砂礫が堆積し、地形が変わってしまったことから、水田に代わって墓地を造った。

方形周溝墓が12基、木棺墓2基、土器棺墓2基などが見つかっている。

土器棺墓は、壷を逆さにして棺とし利用している。内部には石斧が副葬されていた。

又組合せ式の木棺の側板や小口板の痕跡が確認できた。

調査区に南側からは、弥生時代中期以降に開削された溝や流路が見つかっており、集落南側を新たな水田域として開発するため、大規模な土木工事が行われたようで、流路には井堰や溜池状の施設が設けられ、中期以降の居住域の拡大とよく対応している。







写真は上から、安満遺跡出土の広口壷、石斧製品及び鍬・鋤など木製農具。

多数の弥生土器とともに、青銅製のヤジリや木製の農具、珍しい漆塗りのカンザシやクシ、勾玉などの装身具などもみつかっている。

同市教委は「弥生時代の暮らしぶりを解明するには居住、水田、墓の三つの領域がそろった調査が重要であり、稲作開始時期の社会を知る上で貴重な資料になる」としている。



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大阪高槻市の環濠集落安満遺跡で最古の水田や木棺墓跡発見!そのⅡ

2015年07月19日 | 歴史
先般6月27日に現地説明会が行われた、弥生時代を通じての巨大環濠集落・安満遺跡について、更に続けます。

平成26年9月から、安満遺跡公園内の雨水貯留施設の建設に伴い発掘調査を実施、今回の調査区では弥生時代前期の水田、同じく前期から後期の墓域、中期以降の灌漑施設、古代・中世の水田などを検出した。

桧尾川扇状地の先端付近に形成された微高地が京大農場中央部と東端にあり、それぞれ居住域、墓域が展開される。

昭和初年京都大学農学部摂津農場がつくられた際,多くの弥生式土器や石器が発見されたのが始まりで、1967年以後,高槻市および大阪府教育委員会による発掘調査によって,東西1200m・南北600mにわたる大規模な遺跡であることが明らかとなった。







写真は上から、安満遺跡公園予定地の概略領域、集落全体の復元図で画面右上が集落拠点及び画面上の京大農学部の赤屋根建物辺りが居住地。

高槻市では、京都大学大学院農学研究科の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を「安満遺跡公園」として整備し、弥生時代の安満遺跡を保存・継承するとともに、防災機能を備えた、緑豊かな公園を目指す取組を進めている。

この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていた。



写真は、安満遺跡の弥生時代前期の水田小区画跡。

弥生時代前期の小区画水田が良好な状態で見つかったが、幅20~30cm、高さ5cmの畦畔で区切られ、水田一枚は10~65㎥、57枚を確認している。

高い田から低い田へ、畦畔を越流させて給水したらしい。

南東に緩やかに傾斜する地形に沿って、約3m間隔で南北方向の畦畔を設け、東西の畦畔で短冊形に区切っている。水田域は北東部が最も古く、洪水の度に南へ広げていったとみられる。





写真は上から、安満遺跡田圃の粘土質に砂礫が被った地層と田圃に残された足あと。

この水田は、前期末に発生した洪水が運んだ砂礫に覆われたため放棄されたが、砂礫を踏み込んだ足あとがいくつも見つかっている。

洪水で水没した田圃の様子を見に来たかも知れない。




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大阪高槻市の弥生環濠集落安満遺跡で国内最古の水田や木棺墓跡発見!

2015年07月04日 | 歴史
近畿地方の弥生時代を通しての巨大環濠集落として名高い遺跡には、奈良田原元町の唐古・鍵遺跡、大阪和泉市の池上曽根遺跡及び高槻市の安満遺跡が知られている。
その内、今回安満遺跡に新たな一大発見が、現地説明会を伴い報道されたので、これから3回に分けて詳細を報告します。

高槻市教育委員会は平成27年6月19日、弥生時代の環濠集落・安満遺跡(同市八丁畷町)で、弥生前期(約2500年前)の大規模な水田跡(約90,000㎡)と遺体の埋葬に用いられたとみられる土器棺や木棺墓跡が見つかったと発表した。

以前の調査で建物跡が見つかっており、広大な水田跡が一体となって確認されたのは珍しいという。









写真は上から、JR高槻駅を背景にした、6月27日実施の現地説明会遠景と田圃跡を中心として安満遺跡の広がり、畦畔や土器棺が望める現地説明会光景、今後共引続き発掘調査が継続する予定のプルーシートを掛けられた本遺跡の調査光景及び後方に見える銀杏並木の東向側にも広がる巨大遺跡広場。

写真の通り、本安満遺跡は、今後共引続き発掘調査が継続される予定で、ブルーシートが掛けられたところの他、更に東側にも当集落跡が眠っていると思われている。

ところで豊かな自然に恵まれて水路・陸路の交通の要所でもあった高槻には、古代から近代までの貴重な遺跡がたくさん残されている。

高槻市には、弥生時代に近隣では最も早くから集団で稲作を行なっていたことを示す本安満遺跡、真の継体天皇陵といわれている今城塚古墳、戦国時代から幕末までの波乱万丈の歴史を物語る高槻城や普門寺城、高山右近天主教会堂などの遺跡や碑等、高槻が誇る文化遺跡には枚挙にいとまがない。

そのうち安満遺跡は、大阪平野の北東部、淀川右岸の三島地域にあって、檜尾川が形成した扇状地に立地する弥生時代の集落遺跡。

安満遺跡の発掘調査の歴史は古く、最初は京大農場の設置にともない、1928(昭和3)年の調査で出土した土器から、北部九州に成立した弥生文化が幾内に流入したものと指摘された、史学上著名な遺跡。

この安満遺跡は、桧尾川流域に広がる東西1,500m・南北600mの弥生時代の遺跡で、国の史跡に指定されている。

これまでの調査の結果、弥生時代約700年間を通じて存続した三島地域の拠点的集落で、近畿地方の弥生社会と弥生人の多様な生活ぶりを示す重要な遺跡。

昭和43年ごろから本格的発掘調査がおこなわれ、弥生前期から後期にわたって営まれた環濠集落であることが明らかになる。とくに、弥生集落を構成する、居住域、生産域、墓域の分布と変遷が明らかになったことから、平成5年に国史跡に指定された。

平成20~22年度にかけて、京大農場内の確認調査では、集落の分布と地形の関係や、集落の分布状況などが明らかとなった。これらの成果を受け、平成22年には京大農場部分が史跡の追加指定を受けた。


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兵庫県南あわじ市で、国宝級の日本最古銅鐸発見!

2015年06月14日 | 歴史
ここでは、近畿発最新の考古情報を発信します。

先ず驚いたのは、弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸7個が、兵庫県淡路島の南あわじ市で見つかり、県教委と市教委が平成27年5月19日、発表した。

海岸近くの松帆地区から採取された砂の山から見つかり、「松帆銅鐸」と名付けられた。

出土数では、最多の島根県雲南市・加茂岩倉遺跡(39個)などに次ぐ4番目となり、一度に大量に埋められた最古のケースとなる。専門家は「初期の銅鐸祭祀の解明につながる国宝級の資料」と評価している。





写真は、南あわじ市の砂山で発掘された銅鐸の状態及び陳列された計7個の銅鐸。

銅鐸は、高さ22~32cm、底幅13~19cmで、絵画が描かれていない古い時期のもの。うち1個は、上部の半円形の「鈕ちゅう」と呼ばれる部分の断面がひし形をした「菱環鈕(りょうかんちゅう)式」で、全国でほかに11例しか確認されていない最古段階のものだ。

また、3個には銅鐸を鳴らすため内部につるす青銅製の棒「舌ぜつ」(長さ8~13cm)が付いていた。

一度に見つかった舌の数としては最多。舌が付いたまま大量埋納された例はなく、銅鐸を大量に埋める祭祀の最初の形態だった可能性がある。

今回の発見は、全くの偶然から生まれた。

第一発見者の西田さんによると、4月8日朝、副工場長を務める南あわじ市の砂利加工会社「マツモト産業」の工場で、重機を使って高さ約5mの砂山から砂をすくった際、大きな塊があるのに気付いた。

「金属ごみかな?」と思い、引き出してみると、全長30cmほどの釣り鐘状の金属の物体。ずしりと重く、表面には青サビが付着し、中に砂が詰まっていた。

「歴史の本で見たことがある」とスマートフォンで調べ、銅鐸とわかった。大小2個が「入れ子」の状態になっていたが、土を落とした際に外れたという。

同社によると、砂は工場から約10km北西で、海岸から1kmほど内陸の同市松帆地区の田んぼなどから採取。

7mほどの深さまで掘って、いったん資材置き場に置いた後、工場に運んだという。地区の砂は細かく質が良いことで知られる。

社長の松本康宏さんは「よく壊れずに残っていた。長い間、砂が守っていたのでは」と話している。

☆発見後の動向「まだ砂の中に銅鐸どうたくが埋まっているのでは」??

上述の通り、兵庫県南あわじ市で弥生時代の銅鐸7個が見つかり、県教委などが発表した19日、調査に当たった職員らは「古い時代の銅鐸で全国的にも珍しい」と興奮気味に説明した。

一度に出土した数としては全国で4番目。発見を聞いた住民らは「やはり国生み神話の島だ」「銅鐸を街の活性化につなげたい」などの声が上がっていた。

記者会見は、銅鐸が出土したとみられる南あわじ市松帆地区近くの湊市民交流センターで開かれ、報道関係者約40人が出席した。

砂がついたままの青緑色の銅鐸が並べられ、市埋蔵文化財調査事務所の職員が説明。自社工場に搬入した砂の中から銅鐸を見つけた砂利加工会社「マツモト産業」の松本社長も同席した。

松帆地区は海に近く、弥生時代には砂丘のような地形だったといい、建材用の良質な砂が採れることで知られる。

「同社は地区内の古津路、櫟田(いちだ)のいろんな場所から砂を買っており、銅鐸が埋められた場所は今のところ、特定できていない」と話した。

同調査事務所によると、「松帆古津路で1966、69年に出土した銅剣計14本と並び、今回の銅鐸も非常に古い年代のものだ」と説明。今後、出土場所の特定など本格的な調査を行う方針。

松本社長は「会社の砂から銅鐸が見つかり、驚いた。光栄で名誉なこと」と述べた。


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奈良県明日香村都塚古墳のピラミッド型方墳に関する追加ニュース

2015年05月26日 | 歴史
奈良明日香村の都塚古墳に、新たな追加情報が発信されましたので、速報します。

階段状に石を積んだピラミッド型の大型方墳と昨年わかった奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半、1辺41~42m)で、墳丘の四つの角のうち、一角が出土し、村教委と関西大が平成27年3月1日発表した。

これまでに墳丘東側の辺の一部で、5段分の石積みが見つかっていた。今回、墳丘の東南側の角でも、3段分にわたって石が据えられていたことを確認し、国内で他に例のない墳丘だったことが改めて裏付けられた。

また、東側の石積みを詳しく調べたところ、階段の水平な面には石の上から「化粧土」を敷いた構造が確認された。

西側の辺でも、新たに階段状の石積みが見つかった。





写真は上から、都塚古墳の最新発掘情報に基づく最新イメージ図と土の舗装断面図。

ピラミッドのように階段状に石を積み上げた、類例のない大型方墳とわかった奈良県明日香村の都塚古墳が、階段内部にも大量の石を詰め込んで造られていたことがわかったと云う。

又階段は6段以上に及ぶこともわかり、特異な工法や規模から大豪族・蘇我氏の墓との見方が強まりそうだ。

都塚古墳は、飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子(?~626年)の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半)を見下ろす丘にある。

当時最大級の方墳で、被葬者として馬子の父の蘇我稲目(?~570年)や渡来系の首長などの説が出ている。




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大阪岬町の西小山古墳とは!

2015年04月04日 | 歴史
大阪岬町の古墳群巡り最終回として、西小山古墳を紹介します。

西小山古墳は、西陵古墳・宇度墓古墳などの古墳群中央にあり、尾根筋の先端部分を利用して築造された、経40~50m・高さ5mほどの円憤。





上の写真は、岬町の西小山古墳現場及び記念石碑。

大阪府の最南端に位置して大阪湾に面した地に造られており、淡輪古墳群を形成しているが、周辺には陪塚6基などもある。

今まで削平されたり、一部埋め立てられたりしているため、国道と同一の高さと云うこともあり、現状では古墳には見えないが、5世紀中葉から後葉にかけて築造されたと見られている。

西陵古墳から東に400mほどにあり、国道26号線の北に接している。

北西部に造りだしを持っていて、周濠を持っていた可能性もあるとのこと。

岬町は、紀ノ川を挟んで和歌山県と接しており、川を渡れば和歌山市であることから、古墳の被葬者も「紀」氏とゆかりの人物ではないかと推測される。

西陵古墳と同様、本古墳の被葬者も海上で活躍した紀氏水軍の首長と思われる。本古墳からは、様々な鉄製の武器や勾玉などが出土している。

又本古墳は葺石を持ち、円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪とともに、陶質土器と考えられる長頸壺・須恵器の器台・瓶の破片など土器片が出土していると云う。



この写真は、金銅装の復元甲冑で、竪穴式石室から短甲とセットで出土したと云う。

具体的な出土品には、金銅装の鋲留眉屁冑・三角板の短甲・鉄刀33点以上・鉄鉾2・鉄鏃107・滑石製勾玉16個などが検出されている。

被葬者は遺骨を全く残していなかったが、石室内中央に安置されていたものと見られる。副葬品の大半が武器・武具類で占められ、古鏡が全く見られず、玉類が少ないことが特徴。

被葬者は副葬品などから、当地紀氏の水軍的首長と考えられる。



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大阪岬町の西陵古墳とは!

2015年03月08日 | 歴史
ここからは、大阪岬町の古墳群のうち、西陵古墳について紹介する。

西陵古墳は、墳丘長約210m・後円部直径115m・高さ18m・前方部幅108m・長さ110m・高さ14mほどの前方後円墳で、全国第31位の大きさを誇り、又近くには全長約170mの“宇度墓古墳”(淡輪ニサンザイ古墳)があり、巨大古墳が二つも並ぶこの地は、重要な紀伊水軍拠点であったことが窺い知れる。

ここでは、紀氏の活躍ぶりについて、和歌山市に境界を接する、大阪府岬町の中期の古墳を取上げる。

と云うのは、朝鮮半島との密接な交流を物語る貴重な資料の数々や、大和朝廷の生命線とも云える、大阪湾岸・河川を含む制海権を牛耳っていたこともあり、当時の紀氏の絶大なパワーを追ってみたい。





写真は、西陵古墳の墳丘と周濠光景。

本古墳が所在する淡輪地域は、番川によって形成された小さな平野で、そのほぼ中央に大阪湾を見下ろすような位置にあり、太正11年に国史跡に指定されている。

墳丘の周りは、写真の通り、幅25~40mの水をたたえた周濠が巡り、これらを含めると全長が300mにもなると云う。

本古墳は、垂仁天皇王子・五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)宇度の陵墓として宮内庁が管理しているが、古墳時代中期の5世紀前半頃の築造。

周濠外部からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった埴輪類が見つかり、墳丘にはこれら埴輪が配列され、葺石も施されていたと云う。

後円部には、主体施設として、かつて凝灰岩製の長持形石棺の蓋石が一部露出していたが、大正11年に埋め戻されたと云う。

大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られたのは、5世紀の半ばで、紀伊から和泉へ向かう海上交通路として、その中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口にある点から重要な戦略拠点。

岬町の古墳時代は、まさに巨大古墳を中心とした時代であり、古墳の規模或いは豪華な副葬品からすれば、相当な権力をもつ被葬者が想像されるが、紀伊水軍を管掌する首長の古墳ではないか?

被葬者としては、紀小弓宿禰とする説、紀船守とする説、五十瓊敷入彦命とする説があるが・・・・・。





写真は、岬町白峠山古墳頂上から見下ろす、大阪湾と岬町風景及び船守神社と楠木。

岬町は、大阪湾に面した町であることから、海上交通に関連した職務に携わった、しかも古代国家政権に大きな影響のある町であったことは間違いない。

本古墳近くには、淡輪の氏神にもなっている船守神社があり、紀船守・紀小弓宿弥・五十瓊敷入彦命の三神を祀っている、由緒深い紀氏の氏神神社。

船守神社本殿は、桃山式三社造千鳥波風神殿造りで重要文化財として登録され、又境内の大楠の木は、樹齢700年ほどと大阪府随一の大きさを誇る。




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