『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1420】『すべて必要。すべて良し』(*^_^*)

2008-05-31 04:08:08 | 思索
内村さんのお話のテープを聴いていましたら、当然のことのように、
『白光の教えは、「すべて必然。すべて良し!」なのですから、』という言葉が出てきました。

いままで、たくさんの講師さんのお話を聴いてきましたが、
この『すべて必然。すべて良し!』というフレーズは、聞いたことがなくて新鮮でした。

自分が問題だと思うことに対して、この『すべて必然。すべて良し!』を使って、
この心境から物事を考えれば、必ず、最高の納得が得られると思います。

この『すべて必然。すべて良し!』は、内田さんの『絶対に、大丈夫!』の心境に通じると思うのです。

真理は、【我即神也。すべて必然。すべて良し!。絶対に大丈夫。人類即神也】なのです。(^^;ゞ

つまり、これを日本語(笑)に直しますと、(^^;ゞ
「私は経験をする神である。私に起こることはすべて、必然である。
 ものごとは、私が経験をするために起こっていることだから、すべて好いことである。
 私はその経験を通じて学ぶ神なのである。
 同じように、人類の一人一人もまた、経験をする神であるのだから尊い。」です

【1419】自分の人生に感謝して死ねますか?

2008-05-31 03:41:00 | 思索
『Sさんが、今、目の前でタバコを吸っています。
私はタバコの臭いが嫌いなのですが、これも「消えてゆく姿(良きこと)」なのでしょうか?

今日は、私の体調がすこし不良です。食べ過ぎたのかも知れません。(^^;ゞ
「嫌だなあ」という思いがあるのですが、考えてみれば、これも「消えてゆく姿」であり、
「良きこと!」なのです。』(5月26日(月)の日記より)

★日曜日は職場にいないので、縁があって食べ過ぎることがあります。(^^;ゞ
そういう「貪りの心」があると、それが心に影響します。
心身の調子が整うのに、2,3日掛かります。そういう事実が語られています。(^^;ゞ

「食べすぎ」は、体に悪影響を与えるという「消えてゆく姿」は、『良きこと!』なのです。
胃が痛くなるという不調は、『良きこと!』なのです。

■話が変わりますが、
今回の四川省大地震で被災されて、避難されている方々の生活の状況は過酷なものです。
「消えてゆく姿」だとしても、あまりにも苦労が多くて、苦悩されている方々が何十万人もいます。
とても深刻です。

こういう状況が、「良きこと!」だとは、とても思えません。

それでも、大地震が「消えてゆく姿(過去)」であることに変わりはないのです。

大地震は終わったことであり、被災された方々も、いずれは、
「今後は、復興にむけて頑張ってゆくしかない」という思う日が来るのです。

それが、「大地震を乗り越える」ことであり、
「大地震」を生き残った方々のお役目なのです。

本当をいうと、
「大地震」も「私たちの肉体の人生」も、どちらも「消えてゆく姿」なのです。
「消えてゆく姿」が、「消えてゆく姿」を経験しているのです。

そういう中にあって、「思い」だけが永遠なのです。(たぶん)(^^;ゞ
「思い」を経験するために、私たちの人生があるのです。

大地震は、甚大な被害をもたらしましたが、「消えてゆく姿」なのです。
一回で消えていったから良かったのです。
何回も繰り返されないで良かったのです。

私たちの人生が、「消えてゆく姿」であることが有り難いのです。
そういう、「今のまま」が有り難いのです。感謝なのです。

人生の最終的な目標は、
『自分の人生(=消えてゆく姿)に、感謝して死ねること』なのではないでしょうか?

【1418】「消えてゆく姿」の家族関係・悔いのないように愛する(*^_^*)

2008-05-31 03:07:59 | 思索
私に勘違いがありました。(^^;ゞ それは、
白光の「消えてゆく姿」という教えが素晴らしいのではなくて、
私たちに「消えてゆく姿」があることが、素晴らしいということです。(^^;ゞ

『すべては、「消えてゆく姿(良きこと)」』だからこそ、うまく行っているのです。(*^_^*)

白光の「消えてゆく姿」という教えは、「絵に描いた餅(真理)」ではなくて、
実際に起きていることであり、食べられる現実、味わえる現実だったのです。

たとえば、私たち夫婦の子育ては、すべてが「消えてゆく姿(良きこと!)」だったのです。
私たち家族は、それぞれの役目を通して、体験として、
お互いの「消えてゆく姿」を消し合って、人生を過ごしていたのです。
(これは、どなたの家族関係にもあてはまりますね)

まさに一から十まで、
『「消えてゆく姿」をさせて頂いて、家族さん、皆さん、ありがとう御座います!』だったのです。

そして、いずれは旅立つ母のことが、「二人称の死」として気になっていた私ですが、
それも、上の「消えてゆく姿の家族関係」なのであり、プロセス(消えるための良きこと)なのだとしたら、
そのことを味わって、充分に学ぼうと思いました。

「母親が旅立つという現実」に向き合って、「大いなるもの」からのメッセージを聴こうと思いました。
(以上が、内村さんの話をお聴きして気付いたことです。)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★上にも書きましたが、私が一番気になっていたことは、「母親の旅立ち」を、
自分はどう受け入れて、乗り越えることができるのかということでした。(^^;ゞ

内村さんの体験談をお聴きしてわかったことは、
「母親の老いと旅立ち」は、プロセス(消えてゆく姿・良きこと)であり、
家族は、「それぞれの役目で、お互いに消し合う関係」だということです。

私は、「母親の老いと旅立ち」というプロセスを「良きこと!」として、味わい学べば良いのです。

だれもが、「老いてゆく父母と自分の関係」というプロセスで、
さまざまなことを学ぶのです。そのことでしか、学べないことがあるのです。

「今、出来ることをする」のが大切です。

母親を慈しんで大事にする、同じ時間を過ごすなどなど、
つまりは、今できる親孝行をすれば良いのです。(^^;ゞ

「自分の父母の老いと旅立ち」がプロセスだと気付けていることは、有難いことです。(^^;ゞ

「プロセス」だと気付けているからこそ、充分に心置きなく、
後悔のないように思いやり愛することができるのです。(^^;ゞ

そして、この「慈しみの心(愛)」を、周りの人々や人類に広げれられれば、
人類に平和がくると思うのです。

もっと、「周りの人たち」を愛して死ねたら良いと思うのです。(^^;ゞ

あの世に持っていけない物質を争い合うのではなくて、(*^_^*)
死ぬ間際に、後悔しないように、(^^;ゞ
周りの人たちと愛を分かちあって生きる。(*^_^*)

そういう人生のほうが、「豊かで良い人生」に決まっているのです。(*^_^*)

まさに、『愛は、生きているうちに』(ジャニス・ジョップリンの歌のタイトル)なのです。

【1417】「すべては、良きこと!」なのだから、それで良いのです。宇宙に身を任せましょう。

2008-05-30 04:20:51 | 思索
「食べない(不食)」という考えには、「執着」があります。

「あれば食べる、なければ食べない」が、執着のない生き方です。(*^_^*)

今回の「おかず売れ残り現象」は、守護霊さんが、
私の「食」へのこだわりを修正するために、
私が沢山食べざるを得ない環境を作って、調整してくれたのかも知れません。(^^;ゞ

★「すべては、良きこと!」と解釈して、「自分の内面(心)」を探求すると、
納得できる結論に落ち着けることが不思議です。

「素直な気持ちで、いまの自分の状況を受け入れることが出来る」からだと思うのです。

★「すべては、良きこと!」について、再確認しておきます。(^^;ゞ

「すべては、良きこと!」とは、
【すべての出来事は、プロセス(消えてゆく姿)として良きことである。】という意味です。

ですから問題は、自分に起きている状況をプロセスと思えるかどうかです。
プロセスと思えれば、「大いなるもの」からのメッセージを受け取ることが出来ます。

プロセスと思えれば「救われ」ます。プロセスと思えなければ、「迷いの世界」に住むことになります。

「理不尽なことだ」という思いがあったら、「プロセスと思えていない世界」に住んでいます。
この言葉が、リトマス紙です。(^^;ゞ

★食事が終わって満腹なときに、大好物を目の前に置かれたと思ってください。(^^;ゞ
食べる食べないの選択は自由です。

あとで後悔すると思っていても、
ついつい食べてしまって、胃が苦しくなることがありますが、
「食べる」前には、「苦しみ」は始まっていないので、「それでよい」のです。

上の文章のなかの「それでよい」の意味がわかりますか(^。^?

プロセスとして、「それでよい」という意味です。(^^;ゞ

時間は順番に流れていて、自らの撒いた種は、自分で刈り取らなければならないようになっている。(^^;ゞ
これが「宇宙の法則」ですから、宇宙に身をまかせましょう。(*^_^*)

【1416】「すべては、良きこと!」と思うと楽しい(*^_^*)

2008-05-29 03:48:11 | 思索
「すべては、良きこと!」と思っていると、楽しいです。(*^_^*)

「そうか、すべては、良きことなのか!」
「そうか、良きことが、起きているのか!」と思うと嬉しくてしかたがないです。(^^;ゞ

これは、ちょっと不思議な感覚です。
4年間、「白光の教え」を探索してきましたが、(^^;ゞ
こんな感情に出会ったのは初めてです。(*^_^*)

【1417】にも書きましたが、
「まず、嬉しい気持ちになって、物事の道理を考えると、
『真の因果』が観察できる」のだと思いました。
これは、果因説の一側面かも知れません。(^^;ゞ

どんなことでもすべてが、「消えてゆく姿」であって、
必要があって起こっている「良きこと」だと思えると、
他人に対しても自分に対しても優しくなれるのです。(^^;ゞ

先週までは、気合を入れて売っていた(笑)ので、あまり「おかず」が残らなかったのですが、
今週はどういう訳だか、よく残ります。(^^;ゞ

それでもまあ、近所に配ったり、冷凍しておいて娘の家に持っていったりすれば、
それなりに活かすことはできます。(^^;ゞ

それでも、売れ残って困るのは、冷凍できない物を、
自分が食べなければならない状況になることです。(^^;ゞ

でもこれも、「すべては、良きこと!」という視点から考えると、
守護霊さんが、「あまり急に痩せすぎると貧租な顔になる(笑)から、
少しは食べなさい」と言ってくれているようにも感じました。(^^;ゞ

その他には、「自分を色々なモノサシで批判評価するのはやめなさい」というメッセージを感じました。
「すべては、良きこと!」と思うことは、「自分を否定的に見ない」ということに通じるのです。

「食べ物」についても把らわれないで、「あれば食べる」という姿勢でいこうと思っています。

生きているということは、論理や理屈ではないのですから、
「食べる過ぎると体の調子が悪くなる」という事実があったとしても、
機会があって、自分の食べたいものが与えられたら、把らわれなく食べればよいのです。(^^;ゞ

「食」は楽しみの一部でもあり、食べている時には、それなりの幸福感があります。
人間は地球に、修行だけをしに来ているのではないのです。(^^;ゞ

自分の魂を喜ばせてあげましょう。
人生をもっと、楽しみましょう。(*^_^*)

【1415】すべては、良きこと! (すべては、必要、必然、ベスト、パーフェクト)

2008-05-28 04:54:45 | 思索
【1414】で、「売れ残りに把らわれる必要はない」と、思わず否定的に書いてしまいました。(^^;ゞ
この間の「心の動き」を検証してみます。(^^;ゞ

私が「否定的」な気持ちになった原因は、私が「売れ残る」ことに恐怖を感じているからであり、
「売れ残ることは、悪しきことだ」と思っているからです。(^^;ゞ

「売れ残り」を、「良きこと」だとは思えないのです。(^^;ゞ

このときの私は、「売れ残りは、悪いことである」という考え方に把らわれていました。

ですがこれを反対から考えますと、
世の中で起きることはすべて必然なのですから、
この「売れ残り」は、「神様の御心」でもあるのです。
「神の御心のまま」が現れたとも考えられるのです。(^^;ゞ

そして、「不思議な転換」は、こう考えたときに突然やってきます。(*^_^*)

そうか、『この「売れの残り」は神様からのメッセージなのか』と思うと、
この「売れ残り」を生かす方法がいろいろと浮かんできます。(^^;ゞ

たとえば、日ごろお世話になっている人に差し上げるとか、
冷凍保存する方法を試してみるとかです。(^^;ゞ

売れ残ったからこそ、それを「チャンス」として、次なる展開があるのです。(*^_^*)

そのように転換して考えることができますと、
「売れ残り」という「消えてゆく姿」が、
「良きこと。次なるチャンス」に変わります。

ということは、まずは「すべてのことは、良きこと!」だと考えて、
「自分では不都合と思えることのなかに、どのような意味があるのか」を探してみる。
すると必ず、「自分の思いを転換できるチャンスを見つけ出すことが出来る」のです。(*^_^*)

これは、本当に「必ず。100セント」なのです。(^^;ゞ

自分のなかの「愛」を表現しようとして、待ち構えていますと、
その転換のスピードはますます早まります。(*^_^*)

どのようなことが起こっても、「すべては、良きこと」だと思っていると、
神様からのメッセージを、よりはやく素直に受け取ることができるのです。

「すべては、良きこと」だと思っていないと、
「不幸な出来事」の方に意識がいくので、
「なぜ、こんなことになったのか。あの時、あんなことをしなければよかった」などと、
終わってしまったこと(過去)にばかりに「思い」がいってしまいます。

この先自分はどうしてゆくのか、どういう人間になってゆくのか
という視点に辿りつくのに時間が掛かってしまい、
「暗い心の時間(悩みの時間)」を長引かせてしまうのです。

★★「消えてゆく姿」に対して素直な心は、転換の早い心なのです。★★

船井さんの言葉に「すべては、必要、必然、ベスト、パーフェクト」がありました。
先にこう思うと、「気付き」に到達する時間が短縮されるのだと思います。

【1414】すべては必要な体験。本当は、現われたらすぐに消えている。

2008-05-28 03:18:37 | 思索
守護霊さんの眼からみれば、「私の体験」は、すべて「必要な体験」です。

そして本当は、「現われたらすぐに消えている」という話も出ました。

「消えてゆく姿」(出来事)を自分でつかんで、「不幸だ」「不都合だ」と思うから、
消えてゆかないのです。(^^;ゞ

本当は、現れたらすぐに消えているのです。
「自分の思い」を立ち上がらせないで、
出来事は、「消えてゆく姿」のままにしておいてあげましょう。(^^;ゞ

呼吸法をすると、「自分の思い(自己)」が消えますので、
出来事が「消えてゆく姿」であることがよくわかります。

具体的な例を書きますと、商売の「消えてゆく姿」(出来事・風景)として、
ある時間に「その日に売らなければならない、とても沢山のおかず」(笑)が残っていたとしても、
それはその時の「消えてゆく姿」(出来事)であって、「売れる因縁」があれば、
夕方には、そのほとんどが売れます。

その日がたまたま、売れない因縁の日であれば売れ残ります。(^^;ゞ

「売れる」ということと、「私」とは関係がないのです。
「私」は、「売れゆき」を見ている存在なのです。(^^;ゞ

「自分の思い」を消すと、ただ、「売れゆき(消えてゆく姿)」だけがあるのです。
「自分の思い」で、その時々の「売れゆき」にこだわる必要はないのです。

★【ここでまた私は、「消えてゆく姿」を否定的にとらえています。
「消えてゆく姿」は良きことであったはずです。(^^;ゞ

私の「消えてゆく姿」論(笑)は、どこへ行ってしまったのでしょうか?(^^;ゞ
このことは、次の【1315】で書きます。】★

呼吸法をしますと、そういう認識がやってきます。(^^;ゞ

災害や、大きな不都合についても、基本的には上のことが言えるのですが、
今回の大地震やサイクロンの被害は膨大であり、
私としては、被災された方々に対して、「消えてゆく姿」だから良き事だとは思えないし言えません。
自分たちが大災害に見舞われないで良かったと思うばかりです。

でもまた、この「災害や事故や病気などの不幸が、良きことだとは、言えない」という気持ちが大切だと思うのです。
起きたことは起きたこととして、祈らないではいられない気持ちになり、
祈ることの中に愛があると思うのです。

「被害に遭われた方々が、平安でありますように、天命が完とうされますように。
世界人類が平和でありますように」と祈りますと、私の心が平安になります。

私たちは、同じ時代を生きている人類なのです。
「世界人類が平和でありますように」という気持ちを持ちましょう。(*^_^*)

【1413】「消えてゆく姿」は良き事。不幸さんありがとう。人生とは、感謝!

2008-05-27 05:47:16 | 思索
4年の間に、白光の講話会を40回程も聴かせてもらっているのですが、
その都度「白光の教え」に関しての新しい発見があって、目からウロコが落ちる(笑)のが不思議でなりません。(^^;ゞ

今回の内村さんの講話会もそうでした。(^^;ゞ
やはり、長い間「白光の教え」を探求されている方のお話は奥が深いと思いました。(^^;ゞ

「消えてゆく姿」について、私は、
『不都合な出来事は、どうせ「消えてゆく姿」なのだから、把らわれる必要がない』と、
「消えてゆく姿」を否定的に考えていましたが、それは間違いでした。(^^;ゞ

「消えてゆく姿」は良き事だったのです。(*^_^*)

私が良くなるために、「消えてゆく姿」という形で、守護霊さんが、体験させてくれていたのです。(*^_^*)

病気も離婚も不仲も離別も口論も、私たちが良くなるために、守護霊さんが、
「消えてゆく姿」として与えてくれた「体験」だったのです。(^^;ゞ

ですから「すべての出来事」を、感謝の気持ちで受け取ることが「正解」(笑)なのです。(^^;ゞ

五井先生が電車の中で足を踏まれて、咄嗟に「ありがとう御座います」と言われたのは、
「足を踏まれるという因縁」が、「消えてゆく姿」として現れてくれて「ありがとう御座います」という
解釈でした。

このエピソードの解釈は何回も聞いていたので、分っているつもりになっていましたが、
判ってはいなかったのです。(^^;ゞ

「足が踏まれたこと」は、善きことだったのです。
「出来事」は、すべて善き事だったのです。
「必然性」があって起きたのです。
「消えてゆく姿」は善きことだったのです。

人生の「不幸な出来事」は、足を踏まれる程度のことではなくて、
事故や災害、浮気、離婚、仲たがい、離別、子供の反乱、
職場での嫌がらせやいじめ等々、色々な「消えてゆく姿」があります。

それらの体験はすべて、「私」が善くなるために「私の因縁」が現われたものなのです。

私たちは、自分の「消えてゆく姿」が現われることによって、学べるのです。(*^_^*)

この考え方だと、世界中のすべての出来事は「消えてゆく姿」であって、
私たちが善くなるために起きていることになります。(^^;ゞ

私たちは、「体験の選り好み」は出来ないのです。(^^;ゞ

私たちは不都合な体験をすることで、「他人への愛や思いやり」を学べるのです。

その時に「不幸だ」と思っても、それは「必要な体験」なのです。
「不幸に思える体験」であっても、深い意味では素晴らしい体験なのです。(^^;ゞ

『すべての出来事は、「消えてゆく姿」である。「消えてゆく姿」は善きことである』ということが、
内村さんの講話会を聴いて、納得できました(^^;ゞ

【1412】本当に、なにもかもが「消えてゆく姿」!!!

2008-05-26 01:20:21 | 思索
きのう大阪支部では、内村真喜子さんの講話会がありました。

内村さんは、ご主人やお子さんやご両親などの家族関係での「消えてゆく姿」の話をされました。

いままで、具体的な家族関係内での「消えてゆく姿」の話を聴いたことがあまりなかったので、
とても参考になりました。いい話をお聞きすることができました。
特に、座談会での話が良かったです。感動的でした。(*^_^*)
後日、大阪支部のHPにアップされると思います。

座談会に参加したのは10人ほどでしたが、
この小人数が和気あいあいとした雰囲気をかもしだして、
いい話がお聴きできたのかも知れません。(^^;ゞ

内村さんのお話を聴いて、私が思ったことは、
『ほんとうに何もかもが、理屈なしに「消えてゆく姿」なのだなあ』ということです。(^^;ゞ
私は「消えてゆく姿」を、理屈で考え過ぎていたようです。(^^;ゞ

「消えてゆく姿」というのは、身近な日々の体験そのもののことだと思いました。(^^;ゞ

『日々の出会いも別れも、悲しみも病気も事故も、ほんとうに全部が全部「消えてゆく姿」なのであって、
守護霊さんの愛念で、経験させられていることだ』と思ったのです。

そしてそれらの体験は、後になって必ず、「必要な体験であった」と思える日がくる!!

そういう「消えてゆく姿の体験」・「気付きの体験」を何回もしていると、
他人から相談を受けたり、悩みを打ち明けられたときに、
笑顔で「大丈夫よ!」と言えるあげられる自分になれる。』

内村さんが、座談会の最後にされたそんな話が、特に印象に残こりました。

私もはやく、他人に対して笑顔で「大丈夫だよ!」と言える人になりたい(笑)と思いました。(^^;ゞ

【1411】「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也」の心境かな(^^;ゞ

2008-05-25 05:24:34 | 思索
『孔子は「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也」と言いました。
朝、自分の生きる使命を見つけたら、今晩死んでもいいくらいだと。』(佐藤義行さんのプログより)

うえの「朝、自分の生きる使命を見つけたら」を、「真理を実践できるのなら」に変えますと、
「真理を実践できるのなら、夕べに死すとも可也」となります。(^^;ゞ
以下は、私なりの解釈です(^^;ゞ

私は自分が真理を実践して、それで損をしたり、危険なことになってもなんの問題もないと思うのです。

「不食や微食が真理である」と思ってそれを実践し、病気になったり死ぬことになっても、
「それもまた厭わない」と思えるのです。「夕べに死すとも可也」なのです。(^^;ゞ

顔が小さくなり、シワが増えたことが少し気になりますが、体調はとても良いです。(*^_^*)

今後も、「食べ過ぎる世界」に戻ることはないと思います。
先に進んで、「真理(本当のこと)に従う自分」がどうなるのか、
この眼で確かめてやろうと思っています。(^^;ゞ

『真理のためには、死ぬことさえも厭わない』、カッコ良すぎですね。(^^;ゞ

でもこのように考えると、もうひとつの真理が見えてきます。
つまり、「二人称の死(家族の死)」に把らわれない自分です。

真理を探求し実践する自分は、「夕べに死すとも可也」なのですから、
「自分の死」を受容できているのです。「死」を受容できているのです。

「自分の死」を受容できると、「他人の死」も受容できると思えるのです。それを説明します。

『死にゆく人がだれであったとしても、「真理を実践できないで死ぬ」のは、
それはそれで、その人の問題』です。そういう意味で、「他人の死」は受容できるのです。

ただ、「二人称の死(家族の死)」には、また別の要素が入いるので、
「自分の経験として、いかに受け入れるのか」という問題がある気がします。(^^;ゞ

具体的には、「家族の死」が起こったときに、対処すればよいのです。
自分が先に死ぬかも知れませんし。(^^;ゞ

そのときに自分がどういう心理状態になるのかを「楽しみにする」ぐらいの気概が、
神人の自分にはあってもよい(笑)と思います。

そのときのことは、そのときのことなのです。(^^;ゞ

話がそれましたが、
人間(私)はどうせ死ぬのですから、
自分が「真理」だと思ったことを実践する人生を完とうしたいのです。

この頃は、「長生きしよう」と思わなくなりました。(^^;ゞ
「神さまが決めてくれる通りの道」を歩んでいこうと思っています。

とにかく、「自分の価値基準」で、「世界(外界)」を判断しないことが大切です。

『地球人類全員を浄める呼吸法』は、本当に効果のある行でして、たった数分で、
自分の意識が「空」になります。「自分」という意識が無くなります。

先日のSOPPの帰りのバスで、30年前から維持会員である男性(私と同世代)と話をしました。

昔は、かなり厳しい神事が色々とあって、それを経て現在の「呼吸法」が降ろされました。
私は白光に繋がるために30年間回り道をしましたが、
一番おいしい時期(笑)に維持会員になったようです。(^^;ゞ

まさに「守護霊さん、ありがとう御座います」です。
維持会員になれて、ほんとうに良かったです。(^^;ゞ

これから白光真宏会の会員になられる方は、とてもラッキーな方です。(*^_^*)

なにしろ、「白光の行」をすれば、いつでも、あの世に行ける準備が出来るのですから。(^^;ゞ

「自分の使命を知りたい人ヘ」

【1410】「考えのない自分」に成る (*^_^*)

2008-05-24 02:51:12 | 思索
私たちは、よく「浄めの印」と言いますが、「浄めの印」とは何なのでしょうか?
たとえば、私が「人類即神也の印」を組むと、「人類の意識」が浄まるのでしょうか?

印を組んだり呼吸法をすると、「自分が浄まる(自分の業が静まる)」ので、
その「自分の意識」が人類に波及して、「人類の意識」が浄まるとは言えそうです。(^^;ゞ
(人類とは一人一人であり、他人とは、「自分の見ている他人」なのですから、
 「私」が浄まれば、「私のなかの人類一人一人」も浄まります。)

「私の意識」は、すくなくとも周りにいる方々には、好影響(笑)を与えますから、
それが広がってゆくとも考えられます。(^^;ゞ

「私の呼吸法」で、人類が浄まっているのかどうかは判りませんが、
『地球人類全員を浄める呼吸法』をすると、「自分という意識(自己)」がなくなり、
「とても落ち着いた気持ち(意識)」になれることは確かです。(^^;ゞ

「自分という意識(考えのない自分)」がなくなると、「宇宙のエネルギー(プラーナ)」が入ってくるので、
「食物を摂取しなくても、疲労しない」ということが、私の体で起きるようです。(^^;ゞ
私の体重は51キロになりました。印や呼吸法をすると、「自分の業を、自分で浄めている」という感じがします。

この方法で日常を過ごしていっていいのだと思います。
最近は、仕事も日常生活も、「自分の気持ち(好悪)」を挟まないで「流れるまま」です。(^^;ゞ
眠たくなったら寝て、目が覚めれば起きます。あとは、必要な仕事をします。(^^;ゞ

自分のなかの「善悪のモノサシ」が消えたので、とても楽です。
「なんでも出来る」という思いが、沸々と湧いてきます。(^^;ゞ

毎日、「我即神也の印」を組んだあとに、「私は神のように完全完璧である。
私は何事にも把らわれない」と宣言しているのですから、
「人間の完全完璧な形である不食」が顕われないはずがないのです。(^^;ゞ
(『不食実践ノート』を再読し始めています)

★先日の『ニッポンの教養』で、類人猿の研究者と太田さんがともに、
『人類に飛躍が起きることが、予感される』と言っていましたが、
それが「神人(新人類・高次元の意識を持った存在)」の登場なのです。(^^;ゞ

【1409】「アリス」は、初めから決まっていた(^。^?

2008-05-23 05:20:36 | 思索
誤解をまねく言い方(無限なる理解!)かも知れませんが、(^^;ゞ
「人間はなんでもできる(無限なる可能性)」存在だと思うのです。
そして特に、「神人は、何をしてもよい時代になった」と思うのです。(^^;ゞ

『自分は何でもできる』というの言葉で、自分を鼓舞して、もっと積極的に、
「神とつながった自分、神様のために働いている自分」を顕わしていきたいと思うのです。(^^;ゞ

もちろんそれは、「把われのない自分」を顕わしてゆくということでもあります。(^^;ゞ

私が松原市で「アリス」という店をし、藤井寺市での「世界の平和を祈る集会」に集うことは、
私が生まれたときから、霊界で決まっていたことなのだそうです。(^^;ゞ

「えっ」と思いましたが、そう考えると愉快な気持ちになりました。(*^_^*)
「偶然ではなくて、必然!」というのはそういうだったのです。(^^;ゞ

このように、「アリス」が神さま事であるのなら、「アリス」が潰れる(無限なる感謝!)はずがないのです。(^^;ゞ
すくなくとも、必要のある間は続くでしょう。

そう考えますと、私の思いつきで店頭に飾った「我即神也の宇宙神マンダラ」も、
霊界で決まっていた「神さま事」かも知れません。(^^;ゞ

私として、「神の働き」を示していきたいです。(^^;ゞ
そうすれば、「世界平和」が成就すると思うのです。
                            
■先日、パソコンの電気コードが何かの拍子に抜けまして、
 単語登録(辞書)のデータがすべて失われてしまいました。(^^;ゞ

その後、よく使う言葉を登録したのですが、
「把われる」を「把られる」と間違って入力してしまったようで、先ほど気付きました。(^^;ゞ
間違えた部分を全部訂正する作業は大変(無限なる感謝)なので、お手数ですが、置き換えて読んでください。
よろしくお願いします。

【1408】無駄なことをしゃべらないで、ゆっくりと話す(*^_^*)

2008-05-22 03:49:10 | 思索
『我、言葉、想念、行為に、「我即神也」を顕現す』とは、
『我、言葉、想念、行為に、「無限なる自分」を顕現する』ということです。(*^_^*)
それは、「自分のいのち」を、徹底的に輝かせることなのです。(*^_^*)

『自分のいのちを輝かせる』とは、「神さまに繋がった意識で行動する」ということです。
善悪や他人の視線や世間体を気にして生きることをやめるのです。

また、「いのちの輝いている自分」とは、「光明なる言葉」によって創造された自分です。(^^;ゞ

無限なる愛、叡智、歓喜、幸せ、感謝、生命(いのち)、健康、光、エネルギー、パワー、成功、供給に、
に満ち満ちている「自分」です。

「自分のいのち」を輝かせるためには、「否定的な言葉」を言わないように注意する必要があります。

「否定的な言葉」とは、「だめ」「いけない」「しなければならない」「でも」などです。

これらの言葉を言わない努力をしましょう。(^^;ゞ

特に、「でも」というの言葉は、「反対意見を述べるための接続詞(?)」なので、
「否定的な想念の言葉」なのです。

スミヨシさんは日常の中で、「でも」という言葉を使わない訓練をしたそうです。
もし、発声してしまったら、「ごめんなさい」とすぐに打ち消します。

とにかく一年間、「否定的な言葉」と「でも」という言葉をつかわない訓練をしましょう。(^^;ゞ
そうするためには、「私は、否定的な言葉は決して使わない」と、自分に宣言するのが効果的です。
この宣言は、『地球人類全員を浄める呼吸法』にも通じます・

以下は、否定的な想念」を起こさせないための具体的な方法です。
①無駄なことをしゃべらない。
②「否定的な言葉」を無意識に使わないように注意して、できるだけゆっくりと話す。
③「相手の否定的な言葉」に、安易に相槌を打たないようにする。 すぐに返事をしない。
④「自分は、何をしてもOKだ」と思って暮らす。
(これは、私の案です。「無限なる可能性を持っている自分」なのですから、
神とつながっていれば何をしてもOKです。)

【1407】「菩薩の世界」から「如来の世界」への次元上昇。成就!

2008-05-21 05:02:26 | 思索
これから少し、スミヨシさんにお聞きした話を書きます。
私もそうすしますが、「ご自分の修行」の参考にしてください。(^^;ゞ

『今年の3月14日に、ワルシャワで海外初のSOPPがあり、昌美氏はそれに参加されました。
そのあとすぐに帰国されて、翌15日に富士聖地での講師練成会を指導されました。

そのときの講師方々の働きによって、地球の次元が3,9999次元になりました。
ほぼ4次元に移行したのです。
これによって「思ったことが、すぐに実現化する世界」になりました。

これは、いままでの「菩薩の世界」が「如来の世界」になったということです。

『菩薩の世界』とは、『良い事をしましょう』という3次元的な発想の世界観です。

「消えてゆく姿」とか、「いままでは、不調和があった」という考え方も、
3次元的な発想でして「過去の現象に把られた考え方」なのです。

これに対して、『如来の世界』とは、「今思ったことが、すぐに現実化する」のだから、
過去のことは一切考えなくてもよいという「純粋未来志向の世界観」なのです。

『如来の世界』では、人間の業の現れを「消えてゆく姿」だと考えて、
過去を考える必要がまったくないのです。(*^_^*)

神人(人々)は、『「光明なる自分、無限なる自分」を、思いのままに顕わせる』ことになったのです。
「消えてゆく姿」という考え方は、もう要らなくなったのです。(*^_^*)

「消えてゆく姿」を意識しないで、「無限なる自分」を顕わしてゆくだけの時代になったのです。

ですから、『大地震は、不調和を消すため起きた』と考える必要もないのです。

『起きたことは、起きたこと』なのです。

「起床時の神事」の『我、言葉、想念、行為に、自分即神也を顕現する』を実行すれば、
その結果がすぐに顕れるという「如来の世界(4次元の世界)」が、いよいよ到来しました。

なお、「起床時の神事」は、一日複数回してもよいことになり、名前は、
『地球人類全員を浄める呼吸法』(4月号)となりました。

実際にやってみると分かるのですが(会員以外は出来ませんが)、(^^;ゞ
この「呼吸法」はとても深いところまで、「私の意識」を持っていってくれます。

私の意識が、「無分別智の領域」、「二元対立を超えた世界」に入るのです。

【1406】『次元の扉』を読んでみませんか?

2008-05-20 03:36:09 | 思索
砂子さんにお会いしたときに、お聞きしたのですが、
『次元の扉』は、いずれ本として出版されるらしいのですが、
まだ当分先なのだそうです。(^^;ゞ

興味のあるかたは、ネットで注文することができます。
『次元の扉』砂子岳彦著(頒価1500円)

いつも持ち歩いていますので、
私と面識のある方にはお見せできます。
声を掛けてください。

この『知足日記』と共通のテーマが、科学的に解析されています。
いままで、色々な本をよみましたが、類似の本はありません。

「白光の教え」を、科学的に解明したいと思っておられる方には、
お勧めの冊子です。

砂子ゼミ(メールで、注文できると思います)