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ミニミニ品川宿散策

2012-06-06 15:33:42 | 街道を歩く
ミニミニ品川宿を歩く

       
江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場がはじめて設置されたのは1601(慶長6)年のこと。
全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものであった。
既に戦国時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設置したのである。のちに、品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、1722(享保7)年には歩行新宿(かちしんじゅく)の成立を見るに至り、この三宿を品川宿といった。
日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったという。

八つ山橋から旧東海道を入る
訪れたのは、品川神社、荏原神社の祭礼日の数日前のこと。アジサイが綺麗に咲いていた。
   

問答河岸跡碑
1640(寛永17)年、徳川家光が付近の「東海寺」を訪れた際に、ここで沢庵和尚と次のような問答をしたとされる。
家光「海近くして、東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
               

品川浦舟だまり
江戸湾には、漁を専業とする人々の集落がいくつかあり、漁師町または浦といった。品川周辺には「品川浦の品川漁師」と「御林浦の大井御林漁師町」があり、「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)」のひとつとして、収穫した魚介を江戸城に献上していた。御菜肴八ヶ浦とは、品川・御林・羽田・生麦・神奈川などの浦々で、力レイ・あいなめ・車海老などをはじめ、様々な魚介類をとること。   
現在は、つり舟や屋形舟の発着場として賑わっており、「品川浦とつり舟」で"しながわ百景"に制定されている。


御殿山下台場(砲台)跡
この地、台場小学校の敷地は幕末、江戸の防衛のために築かれた「品川台場」のひとつである砲台跡地であった。
また、レプリカの灯台は1870(明治3)年から1957(昭和32)年まで使用されていた品川灯台(国の重要文化財に指定)であり、周りの石垣は旧目黒川に架かっていた品海橋(今の台場交番前)を築いた石であるという。
                  

利田神社
旧目黒川の河口に弁天堂が祀られていた。1626(寛永3)年、沢庵和尚が弁財天を祀ったことに始まるとされる。洲崎弁天として歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」のひとつに描かれている。明治の神仏分離で「利田神社」となった。
この辺りは、南品川宿名主・利田(かがた)吉左衛門が開墾して「利田新地」と呼ばれていた。


鯨塚
1798(寛政10)年、品川沖に迷い込んだ鯨を漁師たちが捕えた供養碑ある。体長は16.5m(9間1尺)の大鯨で、江戸中の評判となり、浜離宮沖まで運び十一代将軍家斉(いえなり)に見せたという。
              

              

土蔵相模跡
旅籠屋「相模屋」の外壁がなまこ壁の土蔵造りであったため通称「土蔵相模」と呼ばれていた。
1862(文久2)年、高杉晋作や志道聞多(のちの井上馨)らが外国人襲撃の謀議をしたり、1860(安政7)年の発生したの桜田門外の変の水戸浪士が宴を催したところでもある。
ひとつおいた建物に「旅籠 品川宿 一期一会」の看板があったのでこの地に因み一枚撮す。



善福寺


入江長八(1815~1889)の漆喰こて絵の龍が本堂に描かれている。


横丁
旧東海道のそれぞれの横町に歴史を感じさせる名前が残る。
              
              

街道文庫
今回の品川宿の主目的はここに来ることであった。
先だって、テレ朝の番組「人生の楽園」で紹介され興味を覚えた古本専門書店である。品海公園の向かい側にあり、「品川宿 お休み処」を使用している。
「思ったほど大きくないですネ。」とひとこと余計な言葉を発すると、「テレビはうまく撮りますよネ。」と気さくに返ってきた。
鎌倉街道の本を探しているというと相談にのってくれて数冊紹介された。鎌倉街道を歩く参考となり、地図も備えた本は少ないという。特に神奈川エリアはほとんどないとのことだった。
1冊面白そうな「鎌倉街道伝説」を買い求めた。
               

日本橋から2里
日本橋から2里の案内板があった。と云うことは「一里塚」があったのだろうか?調べると、初期にはあったようだが江戸時代中期にはなくなっていたようである。
今は、五代目の品川宿の松が植えられている。現代の品川宿東海道沿道には様々な宿場の松が植えられている。ここは地元の品川の松のようである。
              

法禅寺


法禅寺板碑(下左)
板碑は鎌倉時代から戦国時代にかけてつくられた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布している。
この寺の板碑は、品川御殿山から出土したものの一部で、破片を含め121基ある。古いものは1308(徳治3)年の銘がある。
 
流民叢塚(るみんそうづか)碑(下右)
天保の大飢饉で亡くなった人たちを祀る供養塔である。
品川宿は農村などから流浪してくる人が多く、病や飢餓で倒れた人が891人を数え、法禅寺と海蔵寺で葬っている。


杉森稲荷
五穀豊穣の稲荷神が法禅寺の境内に祀られている。
1690(元禄3)年銘の「武州品川稲荷大明神」の石柱が置かれている。
     

正徳寺
レンガ造りの塀がある真宗大谷派の寺院


              

祭礼
荏原神社
品川神社の天王祭と合わせて「品川天王祭」と称される。
祭礼最終日には「御神面神輿海中御渡(ごしめんみこしかいちゅうとぎょ)」という神事があり、天王洲沖で神面を着けた神輿が海に入る。これは、1751(宝暦元)年、品川沖の海から牛頭天王(ごずてんのう)の面が発見されたことに因み、「天王洲」の地名もここからきている。
江戸のころから、若衆が神輿を荒々しく担ぐ際に元結が濡れて切れ、ざんばら髪になった様を観て、「かっぱ祭り」と呼ばれるようになった。
神輿の渡御で演奏される品川拍子は、大拍子と呼ばれる太鼓と篠笛で演奏される。
                

                    
品川神社
品川神社は「北の天王社」と称される。
徳川三代將軍家光が寄附された神輿を、勝海舟が「葵の神輿」と名付け、今は二代目である。品川神社の神輿には、家康の奉納した通称「天下一なめの面」を屋根につけ、〆太鼓と笛の品川拍子でかつぐのか特長である。面を取付けるようになったのは、ある年のこと凶作がつゞき疫病がはやり人々が苦しんいた時に、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救う」と神のお告があり、以来神輿にお面を付け練り歩き、家々の幸福を祈願するようになった。又品川拍子とは、家光公が神輿を奉納された当時から、品川神社太々神楽の拍子と江戸囃子の拍子から独特の品川拍子をつくったといわれる。

       
         



提灯が飾られた街並み
              
              
 

品川宿には本来一週間前に行く予定だったのだが、天候が危ぶまれ延ばしたのである。
そうしたら、テレ朝の「若大将ゆうゆう散歩」でその日、北品川を周っていた。「ちい散歩」も偶然が多々あったが、加山散歩でも縁があるとは・・・・。


本日のスタート地点・旧大名屋敷
とある都内のホテルから出発。
400年余りの歴史を有する東京名園のひとつに数えられている。

                  
湧水山水風の池の中に、江戸時代からの大木の化石がある。木の根がそのまま化石になった珍しい石で、庭園内には4個の化石がある。
              

              

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