美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

川上澄生の作品 受け容れられない愛のモティーフ(2)

2015-12-26 12:14:10 | 日本美術
しかし、作者の女性に対する強い想いは、初期の様々な版画や詩にも時にフェティシュな感覚を伴って大胆に表現されている。画面上方に大きな一つの眼があり、画面下方に女性の肩から上を背面から捉えた「うなぢ」(大正12年)には強い性的願望がユーモラスな詩句で塗(まぶ)され、さながら覗き見趣味的に表現される。女性を凝視し、女性に濃密に触れたいという感覚は、ここでは自分の眼をダニに変身させている。

あでやかな/おんうなぢ/ああわがまなこ/だにとへんじて/くひいったわ

また、西洋の伝統的な主題を借りた「レダと白鳥」(大正13年)のような作品も、女性との接触願望があからさまに表現されているものであろう。さらに、桃を四つの視点から描いたものに過ぎないように見える水彩画「桃」(1928年7月23日の年記がある作品、『鹿沼市立川上澄生美術館開館記念「ガラス絵と肉筆の川上澄生」』所収)なども、何の変哲もないタイトルながら、その実、対象のフォルム上の類似性などから、それを視覚的・感覚的な性的対象の詩的=絵画的隠喩として表現しているのではないかと思われ、フロイト的な解釈を誘うものである。

澄生がフェティシズムという言葉を知っており、特に若い頃にそうした感覚を誇張して創作していたことは、『退屈詩篇』に「Fetishism」そのもののタイトルがあることによって、ことさら証拠を挙げて説明するまでもない。澄生のフェティッシュなまでの女性への執拗な関心は、かくして「探偵趣味」にまで結びつくことがある。

あなたの指紋のべつたりとついて居るクリームの瓶/これも警視庁にだつてありやしない/あなたの可愛い手をつつんだ手袋/これはなかなか大切です/毎日あなたと握手が出来るといふわけだ(「Fetishism」)

この詩におけるかなり雄弁な語り口は、なぜか名探偵なみで、事件解決時に向かうその台詞(犯人に対して時に快感を伴って語られる)を連想させて、なかなか面白い。その他に、敢えて上品を装わない擬態語や擬音語を伴ったいくつもの詩があり、澄生の募る恋慕心はやや猟奇的な空想上の殺人趣味にまで比喩的に直結、展開していく。

あんまり間近に/頬ぺたが見えるので/私は とろとろ とろけ出し/…
ふらふらと たをれかかり/ぺたつと へばりついて/ぺろぺろ ぺろぺろ
なめたいです(「頬」『退屈詩篇』)

どんよく なる 僕の食慾は/あなたの顔を食べ あなたの顔を食べ/
ことに おいしい あなたの眼を食べ/あなたの頬を食べ あなたの鼻を食べ /…それで僕の恋慕心は ますます 肥るばかりです(「顔」『退屈詩篇』)

澄生の代表作に「顔」(大正15年)という有名な版画がある。
この作品には「大勢の顔は/塵芥の如く流れ/あなたの顔のみ/花の如く ああ花の如く/夕暮れの街に明るい」との詩句が施されているので、特に先の『退屈詩篇』における「顔」の詩に結びつくことはない。これで殆んど完結していると思われるからである。

しかし、この作品の左端に登場する上半身が縦半分に断ち切られている紳士は画面の中でどのような意味をもつのだろうか。夕暮れの街を歩いており、この少女を発見した紳士には違いないと思われるが、同時に画面中央に堂々と明るく据えられた少女に対して、文字通りその姿を半ば隠して、ずいぶん遠慮がちに画面の端に登場している。これは画中の詩を捧げている詩人なのだろうか。とすれば、この紳士は、まさに「詩人=探偵」の姿ではなかろうか。探偵であれば、突然のごとく街角の現れ、二人の出遭いも偶然的なものに見えよう。紳士の姿はスナップ・ショット的に画面の端で断ち切られ、そのように表現すれば、少女に強い関心を抱きながらも、彼が一見無関心、無関連を装っていることも強調できるだろう。シルエットの紳士とハーフ・シャドーの少女の暗い影とが共有されている画稿(清新なイメージの完成作とは非常に異なる印象をもつ)もあり、これは二人をやや陰鬱に内面的に結び付けているように見える。

このように見ていくと、この紳士(詩人=探偵)と少女との関係は、澄生自身の姿と憧れの女性との関係が微妙に投影されたものという見方もできなくはない。「あなたの顔を食べ、/ことに おいしい あなたの眼を食べ」たいと、内心では猟奇趣味的な表現を抑えきれないほどの強烈な恋情をもつ「顔」の詩人は、ここでは、一見偶然通りかかって無関心を装う「詩人=探偵」の紳士として表現されているように筆者は受取る。この関係は、「異国春光」(大正13年)における前景に大きく登場する三人の女性たちと、中景部にそれに対する無関心を装って散歩する作者自身の姿と目される人物(竹山博彦「作品解説」『朝日美術館川上澄生』参照)との関係においても既に窺われる。澄生の作品において女性への強い関心と無関心の表現とは結局同一のものであり、表裏の関係にあるものではなかろうか。

ところで、女性を探索する「詩人=探偵」のイメージ上の結びつきは、澄生の芸術にとって決して突飛なものではないことに留意すべきである。彼がカナダに携行して愛誦したはずの『月に吠える』の詩人・萩原朔太郎も、「殺人事件」の中で、「私の探偵」は「こひびとの窓からしのびこむ」。そして「かなしい女の死体のうへで、つめたいきりぎりすがないてゐる」のを聞き、「探偵は玻璃の衣裳をきて、街の十字巷路を曲がった」とある。「顔」の左端部に現れる「詩人=探偵」も、朔太郎の「私の探偵」のように「十字巷路(よつつじ)」に佇んでいるのではなかろうか。

「春の伏兵」(大正13年)では、素肌の女性が草むらの中から「伏兵」として現れる(構想過程からすると兵士を誘うためとの説もある)のだが、これも無意識のうちにも至るところで女性の秘密の姿を追い求めている「詩人=探偵」としての澄生の眼が現実に偶然発見したものか、想像力によって発見しようとしていたものに違いない。もっとも「詩人=探偵」は、「伏兵」に現実に遭遇しても、おそらく密かに歓び、そして立ち去るだけであろうが。

しかし、澄生自身の率直な恋情は、「初夏の風」(大正15年)の風や、「鬼ごと」(昭和3年)の鬼(あるいは「パンとニンフ」のパンの姿)となって、女性の前に後に立ちはだかり、追いかけたいというイメージとなってさらに高度に結実していく。ここでは、探偵というよりも、むしろ空想上のストーカーに近い。しかし、これが詩的に昇華されていくのが初期の澄生の世界である。

かぜとなりたや/はつなつのかぜとなりたや/かのひとのまえにはだかり/ かのひとのうしろよりふく/はつなつのはつなつの/かぜとなりたや(「初夏の風」)

鬼ごとの 鬼となりたや/鬼となりてあの人を追ひ/あの人のみを追ひ/鬼ごとなれば 鬼にてあれば/あの人を抱きすくめん(「鬼ごと」)

男性の女性に対する果てしない憧れと願望は、「探偵趣味」的なものから風となり鬼(パン)となって女性を追いかけていくというように、限りなく広がっていく。これら二つの版画作品においては、画中の詩(ただし栃木県立美術館の「鬼ごと」には詩は添えられていない)における詩作品としてのリズムも最上のものとなり、リフレーンも心地よい。そして、むき出しの男の欲望も、より自然な世界のものに、あるいは神話的もしくは遊戯的な世界のものに置き換えられていく。(続く)

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