次男と話をしていて、「人間は、自分の体の老いを信じなければ、永遠に生きられる」という話になったとき、
私がふっと、「それはそうと、魂は、永遠であるので、死はない」と言ってしまいましたが、
これは、私の勇み足です。(^^;ゞ
なぜなら、「肉体が老いない」と思うことによって「死」がない話(A)と、
魂は永遠という話(B)は、別次元の話だからです。
それにもうひとつ、「死」は想念であるという話(C)もあります。
それにもうひとつ、「肉体がある」と想うから、「肉体」があるという話(D)もありますね。
この4つについて、考えてみたいと思います。
(A) は、想いが世界(現実)を創っているという意味の話です。
「自分は、若い」と思っている人は、老いることがないというようなことですね。
それにしてもこの頃は、高年齢でも、肉体的精神的に若い人が、実に多いです。
(B)は、霊的真実として、魂(意識)は不滅だということです。
これが真実なら、肉体が機能しなくなっても、意識は死にません。
(C) は、哲学的なテーマです。「死」とは、 肉体が動かなくなることを、
「死」という言葉で表現しているのであり、この場合、 「死」とは、想念(概念)なのです。
実際に、一人称の自分は、「死」を経験できません。
ですから、生きている人間はだれも、「死」を知らないのです。
「死」を知らないのに、恐怖しているのです。 知らないから、恐いのかもしれませんが。(^^;ゞ
こういう哲学的考察と、「白光」の教えは、恐ろしいほど一致しています。(*^_^*)
池田晶子さんと西園寺昌美氏の対談が実現すれば、どのような本になるのか、とても興味があります。
どなたか、この企画を、実現して戴けませんか?(*^_^*)
(D)の「肉体がある」と思うから、「肉体」があるという話は、
「世界は、想いで出来ている」ということを、裏側から見たのだと思うのです。
「意識」を何に向けるのかによって、立ち現われてくる「世界」が変わるのです。
「肉体」を意識したときには、「肉体」についての感覚が鋭くなり、「精神」に意識を向けたときには、
「世界」は、意識で動いているように見えるのです。
私がふっと、「それはそうと、魂は、永遠であるので、死はない」と言ってしまいましたが、
これは、私の勇み足です。(^^;ゞ
なぜなら、「肉体が老いない」と思うことによって「死」がない話(A)と、
魂は永遠という話(B)は、別次元の話だからです。
それにもうひとつ、「死」は想念であるという話(C)もあります。
それにもうひとつ、「肉体がある」と想うから、「肉体」があるという話(D)もありますね。
この4つについて、考えてみたいと思います。
(A) は、想いが世界(現実)を創っているという意味の話です。
「自分は、若い」と思っている人は、老いることがないというようなことですね。
それにしてもこの頃は、高年齢でも、肉体的精神的に若い人が、実に多いです。
(B)は、霊的真実として、魂(意識)は不滅だということです。
これが真実なら、肉体が機能しなくなっても、意識は死にません。
(C) は、哲学的なテーマです。「死」とは、 肉体が動かなくなることを、
「死」という言葉で表現しているのであり、この場合、 「死」とは、想念(概念)なのです。
実際に、一人称の自分は、「死」を経験できません。
ですから、生きている人間はだれも、「死」を知らないのです。
「死」を知らないのに、恐怖しているのです。 知らないから、恐いのかもしれませんが。(^^;ゞ
こういう哲学的考察と、「白光」の教えは、恐ろしいほど一致しています。(*^_^*)
池田晶子さんと西園寺昌美氏の対談が実現すれば、どのような本になるのか、とても興味があります。
どなたか、この企画を、実現して戴けませんか?(*^_^*)
(D)の「肉体がある」と思うから、「肉体」があるという話は、
「世界は、想いで出来ている」ということを、裏側から見たのだと思うのです。
「意識」を何に向けるのかによって、立ち現われてくる「世界」が変わるのです。
「肉体」を意識したときには、「肉体」についての感覚が鋭くなり、「精神」に意識を向けたときには、
「世界」は、意識で動いているように見えるのです。