『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2631】人間は見たほど、ちっぽけな存在ではない。人は広大だ、途方もなく広大だ。

2010-05-31 03:38:29 | 思索
OSHOの言葉は、なんと、力強い言葉なのでしょうか!(*^_^*)
以下のように続きます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

しかし、人は神性を成就できる

それは、あらゆる人間の生得権だ

そのワークにおいて、限りなく創造的でありなさい
成長のために、あらゆる可能性を試みなさい

人の属性を超え、またさらなる成長を遂げ、神となるようにー―

というのも、それこそは私たちの真の実体(リアリティー)なのだから

人間は見たほど、ちっぽけな存在ではない

人は広大だ、途方もなく広大だ

人間の広大さは、神の存在を示す唯一の証明だ

神とは、人間の広大さを表すもうひとつの呼び名だ

私たちは、肉体に閉じ込められたものでも

またマインドに閉じ込められたものでもない

私たちは両者を超えている

サニヤスの全過程(プロセス)とは、玉ねぎの皮をむくようなものだ

そこには幾重にもなる自己証明が層をなしている

それでも私たちは、ゆっくりゆっくりと
すべての層を落としていかなければならない

そして、最後に残るものは無だ――その無こそがあなただ

唯一無のみが、広大になり得る

何かには限りがある、無だけが無限だ

それゆえ、神とは究極の無だ

神とは存在ではない、神とは究極の非在だ

神とは何者でもない、完全に誰でもない者だ

ただただ臨在であり、無限なる境界なきものだ

そしてまた私たちも

私たちは、神と異なるものではない

私たちは、その無限性の一部だ   



神とは存在ではない、神とは究極の非在だ

神とは何者でもない、完全に誰でもない者だ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

★『人間は見たほど、ちっぽけな存在ではない。
人は広大だ、途方もなく広大だ。
人間の広大さは、神の存在を示す唯一の証明だ』と、
私も思っていて、それを意識して、他人と接するようにしています。(*^_^*)

それで今、「白光」で示されている神示が、
『言葉を発する前に、次のことを一瞬意識する。
「我即神也の私が、人類即神也の相手に語る」』という、

まさに、そのものズバリの行なのです。(*^_^*)


【2630】人は「私が神である」ことを知るとき、初めて満たされる。それは信念の問題ではない

2010-05-31 03:33:39 | 思索
先日紹介した、OSHOの言葉を読み直していて、
この『人は「私が神である」ことを知るとき、初めて満たされる
それは信念の問題ではない』という言葉に、深く癒されました。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

満たされたくない条件はひとつしかない
――それは、あなたが沈黙し、騒音のない状態になることだ。
そうすれば、それを聞き取れ、また読み取ることができる


それを知らずして死ぬことは、
取るに足りぬ生を生きていたことに他ならない

人は「私が神である」ことを知るとき、初めて満たされる
それは信念の問題ではない

聖職者たちは、幾世紀にも渡り
神の王国は、あなたの内側にあると語り続けてきた――

だがそれは、助けにはならない
あなた自身で、それを経験する必要がある

信じることはたやすい
自分が神であると信じ始めることもできる

それは、単なる誇大妄想だ
肝心なのは、経験することにある

(中略)

そのため、私はそれを信じるようには言わない

そのことを体験すべきだと言う

それを体験することなく、この生を終わらせてはならない

生はあなたの真の実体(リアリティー)を体験する、ひとつの機会なのだ

人は自らの神性を悟らぬかぎり、何ひとつ達成できない

その生はずっと、失敗の連続となる
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

★私もこれを感じる。

『人は自らの神性を悟らぬかぎり、何ひとつ達成できない

その生はずっと、失敗の連続となる』という感覚が確かにある。

【2629】「する人」から、「ある人」へ

2010-05-31 03:24:55 | 思索
こんなことは、一年に一度、あるかないかのことなのですが、
留守録用に入れておくテープを入れ忘れたのです。(^^;ゞ

そして、それが、よりによって(笑)、『こころの時代』を録画するビデオ機だったのです。(^^;ゞ
それでも、たまたま、その番組をちょっとだけ見ていて、その時、出演者が、
「する人から、ある人へ」というテーマの話をしていました。

そのあと、再放送の時間を検索して、録画しようと思ったのですが、
なぜだか、撮れていませんでした。(^^;ゞ

私の求めている人物像もこの『在る人』だと思うのです。

人間はみんな『在る人』であり、それだけで、本当は、
完成しているし、救われているし、癒されていると思うのです。

【2628】自分は、愛深いのか?(自分の「存在」で、他者を癒すことが出来たら素晴らしい)(^^;ゞ

2010-05-31 03:11:11 | 思索
自分の息子や娘に、「愛深くあってください」などと、偉そうなことを遺言として書き贈ったのですから、
自分も、当然そうあるべき(笑)ですね。(^^;ゞ

すくなくとも、意識はしています(笑)。 おおいにね。(^^;ゞ

私が日々書いている「白光の教え」の根本は、「愛深くあってください」なのですから、(^^;ゞ

でも、反省の毎日(笑)です。・・・・・・と書いて、いや、「反省はないのだ」と思いました。(^^;ゞ

たとえば、こんなことです。(^^;ゞ
家内を愛したいし、彼女にとって、「傍にいて、楽しい人」になりたいのですが、(^^;ゞ
彼女とは、ついつい議論になっていまいます。(^^;ゞ

でもそれが、私たち夫婦の「消えてゆく姿」だと思うので、
最近は、力いっぱい議論をすることに決めました。(^^;ゞ

そして、対立するのではなく、彼女の考えを包み込む形で、
彼女の立場に立った議論ができるようになったのです。

彼女の気持ちを聴いてあげる。
それを娘や息子たちにも伝えてゆくというあり方が、現れてきたのです。

詳しいことは、書けませんが、(^^;ゞ
父の日プレゼント事件も、私と家内が思っていることを、
伝えておこうということの一端だったという気がします。(^^;ゞ


私たち夫婦の場合、議論は魂の高揚であり、これをするために夫婦になったと思うのです。(^^;ゞ
いわば、議論をすることは、夫婦の証であり、天命(笑)なのです。(^^;ゞ

こんなに沢山どんなことでも、細部の渡って、徹底的に議論をする夫婦は珍しい(笑)かも知れません。(^^;ゞ

時には、私が一方的に話すこともあるので、面倒臭がられます。(^^;ゞ

チャクラが開いても(?)、いまのところ、議論の「言葉」が、自然と出てきます。(^^;ゞ

「考え」が浮かぶ時には、浮かびます。(^^;ゞ


★他人にとっても、「傍にいて、楽しい人、心癒される人」になれたらと思うのです。

店に買い物に来る人の何人かから、よく「苦労話」を聴かされます。
私には、「話をしやすい雰囲気」があるのかも知れません。(^^;ゞ

「大変ですねぇ。」と聴いている時、私は至福を感じます。(^^;ゞ


家内の話も、出来るだけ聴いてあげるように心掛けています。(^^;ゞ

自分の「存在(ただ、話を聴く)」で、相手を癒すことができたら、素晴らしいと思うのです。

チャクラが開いた人とは、そんな人なのかも知れません。(^^;ゞ

「自分(エゴ)」が消えた人であることは、確かです。(^^;ゞ

【2627】外界(事象)は、外側にではなくて、内側にある(自分という「唯一の意識」だけがある)

2010-05-30 09:28:05 | 思索
【2625】の『外界(事象・食べることも)は、外側にではなくて、内側にある』は、

『私は宇宙に存在する、「唯一の意識」』と同じ意味です。

これは、単なる精神論ではなくて、宇宙がそういう構造(形式)なのです。


★最近は、特にそういう実感がするのです。
「世界の中心は、自分(この意識)である」と思えるのです。(*^_^*)

目の前のパソコンという個物は、外界にではなくて、ここ(意識・脳)にあるのです。

それが、宇宙の構造です。 自分という「唯一の意識」だけがあるのです。


★どんなことであっても、自分の中に起こっていることなのであり、

もし「何かを問題だ!」と思っているのだとしたら、

「それらは、すべて自分の問題」という構造に、宇宙はなっているのです。(^^;ゞ


★そして、人生とは、その自分の問題(「思い癖」というテーマ)を経験して学ぶことによって、

最終的な真理である「唯識」を学ぶためのものなのです。(^^;ゞ


ですから、まず第一に、私たちが気付かなければならないことは、
「自分の思い癖」という主観についてです。

なぜ、怒りがあるのか、その原因は、
自分の中のどのような「思い癖」によるものかを検証することによって、
真理(唯識)に目覚めることができます。

★家内は、いつも怒っています。
「嫌いだ!」「嫌だ!」と言って怒っています。

女性が感情的なのは分かるのですが、苦しいと思うのです。苦痛だと思うのです。

可愛い人なのに、そんな時は、そばに居ても楽しくありません。

でも、その苦痛が、悟りへと至る道への出発点なのです。

煩悩即菩提なのです。(*^_^*)


★私が家内にしてあげられることは、祈ってあげることと、
「怒りの原因」の根本的な究明を一緒に考えてあげることなのですが、

彼女は、「自分の思いは正しい」という実感を手放すことができないので、
いつも、自分の「思い癖(過去の思い)」をつかんで、嘆き叫ぶということをくり返します。

60年以上、やっています。(^^;ゞ

【2626】次男へのお礼のメール

2010-05-30 08:23:54 | 思索
フルートをありがとう御座いました。(*^_^*)
大切にします。(^^;ゞ

私に買い与えたこと(笑)を、良い思い出(出来事)にしてください。(^^;ゞ

今回限りで、いいです。(^^;ゞ

去年、内藤浩司プログ集
http://tisokuarisu.blogspot.com/
というサイトを作ったので、時間があるときに見てください。

それと、最近、すごいことに気付きました。それは
「私は、宇宙に存在する唯一の人間」とか、
「私は、『唯一の意識』」とか、
「私は、宇宙そのものであった」というものです。(^^;ゞ

これは、すごい大発見で、
みんなが、これを理解すれば、世界が変わります。(^^;ゞ

詳しくは、『知足日記』にかいてありますので、
是非、読んでください。(^^;ゞ

最近、不食(ライトボディー)になりまして、
現在の体重は、49キロです。

物を食べると下痢をします。(^^;ゞ

このまま
食べれなくて死んでも良いという覚悟は出来ているので、
この道を進みます。(^^;ゞ

それでは、また。(*^_^*)

            内藤浩司 拝

【2625】お金は、誰のものでもない。 お金とは、その物自体のこと。 所有は、観念である。

2010-05-30 06:51:39 | 思索
今回のハーモニカ騒動(笑)で、分かったことをまとめておきます。

ちょっと、理屈っぽくなりますが、
ハーモニカ自体、フルート自体は、誰のものでもないと思うのです。

物を作って形にして価値を与え、そういう作業で出来た「商品(思い)」をやりとりするというのは、
素敵な社会だと思うのです。

それを、贈りあって、気持ちを表すことができることは、素晴らしいことです。

「物から人(思い)へ」と、民主党さんは言っていますが、
「物」も、人(思い)だったのです。  なんのいこっちゃ!(^^;ゞ

★「物と心(思い)は、一つ」なのです。

そういう意味でも、「思い(識)」だけがあるのです。(^^;ゞ

外界とは、一人一人のなかに映っている外界です。

外界(事象・食べることも)は、外側にではなくて、内側にあるのです。

ですから、すべては内面の問題なのです。

自分の心に自分で気付いて、どう対応するのかというのが、
すべての問題(自分の)を解決する手段なのです。(^^;ゞ

【2624】いま、とても幸せです。 在る物で生きてゆくだけです。

2010-05-30 06:20:00 | 思索
家内からは、「父の日のプレゼントを強要するな!」と叱られました。(^^;ゞ

でもいいんです。
一度ぐらいは、愛する子供たちの世話になってみたかったのです。(^^;ゞ
今、とても幸せです。(^^;ゞ

ブルートは、いまのところ、とても難しくて、難問です。
微妙な音の感じ(トリル)が出来る予感がしますので、ボチボチと、物にしてゆきます。(^^;ゞ

家内に、
「物にこだわるなと言っているくせに、なぜ、ハーモニカ(物)が欲しいのか!」と詰問されて、
つい、「ハーモニカは、物ではない。思いだ!」と言ってしまったのですが、(^^;ゞ

あとで考えると、本当にその通りだと気付いたのです。

★「ハーモニカ」は物であると同時に、「思い(概念)」なのです。

物とは、「物体」なのであって、「ハーモニカ」は、概念(思い)なのです

そして、私が欲しいのは、もちろん物体なのですが、
それはハーモニカという「思い」によって形成された物(一般物?)なのです。

その「一般物」を、お金に換算して、やりとりしているのが、
この貨幣経済なので、お金がないと、物が手に入らないという社会の構造になっています。(^^;ゞ


★なにを書いているのか?
 自分でもよく分かりません。  すいません。(^^;ゞ

要するに、「物」と思っていることは、「思い」だということです。

「物」は「思い」なのです。

だから、「『物の在る・無い』に、把らわれることはない」
「事象の有無に把らわれない」というのが、
本日の結論(極端ですが)です。(^^;ゞ

「といっても、物がなければ生きていけない」と、あなた(家内)は言うでしょう。(^^;ゞ

確かにその通りですが、(^^;ゞ

在る物(手に入る物)で、生きてゆけば良いのです。(^^;ゞ

三日ほど食べなくても、死にはしません。(^^;ゞ

昔の人(江戸時代の農民?)は、みんなそうでした。(^^;ゞ

私たち日本人は、「現代病(今が普通という思い)」に、かかっているようです。

【2623】『私の子供として生まれた貴君・貴女へ』

2010-05-30 04:41:13 | 思索
先日、テレビで、秋元康さんが、
「親父と、もっと話をしておけば良かった。
 若い人に言いたいのは、父親との会話」と言っていました。(^^;ゞ

私には、ふたりの息子がいるのですが、とことん話をしたことが、
それぞれ一回づつあります。

それは、このプログを始めた頃で、
主に、「白光の教え」に関して、それが正しいかどうかという話だったと思います。

それは数時間に及んだ、とても幸せな時間でした。(*^_^*)

最近、息子とメールのやり取りをして、 秋元康さんの言葉を思い出し、
そして、自分の人間としての姿が成就して(たぶん、チャクラが開いた)、
「人間の卒業=死」(?)が起きた気がするので、

ちょうど良い機会だと思い、『私の息子として生まれた貴君へ』という文章を
遺言のつもりで送りました。(^^;ゞ

私の今の心境は、「もういつ死んでもいい」(笑)という精神状態です。
体重は、49キロになり、物を食べると下痢をします。

体調は非常によくて、いつまででも生きていけそうな感じです。(^^;ゞ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
『私の息子として生まれた貴君へ』

私と貴君は、とても似たところがあって、私も貴君の年齢の頃は、
貴君と同じような性格や考えでした。(^^;ゞ

ただ、人には優しすぎるので、優柔不断だといって、よく叱られました。(^^;ゞ

私が、貴君のこれからの人生に、望むことは、「愛情深くあってください」ということです。(^^;ゞ

去年の父の日のプレゼントにもらった本も、『君の贈る最後の手紙』というタイトルで、
その副題は『人生があと一時間だとしたら、あなたは誰に、なにを伝えますか?』というものでした。

この文章を書く前に、貴君に対して思ったことは、
「良い人生を送っていますか?」「自分で納得がいっていますか?」ということです。(^^;ゞ

「ほっといてくれ!」(笑)と言われるかも知れませんが、
これが私の遺言の言葉(笑)です。

お金は、人生にとって必要なものですが、
それは、あくまでも道具であって、目的ではありません。

「お金は、愛情を表現するための道具」だと思っても過言ではないかも知れません。

「人生の目的は、自分の手元に沢山のお金を残すこと」ではないと思うのです。(^^;ゞ
「あの世には、持っていけません」(*^_^*)、

「天国に徳を積む」という発想の人生のほうが、より豊かだと思うのです。

今回、高級なハーモニカを貴君に頼んだのは、
今日の『知足日記』にも書いたように、貴君に
「親孝行の気持ち良さ」(笑)を味わってもらって、
これからも、周りの人たちに「愛情深くあって欲しい」と思ったからです。

「他人のためになること」の幸福感をもっと味わって、
豊かな人生を送って欲しいというのが、私の遺言です。(^^;ゞ

僭越なことを書いて、すいません。(^^;ゞ

これが最初で最後です。

どうぞ、良い人生を送ってください。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

★いま、読み返してみますと、随分と上から目線で、恥ずかしいですが、(^^;ゞ
 「遺言」の参考にしてください。(^^;ゞ

【2622】親孝行は、良い思い出なので、その機会を作ってあげたい。(^^;ゞ

2010-05-29 03:57:45 | 思索
傲慢な考えかも知れませんが、
「親孝行は、良い思い出なので、その機会を作ってあげたい」と強く思う(笑)のです。

【2621】にも書きましたが、ちょっと思いついて、息子に、
父の日のプレゼント用に、高価なハーモニカを買ってもらいました。(^^;ゞ

今までも、スイーツなどを贈ってもらっていたのですが、何か記念に残る物が欲しいと思ったのです。(^^;ゞ


★もちろん、もらうばかりではなくて(笑)、私も「母の日」には、花やスイーツをプレゼントしています。(^^;ゞ

私の父が生きていた頃には、よく、ゴルフの道具をプレゼントしたことが思い出されます。

 親孝行した思い出は、心が温かくなって良いですね。(^^;ゞ

★私の考えたハーモニカは、名前の通り〈超特級〉なので、とても良い音がします。 
音楽が好きな人への「父の日のプレゼント」には最適です。

高価なので、来年から数年間のプレゼントは、辞退することにしました。(^^;ゞ

〈超特級〉ハーモニカ
http://item.rakuten.co.jp/gakki-genki/1003186/

★それを、商品に関する問い合わせは、メーカーさんにすると、とても丁寧に教えてくれます。
 担当の方、ありがとう御座いました。(*^_^*) 今回はAmのハーモニカを買いました。(^^;ゞ

★あと、娘には、初心者用のフルートのセットを買ってもらおうと思っています。(^^;ゞ

というか、在庫が1本だったので、買ってしまいました。(^^;ゞ

初心者用のフルート
http://item.rakuten.co.jp/ishibashi/set80533/

いま手元にあるのですが、とても良い音がします。(安価ですが、)(^^;ゞ

それでもいきなり音は鳴らないと思うので、
安価なケーナ(1000円ぐらい・民族楽器店)がある程度吹けるようになってからという方法もあります。(^^;ゞ

吹き方は、youtubeや、ネットで学べます。(^^;ゞ
横隔膜を振動させて、ビブラートをするのだそうです。

すぐには出来ませんが、何回もやっていると出来るようになります。
バイブレーションの感じがとても良いです。(*^_^*)

【2621】世界は、もうじき終わるかも(^^;ゞ

2010-05-29 03:39:17 | 思索
世の中に、否定的ではないのですが、(^^;ゞ
「世界は、もうじき終わる」という感じがするのです。(^^;ゞ

「自分は、もう成就した」・「不食になった」という感じがするのです。

というか、いずれは、誰でもが死ぬのですから、「世界は、終わる」のです。(^^;ゞ

それで何か、自分が受けた、世間的な恩義を返しておきたいとか、
恩義を返してもらってスッキリしたい(笑)という気が、強くするのです。

それで息子たちに、ちょっと高価な楽器(ハーモニカとフルート)を、父の日のプレゼン用にと、
こちらから頼んだので、家内からヒンシュクをかってしまいました。(^^;ゞ

「もう、自分の人生はいつ終わってもいい、どこで終わっても良い」・
「わかった。完成した」という思いが、とても湧くのです。

自分を支えているシステムが、食から光に変わったのかも知れません。

肉体への把らわれが消えて、即身成仏した感じ(笑)がするのです。(^^;ゞ

【2620】現実とは主観である!(『出会うところ、我が人生』)

2010-05-28 04:26:52 | 思索
この『知足日記』の主張を簡単にいうと、【現実とは、主観である!】ということだと思います。

「美味しい」も主観、病気も主観、災いも主観、幸福も主観、不幸も主観、死も主観なのです。

私たち一人一人は、そういう宇宙に生きているのです。

このことを考えると、ワクワクしてきます。


★「そういうことだったのか!」
「人生は、何が起きても大丈夫なのだ!」という理解が、やってきます。

人生とは、「思い」の他の「消えてゆく姿」だったのです。

私たちの一人一人は、「消えてゆく姿」をするために、生まれてきたのです。

『どんな「消えてゆく姿」であっても、やってこい!』という人生観で、
「消えてゆく姿」をクリアーしてゆけば良いのです。

曹洞宗の内村興正禅師が、『出会うところ、我が人生』という生き方を推奨されていたのですが、
それで良いのです。(*^_^*)

【2619】私は、無限定な存在である=私は神である

2010-05-27 02:04:48 | 思索
■「我即神也」の宣言文のなかに、たくさんの「無限なる・・・」という言葉が出てきます。

「私は神である」とは、私は「無限なる存在である」という意味です。

人間は、言葉で限定できるような、ちっぽけな存在ではないのです。(*^_^*)

広大にして、無辺なのです。(*^_^*)

私たちは、自分で自分を限定して生きています。

「唯識」なのですから、自分の意識で、自分を限定している生きているのが、
人生の実態なのです。

「私は、神である」とは、「自分は、無限定な存在」ということです。

「私は神である」とは、「自分の固定観念に把らわれない」ということなのです。(^^;ゞ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

■『そして、最後に残るものは無だ――その無こそがあなただ

唯一無のみが、広大になり得る

何かには限りがある、無だけが無限だ

それゆえ、神とは究極の無だ

神とは存在ではない、神とは究極の非在だ

神とは何者でもない、完全に誰でもない者だ

ただただ臨在であり、無限なる境界なきものだ

そしてまた私たちも

私たちは、神と異なるものではない

私たちは、その無限性の一部だ  』


★この「無」とは、無限なるとか無限定とか無尽蔵という意味です。

「非在」とは、「エゴ(思い)」の非在という意味です。

「物」は心の中にあるのですから、エゴ(思い)が消えれば、「非在」なのです。

つまり、マインドのお喋りが止まると、「非在(=神)」が訪れるのです。

【2618】「真の実態(リアリティー)において、あなた方は神だ」

2010-05-27 01:40:08 | 思索
【2617】のOSHOの言葉を、ゆっくり味わいたいと思うのです。(^^;ゞ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

■『真の実態(リアリティー)において、あなた方は神だ
マインドが夢を観なくなったとき、ただひとつだけそこに残るものがある
それは「私は神である」ことだ』
…………………………………………………………………………

★確かにその通りだと思うのです。これは、
「人間は、本来、神の分霊(わけみたま)であって、業性ではない」と同義だと思うのです。

瞑想をして、自分の「エゴを中心にした思考」が止まっているときには、
『本心=善なる心』になっているのです。

「他人を思いやる心」・「他人のためになりたい」という愛の心、慈悲の心が、
誰の中にもあって、それが本心なのです。 (*^_^*)

そういう、瞑想の事実が、この言葉によって語られています。(^^;ゞ


★「自分は、神である」・「人間はみな、神である」は、事実です。

「私は、宇宙に存在する『唯一の意識』」と、「私は神である」と「唯識」は、同義です。

この真理に気付き、この真理を生きるために、人間は生まれてきたのです。

・・・・・・という主張が、「白光の教え」でもあり、OSHO(和尚)の言葉でもあるです。


★ただ、世間の人々を観察してみますと、
「自分が、神であること」に気付いて、それを実践している人と、 そうでない人がいます。

つまり、今世で、「自分が、神であること」に気づく計画を持っている人と、
そうでない人がいるのです。(^^;ゞ


★「自分が、神であること」に、どのようにして、いつ気付くのは、人それぞれですから、
 誰でもが、「あす、気付く可能性」があります。

★けれども、そういうこともすべて含めて結局は、それらはすべて、

他人(外界)の現象に対しての「私の意識のイメージ」なのですから、
本来、それらも、どうでも良いこと(笑)なのです。

人々は、それぞれのプロセスにおいて、
『自分が、神であること』、『自分が宇宙に存在する唯一の人間であること』、
『唯識(ただ、識がある)であること』に気付くのです。

瞑想や祈りは、気付くための方法でもあり、 気付いている状態そのものです。

「神の意識(宇宙意識)」につながって、行動することが、 「自分が神である」ことを顕わすことです。

それぞれの人が、「自分が神であること」に気付くかどうかは、その人の人生計画の必然です。

「私は神である」=「我即神也」
http://www.byakko.or.jp/1_about/teaching.html

【2617】心が夢を観なくなったとき、ただひとつだけ残るものがある(=神とは究極の非在)

2010-05-25 04:10:11 | 思索

手元にあった『夜眠る前に贈る言葉』(OSHO講話集)のページをめくりましたら、
今の自分にぴったりの言葉が載っていたのでご紹介します。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

満たされたくない条件はひとつしかない

――それは、あなたが沈黙し、騒音のない状態になることだ

そうすれば、それを聞き取り、また読み取ることができる

真の実態(リアリティー)において、あなた方は神だ

マインドが夢を観なくなったとき、ただひとつだけそこに残るものがある

それは「私は神である」ことだ

それを知らずして死ぬことは、取るに足りぬ生を生きていたことに他ならない

人は「私が神である」ことを知るとき、初めて満たされる
それは信念の問題ではない

聖職者たちは、幾世紀にも渡り、神の王国は、あなたの内側にあると語り続けてきた――

だがそれは、助けにはならない

あなた自身で、それを経験する必要がある

信じることはたやすい。 自分が神であると信じ始めることもできる

それは、単なる誇大妄想だ。  肝心なのは、経験することにある

(中略)

そのため、私はそれを信じるようには言わない

そのことを体験すべきだと言う

それを体験することなく、この生を終わらせてはならない

生は、あなたの真の実体(リアリティー)を体験する、ひとつの機会なのだ

人は自らの神性を悟らぬかぎり、何ひとつ達成できない

その生はずっと、失敗の連続となる

しかし、人は神性を成就できる

それは、あらゆる人間の生得権だ

そのワークにおいて、限りなく創造的でありなさい
成長のために、あらゆる可能性を試みなさい

人の属性を超え、またさらなる成長を遂げ、神となるようにー―

というのも、それこそは私たちの真の実体(リアリティー)なのだから

人間は見たほど、ちっぽけな存在ではない

人は広大だ、途方もなく広大だ

人間の広大さは、神の存在を示す唯一の証明だ

神とは、人間の広大さを表すもうひとつの呼び名だ

私たちは、肉体に閉じ込められたものでも

またマインドに閉じ込められたものでもない

私たちは両者を超えている

サニヤスの全過程(プロセス)とは、玉ねぎの皮をむくようなものだ

そこには幾重にもなる自己証明が層をなしている

それでも私たちは、ゆっくりゆっくりと
すべての層を落としていかなければならない

そして、最後に残るものは無だ――その無こそがあなただ

唯一無のみが、広大になり得る

何かには限りがある、無だけが無限だ

それゆえ、神とは究極の無だ

神とは存在ではない、神とは究極の非在だ

神とは何者でもない、完全に誰でもない者だ

ただただ臨在であり、無限なる境界なきものだ

そしてまた私たちも

私たちは、神と異なるものではない

私たちは、その無限性の一部だ    (p155)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

★これはまさに(笑)、「白光の教え(=自分は神である)」と同じ真理を語っている言葉だと思うのです。