歴歩

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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 供宴施設の大型建物跡を発見か

2018年02月21日 | Weblog
 明日香村教委が21日、「槻の樹の広場」(日本書紀では「槻樹之下」)跡とされる飛鳥寺西方遺跡で新たに、東西19.2m以上、南北4.8mの大型建物跡が確認されたと発表した。飛鳥寺西門跡から約140m西にあたる。
 日本書紀には7世紀中ごろ以降、寺の西側で外交使節をもてなしたとあり、供宴施設だった可能性が高いという。
今回の調査と合わせ、広場では4棟の建物跡が確認されたことになり、広場は従来の想定からさらに西に広がった。
 現地説明会は25日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞]

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 /飛鳥寺西方遺跡


宴会施設か、飛鳥時代の建物跡が出土 蝦夷や隼人招待?

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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 総柱建物のような本格的な建物跡が初めて見つかる

2017年02月23日 | Weblog
 明日香村教委は23日、「槻の樹の広場」(日本書紀では「槻樹之下」)跡とされる飛鳥寺西方遺跡で、飛鳥時代(7世紀後半)の本格的な建物跡が初めて見つかったと発表した。
 建物跡は東西11m、南北6.5m以上で、9カ所の柱の抜き取り穴が東西は3・6m間隔、南北は3・3m間隔で並んで見つかり、柱を埋めるために掘られた穴の深さは約90cm、柱は直径約20cmでしっかりと造られていた。格子状に柱を配した総柱(そうばしら)建物のように、倉庫によくみられる構造という。 高床式で、広場で行われた供宴などに関連した施設の可能性もあるという。
 同遺跡では壬申の乱(672年)で軍営用に仮設された建物跡は見つかっているが、本格的な建物跡が確認されたのは初めて。場所は広場の南限付近と推定される。
 現地説明会が26日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

2017.2.28追記
 2/26の現地説明会に約1200人が参加。 [参考:奈良新聞]

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 飛鳥寺西方遺跡



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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 飛鳥時代の石組溝と石列の一部を検出 2017年2月26日に現地説明会

2017年02月16日 | Weblog
明日香村より、飛鳥時代の石組溝と石列の一部、柱穴などを検出したので、平成29年2月26日(日) 10:00~15:00現地説明会を開催いたしますとの発表がありました。

写真は、昨年11月15日に撮影したもの。中央に首塚、後方に甘樫丘が見える。入鹿の首塚より左側(南側)に約130mのところが今回の調査個所。
[参考:明日香村HP]

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 飛鳥寺西方遺跡


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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 「槻の木の広場」で平安時代の祭祀の跡

2016年02月11日 | Weblog
 奈良県明日香村教委が9日、「槻の樹の広場」(日本書紀では「槻樹之下」)とされる飛鳥寺西方遺跡で平安時代の祭祀の跡が見つかったと発表した。 遺跡が飛鳥時代から平安時代まで特別な場所だったことを示す資料だとしている。
 直径10~14cmほどの平安時代10世紀の土師皿が5~8枚重ねるようにして、3カ所で置かれ1.1mの等間隔で東西一列に並んでいた。 北側の別の場所では大型の土師皿(直径約14cm)が2枚重ねて置かれ、その近くには、火を焚いた跡があった。 中に穀物を入れて儀式に使ったと見られという。 さらに北側で、2枚の口を合わせた大型の土師皿5組が集まった遺構も確認した。
 調査では、他に飛鳥時代の排水用の南北に走る大規模な石組み溝跡(長さ約8m、幅約1m、深さ22cm)が見つかった。
[参考:奈良新聞、共同通信、産経新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHK、TVN奈良テレビ]

 飛鳥寺西方遺跡

飛鳥寺西方遺跡に平安時代の皿 遷都後も祭祀利用か


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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 飛鳥時代の掘立柱建物跡が初出土

2015年02月06日 | Weblog
 奈良県明日香村教委が5日、飛鳥時代(7世紀)に重要な儀式や饗宴が催された飛鳥寺西の「槻の樹(つきのき)の広場」とされる飛鳥寺西方遺跡で2棟の掘立柱建物跡が初めて確認されたと発表した。
 周辺に広がっていた砂利敷きの下から、柱穴(長さ33~116cm、深さ30cm)が2013~14年度の調査で計23個確認され、2棟の建物(東西16.7~17.5m、南北4.8m)が約6m離れて東西対称に並んでいたと判断した。柱穴に焼けた赤っぽい土で埋っていたほか、穴の大きさや形、柱間の長さにばらつきが多いことから、仮設の建物だったとみられる。
 壬申の乱(672年)の際の軍営施設か、東北や南九州の人を接待した饗宴施設の可能性があるという。
 2013年の調査で柱穴が見つかっていたが、一列だったため塀の跡とも考えられていた。
 日本書紀には、広場に「槻」(ケヤキの古名)の巨木があり、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が出会った場所と記されている。その後に即位した孝徳天皇が臣下に忠誠を誓わせたほか、東北の「蝦夷」や九州南部の「隼人」らを招いた饗宴なども行われたとされる。
 現地説明会は8日(日)午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、産経新聞、共同通、静岡新聞]

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 飛鳥寺西方遺跡
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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 「槻の樹の広場」?の遺構が出土

2013年12月12日 | Weblog
 明日香村教委が11日、「槻の樹の広場」とみられている明日香村の飛鳥寺西方(せいほう)遺跡で、飛鳥時代の砂利敷き(東西約10m分)や石組み溝、柱穴とみられる遺構などが見つかったと発表した。
[参考:読売新聞]

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 西方遺跡

キーワード:飛鳥寺西方遺跡
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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 同寺南西約130mを調査、「槻の木の広場」の南端の可能性も

2011年11月25日 | Weblog
 明日香村教委が24日、飛鳥寺西方遺跡の「槻の樹の広場」があったとされ場所で南北と東西に延びる7世紀後半ごろの石組み溝や石敷きが見つかったと発表した。東西に延びる溝の南には石敷きがなく、南北約200m、東西120mと推察されている広場の南端だった可能性もあるとしている。
 過去の調査で、同寺西側から南に約110m延びる石組み溝が確認されている。 今回の調査地、同寺南西約130mでも、延長線上に南北約9m分(幅約1・2m、深さ15cm)の石組み溝が出土し、溝の総延長が130mに及ぶことが判明した。
 近くからは、今回初めて東西に延びる14m分の石組み溝(幅約90cm、深さ10cm)が出土したほか、小石を敷き詰めた石敷きなども見つかった。
 2カ所の石組み溝は流水の形跡がないため、敷地を囲む目的などが考えられる。周辺は石敷きで整備され、建物跡が検出されなかったことから『槻の樹の広場』の南端か、一部の可能性もあるとしている。
 現地見学会が27日(日)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、読売新聞]
(注1) 読売新聞では、飛鳥寺西方遺跡・広場の南東隅としている。

過去の関連ニュース・情報
 飛鳥寺西方遺跡
2011.2.9
 「槻の木の広場」のすぐ西側、飛鳥寺西門跡の西約100mで、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかった。
 石敷きは、幅2・4m、長さ80cm分。さらに、約150m西には甘樫丘がそびえる。
 飛鳥寺南門の参道の幅は2・2mで今回見つかった石敷きの幅に近く、石敷きは蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅があった甘樫丘方面から槻の木の広場を横切る参道だった可能性もある。
 また、その北55mでも石組み溝の底部とみられる石敷きが東西2・6m、南北80cm分、出土した。

2010.3.18
 飛鳥寺の南西約120mの地点で7世紀の石敷き跡が見つかった。「槻の木広場」の一部だった可能性がある。
 東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を敷き詰め、周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
 今回の調査地の北側で過去の調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性がある。
 近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。


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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 槻の木の広場を横切り飛鳥寺西門に続く参道跡とみられる石敷きが出土

2011年02月09日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が9日、明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、645年に乙巳の変(大化改新)を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる「槻(つき)の木の広場」のすぐ西側で、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかったと発表した。
 石敷きは飛鳥寺西門跡の西約100mで、幅2・4m、長さ80cm分の石敷きを確認した。 表面が平らなこぶし大の石が敷かれ、人の頭ほどの大きさの縁石も残っていた。 さらに、約150m西には甘樫丘がそびえる。
 橿考研によると、飛鳥寺南門の参道の幅は2・2mで今回見つかった石敷きの幅に近く、石敷きは蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅があった甘樫丘方面から槻の木の広場を横切る参道だった可能性もある。
 また、その北55mでも石組み溝の底部とみられる石敷きが東西2・6m、南北80cm分、出土した。
 現地説明会はないが、橿考研付属博物館(橿原市畝傍町)の速報展(2月11日~3月6日、月曜休館)で紹介される。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]

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 2010.3.18飛鳥寺西方遺跡 大化改新ゆかりの「槻の木広場」か、石敷き跡が出土
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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 大化改新ゆかりの「槻の木広場」か、石敷き跡が出土

2010年03月18日 | Weblog
 明日香村教委が17日、飛鳥寺西方遺跡で7世紀の石敷き跡が見つかったと発表した。大化改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる「槻(つき)の木広場」の一部だった可能性があるという。
 飛鳥寺の南西約120mの地点を調査。東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を丁寧に敷き詰めていた。周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
 今回の調査地の北側で奈良文化財研究所などが過去に実施した調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性があるという。
 他にも石組の溝が造られ、近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠(あんきょ)が埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。人工的な整備が、飛鳥寺西門付近から南側に広がっていたとしている。
 日本書紀によると、皇極3年(644)、中臣鎌子連(藤原鎌足)は法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で蹴鞠が行われた際、中大兄皇子と親しく話す機会を持ち、その後、大化改新の策を練ったとされる。そして、皇極6年(647)6月19日、孝謙天皇、中大兄皇子は、大槻の樹の下に群臣を召し集めて誓約をさせ、その年の年号を大化と改めた。さらに後、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)軍が陣を構えたり、外交使節をもてなす宴会が開かれたとされる。
 現地見学会が20日午前10時~午後3時に行われる。(明日香村HPでは、見学会だけで説明はないとしている。)
[参考:産経新聞、共同通信、MBS毎日放送、明日香村HP]


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