白光誌1月号を手にして、
すこし内容を読んだときに、
「人類の存亡の瀬戸際、自分のことはさておき祈ってください」というメッセージを感じました。
それで自分は朝早くから目が覚め、祈りたい気持ちが胸の中一杯沸き起こってくるのだと気づきました。
日常の中で、自分が納得することばかりを考えている私は、
何もわかっていなかったようです。(^^;ゞ
白光誌1月号を手にして、
すこし内容を読んだときに、
「人類の存亡の瀬戸際、自分のことはさておき祈ってください」というメッセージを感じました。
それで自分は朝早くから目が覚め、祈りたい気持ちが胸の中一杯沸き起こってくるのだと気づきました。
日常の中で、自分が納得することばかりを考えている私は、
何もわかっていなかったようです。(^^;ゞ
人類においてもっとも大切なことは、すべての人の意識が普遍意識になることです。
すべての人類は、普遍意識(悟り)に至るプロセスを歩んでいます。
ただ人類は、普遍意識を概念として捕らえて、普遍意識になろうとして成れるものではなくて、
それは自分(現象我)を手放したときに訪れる「悟りの境地」のようなものです。
普遍意識になろうと意識して普遍意識になれないのは、普遍意識になろうという思いの中に「我(欲)」があるからです。
普遍意識についての記述を、『黎明』の中から私の考え(概念)も入れて箇条書きにしてみます。
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★普遍意識とは、この宇宙全体を一度に把握する意識(=すべては、ひとつという意識・ワンネス意識・悟りの境地)
★普遍意識とは、全体が自分という意識。
★普遍意識に至ると、すべての表現が、全体の中で調和に基づいたものになる。
★普遍意識の視点をもてば、あらゆるものを大いなる生命の表現として観るようになり、
比較や区別をすることがなくなる。
★私たちは、偏在する唯一の生命という現実に目を向けるべきであって、
家族と他人、自国民と外国人、地球人と宇宙人というような表現の区別に、
排他的な感情を持ち込まないことが必要です。
★普遍意識は全智である。
★普遍意識では、あらゆるものが自分自身。
★正しい判断というものは、宇宙全体とその人との関係を把握できる普遍意識においてのみ可能
★自己の内面における唯一の生命の体験が、普遍意識の自覚(p563)
★一日24時間のうちで、どれだけの時間「内なる生命」(内なる神?)に意識を向けていられるかが、
自分を現象我、すなわち個人意識としてではなく、宇宙全体として意識し、
その完全なる調和と無限の愛を以って顕現してゆくことの基である。(p540)
★普遍意識とは、内なる神の意識、大いなる自己の意識、無分別智。
『黎明』を読みました。
自分の今の意識にとって、参考になりそうな箇所がありました。
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■覚者の場合には、食事をいっさい採らずに何十日間でも肉体を維持することが可能ですが、
これは生命の本源である無限のエネルギーと一体に成っているために、
あえて物質からエネルギーを取り入れる必要がないからで、
「仙人は、霞を食べて生きる」といわれているのは、こうした事実を意味しています。
普遍意識が個的表現媒介(肉体の意識・エーテル体・アストラル体?)を通じて自覚に至ると、
肉体を構成している物質原子のヴァイブレーションが上がって、下限媒介は光子体に変容します。
光子体は物質原子のような化学反応をしませんから、
たとえ猛毒を飲んでも害を被ることはありませんし、
病原菌に感染することもなくなります。
■瞑想中、一時的に普遍意識に触れることを、ヨガではサビカルパ・サマーディといい、
二十四時間を通じて、普遍意識のままでいられるようになった状態を、
ニルビカパ・サマーディと呼びます。
ニルビカパ・サマーディに至った覚者は、もはや決まった瞑想のスタイルを採る必要はなく、
日常生活におけるすべての行為を普遍意識に焦点を合わせたままで行うことができますから、
このような魂が表現する、肉体を外郭とした全殻体は地上及び幽界、
そして実在界における神の完全が表現体となるわけです。
■本人が不味いと感じるものを我慢して食べることは禁物です。
断食の期間が終わって通常の食生活に戻ることきには、
最低でも断食の期間を同じ期間をかけて、理想的には二倍の期間を使って、
流動食から始めて、徐々に食物に体を馴らしてゆく課程が絶対に必要です。
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★上の文章を読みまして、
自分の場合、食べると下痢などの症状が出るのは、霊的なことだと思っていたのですが、(^^;ゞ
そうではなくて、単に消化の機能が衰えているからだとわかりました。(*^_^*)
★正月の3日間が休業なの「ニルビカパ・サマーディ」をやってみるチャンスかもしれません。
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先日アリスに来られた方へ
1月3日に大阪支部で、11時より「新年の祈り」があり、
「世界各国の平和の祈り」をします。
私が、ヴィパサナ瞑想の時に感じたのと同じ兆候を得た行法ですので、
よりしかったら、ご参加ください。
終わったあと、とてもさわやか落ち着いた気分になります。(*^_^*)
(心が、クリーニングされます)
私も一応、参加するつもりでいます。
大阪支部ホームーページ(TEL06-6444-8620)
http://byakko-osaka.in.coocan.jp/
先日このブログの読者の方が来られまして、お話をした中で、
自分は目覚めて、自然体(無思考)で存在していれば、
それで良いのだと言う事に、あらためて気付かさせていただきました。
極端な話、知識は要らないのです。
この生きて色々なことを経験しているままが、自分の人生(存在)なのです。
そして、「存在は神である」という言葉を思い出しました。
無思考で(思考を手離して)、存在しているだけで良いのです。
日々瞬々刻々、
人生を生きる姿(消えてゆく姿=無思考)を成就させ続けているだけで良いのです。
無思考であるということは、自分や他人を評価したり、裁いたり、穿鑿したりしないことです。
それは、他人を神と見ることと同じなのです。
とおり様との議論で、以下のようなことに気づかせて戴いたので、改めて御礼を申し上げます。
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すべては、自分の問題であるからこそ、
答えは自分の中にあると言えるのです。
この真理は、だれにとっても共通です。
問題とは、悪いという意味ではなくて、
自分の人生のテーマという意味です。
そのような真理に気づくことが、自分が大いなる存在(神)と知ること(=我即神也と気付くこと)であり、
自分で自分を救済することなのです。
他人は、自分を自分で救済するための装置(縁)なのです。
これが、『自分一人あるのみ』(五井先生の教えの真髄)の真意なのです。
答えは、他人(私)の中にあるのではなくて、とおり様のなかに、
救済と共にあるのです。
白光誌12月号の「日々の指針」は、
維持会員でない方にもわかり易くて明快なのでご紹介します。
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■余計なことをゴチャゴチャと考えなければ、物事はひとりでに進んでゆく。
■欠乏していることを強調すればするほど、供給はもたらされなくなる。
なぜなら欠乏に意識が集中しているからである。
■今、現実がどうであれ、「私はすべて満たされている」と思い、語り、行なえば、
その通りになる。
■被災した人々のことを想うと、たとえいかなることといえども、
自分の立場の有り難さが身にしみるものである。
■老齢に至ってもなお、新しいことを学びたいと挑戦ぢつづける志は、
新たに生きる力となってはね返ってくる。
■真理は汝を自由ならしめん。煩悩は汝を不自由ならしめん。
■いついかなる時も、否定的想念が入りこむスキを断じて否定すべきである。
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特に、『被災した人々のことを想うと、たとえいかなることといえども、
自分の立場の有り難さが身にしみるものである』は知足精神に通じる実感がこもっていて、
私の日々の心境です。
そして、そのことに、
『真理は汝を自由ならしめん。煩悩は汝を不自由ならしめん』をプラスして生きたいと思うのです。
普遍意識であり続けることが、人生の目的、完成、成就だと思うのです。
そしてそれは、「我即神也」であり続ける意識のことです。
白光誌12月号の「新ピラミッド神事に参加して」の中に、
そのような心境に成りえた方の文章がありますので紹介します。
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★静まり返ったピラミッド内で、
「私は肉体波動を消滅し、神の器となり得た」と心の中で宣言していた時、
事実、自分自身の肉体 波動を感じなく一瞬がありました。
★ピラミッド内では、「我即神也、私は神そのものである」という意識しか出てきませんでした。
何も思わないようにしよう、と思っても自然に湧き出る泉の如く、
我即神也という意識が次から次へと溢れ出してきました。
★「私は光である」「私は愛である」「私は叡智である」と呼吸法で唱えていると、
私の中から「そうなのだ。私は神であったのだ。光であったのだ。愛であったのだ」という
言葉が響いてきて、思わず涙が出てきました。
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■私が日常、「我即神也」の印を組んだすぐ後に立て現われくる意識は、
上に書かれていることと同じです。
これは、やってみないと分かりません。
人間は何をどう考えても良いのである。
自分の思っているままが全世界なのである。
神を思えば神、
地獄を思えば地獄、
不足を思えば不足、
苦悩を思えば苦悩、
歓喜を思えば歓喜なのである。
不食を思えば不食、
他人を思えば、他人なのである。
他人は自分なのである。
答えは、自分のなかにあるのである。
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★「とおり様の思い」のことを考えながら就寝しまして、早朝目覚めたときに上の言葉が浮かびました。
私にとって「とおり様の思い」は、私の分身の思いでもありまして、
このブログにおいても、貴重な存在だと思うのです。
★『黎明』は現在上下巻本なのですが、以前は一冊の単行本だったことを思い出し調べましたら、
中古本をネットで安く買える(2300円ぐらい)ことがわかりましたのでお知らせします。
「世界平和の祈り(瞑想)」をして無思考になった状態は、
欲望が湧かない状態です。
それは、「自分の欲望」を棚上げ出来ている状態です。
このことと「不食」は関係がありそうですね。(^^;ゞ
無思考とは、時間の感覚がないことなので、空腹を感じないのです。
★「世界平和の祈り」を絶えずしていると、
「天からの直感(気づき)」に任せきって、日常活動を送ることが出来ます。
私も最近は、自分の損得についてあれこれと考えること自体が面倒になってきました。(^^;ゞ
★将来のことは神(守護霊)に任せ切ればよいのです。
その時々に思い浮かんだ直感だけで、
日々を過ごすことが出来ればとても気楽です。(^^;ゞ
『大空をいつも見ていなさい。そうすれば心がひろく、明るくなる』の心境で暮らせることが
最高に幸せなことです。(*^_^*)
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★このごろは時間の感覚がなくなってきました。(^^;ゞ
★ただその場にあって、そのときすべきことを自分のペースですれば、
その姿が無為自然なのです。
以前にも書きましたが、
「周りの人々は、すべて神である」と思えると、不思議と心穏やかになれます。(*^_^*)
ひょっとすると、これは事実(真実・真理)かも知れません。 (*^_^*)
「周りの人々は、神でない」と証明することのほうが難しいと思うのです。 (^^;ゞ
私たちは、もともと共通の母(天地)から生まれた者たちなのですから!
★こうやって、言葉(ロゴス・論理)で遊びながら、
人間の真実の姿や真理を探究することは、
自分の内面に目を向けることだと思うのです。
とおり様へ
私は、とおり様の文章を読んでいますと、
自分の中にある色々な感情想念や思考が分かりますので有意義です。
とおり様の書き込みは、私にとって意味あるものです。
それで「卑怯者」の話なのですが、・・・・・・・・・・・・・・
★基本的に私は、自我のない思考停止状態で暮らしたいと思っているので、
あまり気にならないのですが、(^^;ゞ
普通はパブリックな場で、特定の人を名指しして「卑怯者」と書くと名誉毀損になると思うのです。
★そういう意味で、とおり様には不必要な業(消えてゆく姿)を出して欲しくないのです。
とおり様の守護霊様も、他人を「卑怯者」呼ばわりすることを喜んではおられないと思うのです。
★そんな他人のことよりも、
自分の内面を見つめることの方が数千倍面白いので、是非オススメします。
★読者の方々も、やってみてください。
方法は瞑想(世界平和の祈り)です。
瞑想をして、まずは自分の頭の中に浮かんでくる思考や感情想念を、客観的に眺めてみてください。
白光誌12月号に、以下のような文章がありましたのでご紹介します。
「我即神也」という概念(言葉)を、五井先生が説明されている内容だと思うのです。
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『よく人間だから神様になんかなれこないとか、
人間だからしかたないって、言うんですよ。
しかし本当の人間というもの、神人というものは、神と全く一つなんです。
(中略)
力にしても能力にしてもね。
素晴らしい能力を持っているんだけれども、
自分は知らないで、少しの能力きりないと思っている。
思い込んでいるから出せないんですよ。
あると思っている人は出せるんです。
それで、どちらが本当かというと、あるほうが本当なんです。
何故なら、人間の本体は神様だから、
神さまの生命を持っているんだから、
いくらでも出せば出せるのです。
天にありますから、どんどん引き出せば、
どうにでもいくらでも出てくるうですよ。』(「我を極める」五井昌久著)