近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

アイヌ民族・文化 15世紀頃の歴史と“コシャマイン”の戦いとは!

2007年11月07日 | 歴史
前日の通り、北海道南部に住み始めた“和人”は、本州との交易を始め、蝦夷三品と呼ばれた、昆布・干サケ・ニシンや、樺太を経由した中国産品などを本州に移出し、本州からは鉄製品・漆器・酒などがもたらされた。

このように和人の勢力が強まると、先住民族であるアイヌ人との間に、権益などを巡る軋轢が高まり、双方との間に起こった最初の大規模な戦乱が“コシャマインの乱”であった。



写真は、当時の道南・渡島国の十二館の和人勢力分布図。

15世紀中頃、アイヌの青年が殺されたことがきっかけとなり、道南各地のアイヌ民族が“コシャマイン”を指導者に一斉に立ち上がり、道南各地の館・和人を追い詰めた。全滅の危機に瀕した和人館主たちが結集して、“七重浜”でアイヌ軍に対決した。

北方の“関ヶ原”と呼ばれ、結局コシャマインは、客将“武田信広”により騙し討たれ、“信広”は絶滅の危機から和人を救った。





写真は、武田信広の肖像画像及び信広を祀る松前神社。
武田信広はこの軍功により、後世に“松前藩”の藩祖と呼ばれた。

しかしアイヌ人たちと和人の戦いは、その後も約100年にわたって断続的に交わされた。信広一家は政治的・軍事的にも安定したものではなく、アイヌ人指導者との懐柔と妥協を図りながら、海上の徴税権を何とか確保していた状況で、その間、騙し戦術・祝宴などの席でアイヌ重鎮を殺傷する卑怯な戦法を得意としていたと云う。

結局、“信広”は蝦夷代官の地位を継承した後、彼の子孫も優れた外交・政治手腕を発揮して、その後豊臣秀吉・徳川家康にも領有権を認められ、松前藩を起した。
そして蝦夷地における交易の独占も認められ、当地の利権を手中に収めた。

一方アイヌ人たちは、和人の権益拡大から、漁業に進出した商人に漁場を追われ、生活苦から和人商人の労働力として使役に甘んずることになり、それまでの生産者・交易者であったアイヌ人たちは、漁場に隷属させられた労働者に落ちこぼれる結果となった。


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