歴歩

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高崎市・六枚遺跡 「片岡郡」の名を刻む土器片が出土

2011年02月11日 | Weblog
 高崎市教委は10日、同市八幡町の六枚遺跡で、9世紀代の竪穴式住居跡深さ1・5mから見つかった須恵器の甕(胴の直径推定35cm)の破片4片(約15cm四方)を接合すると、「片罡郡」(片岡郡)の文字が刻まれていたことがわかったと発表した。 郡役所の公用の器であった可能性が高く、郡役所が近くにあったことを推測させる貴重な資料という。
 続日本紀・和銅四年(711)三月辛亥(六日)条に、
 「割上野國甘良郡織裳。韓級。矢田。大家。緑野郡武美。片岡郡山等六郷。別置多胡郡。」
とあり、片岡郡は当時の律令制の行政区画・郡のひとつ。高崎市南西部の観音山丘陵や烏川流域に広がり、当時約6000人が暮らしていたとされる。
 また、群馬県高崎市吉井町にある「多胡碑」(金石文)の碑文に、
 「弁官符上野國片罡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡 和銅四年三月九日甲寅宣、左中弁正五位下多治比真人、太政官二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二位藤原尊」
とあり、「片岡」は当時「片罡」とも書いていた。
 市教委は、出土地の近くには6世紀末に観音塚古墳(全長約100mの前方後円墳)が築造されるなど勢力地とされ、奈良時代にも引き続き郡役所が置かれた可能性が高いとしている。
 出土した土器片は、3月6日午前10時~午後4時45分に群馬音楽センター(同市高松町28-2)で開催される多胡郡建郡1300年記念シンポジウム「多胡郡は何を伝えようとしたのか」会場で展示される。 その後、八幡町の市観音塚考古資料館で展示する見通し。
[参考:読売新聞、東京新聞]
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