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小田原城を巡る

2013-03-11 00:00:01 | 東海道宿場町
小田原城

        
小田原城がはじめて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃のことと考えられる。
         
1500年頃に戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張され最大時には、閑八州240万石に達していた。因みに豊臣秀吉が天下統一を達成した頃の禄高は、秀吉222万石、徳川家康250万石である。
また、四公六民の税制は直轄領としては最低で、なおかつ飢饉の際には減税を施すなど善政を行い農民にとってはありがたい領主さまであったようだ。
城はまた、秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、中世の日本最大城郭に発展し、不落の城、無敵の城とまでいわれるようになった。

江戸時代を迎えると徳川家康の家臣、大久保氏が城主となり、城の規模は縮小された。しかし、稲葉氏が城主になってからは大規模な改修工事が行われ、近世城郭として生まれ変わった。その後、再び大久保氏が城主になり、箱根を控えた関東地方の防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。

明治維新を向かえ、小田原城は1870(明治3)年に廃城となり、ほとんどの建物が解体される。残った石垣も1923(大正12)年の関東大震災によってことごとく崩れ落ちた。



その小田原城を歩いてみた。

天守
天守は城の象徴として本丸に構えていた。
三代将軍家光が天守に上って武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。
1703(元禄16)年の大地震で崩壊、1706(宝永3)年再建され、1870(明治3)年に壊された。
1960(昭和35)年、宝永年間時に作成された設計図を参考に鉄筋コンクリートで外観復元した。
因みに天守閣という呼称は明治以降とのこと。
         

本丸
東西約150m(83間)、南北114m(63間)ほどの規模をもち、その西端に天守、中央に本丸御殿が存在した。
本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており、東南に常磐木門と北側には裏門にあたる鉄(くろがね)門が設置されていた。
本丸御殿は、家光が上洛に際して宿泊するために建築されたもので、1703(元禄16)年の地震によって焼失して以来建設されなかった。
            

本丸東堀跡
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。絵図によると堀は二の丸堀とつながって水堀となっていた。
         
         

本丸の巨(おお)マツ
「御本丸に七本松という老松・・・」と天保年間の雑誌に書かれていた松の生き残りと思われ、樹高30m、樹齢400年以上のクロマツである。
                 

二の丸隅櫓(すみやぐら)
曲輪(くるわ)の隅に配置される櫓。廃城の際にも壊されなかったが、関東大震災で崩落した。現在の櫓は1934(昭和9)年に復元したもので形状は当時と異なる。
         
この堀の中に建てられていた「二の丸御殿」は、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持つ御殿として利用されていた。
「二の丸御殿」は寛永年間(1624~44年)のころが最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものであった。しかし、1703(元禄16)年の大震災により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊炎上した。その後再建、増築されているが、以前のような姿には及ばなかったという。
現在は歴史見聞館の建物と広場となっている。その広場には、かつて城内小学校がおかれていた。

二の丸東堀
本丸、二の丸を護る中で最も大きな堀で最大幅は40mある。
現在の石垣は、1923(大正12)年の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧した。江戸時代の石垣はもっと高く威厳のある姿を見せていた。
         
         

常磐木門
本丸の正面に位置し、城内で最も大きく堅固に造られていた。記録から江戸時代初期から設けられており、1703(元禄16)年の地震で崩壊した後、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されている。
常磐木とは常緑樹の意で、小田原城が永久不変に繁栄すること願って名付けられている。
1971(昭和46年)復元。
         

銅門(あかがねもん)
江戸時代の二の丸表門で、江戸時代を通してそびえていたが、1872(明治5)年解体される。
1997(平成9)年、門や土塀は古写真を基に江戸時代工法で復元される。銅門の名前の由来は、大扉などに銅の飾り金具が使用されているからである。
         
         

馬出門(うまだしもん)
二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期から現在の場所に存在し、1672(寛文12)年に枡形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。
2009(平成21)年に総工費5億円余りをかけ復元される。
         
         
         

大手門跡
稲葉氏が城主であった1633(寛永10)年、三代将軍家光が京に上る際に、箱根口付近にあった大手門を江戸に向く現在の位置に移し、大手門前までの道を将軍が入るための御成道として整備、江戸見附もその時に、現在の国道1号線の位置に移された。
この門を入ると三の丸となり、道の両側には家老級の屋敷が建ち並んでいた。
         
鐘楼の石垣は、大手門枡形虎口の石垣である。
                 
         
御用米曲輪
またの名を「御城米曲輪」とも呼ばれた。
小田原城は藩主のものではなく、江戸城の出城として徳川家の所有であった。前記のように、本丸には将軍家専用の本丸御殿があり、そのため藩主は二の丸に居館を置いていた。 このため米蔵も徳川家の兵糧米を格納するものであって、稲葉氏時代には御用米曲輪には五棟の瓦葺の米蔵があり、八千石、俵にして21,600俵余の米を収納していた。
         
この場所、かつては野球場であったり、臨時駐車場でもあったようだ。
現在は発掘現場となっており、北条氏時代では、重要な建物があったといわれいている。
         


         
平成22年度から史跡整備に伴う発掘調査が行われており、北条氏時代の建物跡が新たに発見されたと時折地方版の新聞記事を眼にする。
今後も新たな発見があるのではと、楽しみである。

            
        
                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2012.3.29散策】


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