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歴史散策まち歩きの記録
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大御所様の道・中原街道を行く 5日目

2011-12-28 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道5日目

前回の続きで梛の木の碑からスタートする。
中原街道はここから上り坂となる。
瀬谷第二小の信号機辺りから平となり、下瀬谷二丁目交差点で環状4号線と交差する。
中原街道は片道1車線になり、下り坂となる。
交差点先左手に地神塔という相鉄バスの停留所がある。バスの停留所にその土地の歴史に関連する名前をつけていることは嬉しい。

バス停そばには4基の石仏群があり、このうちの地神塔は1839(天保10)年と刻まれている。バス停もここから名付けられたのであろう。


下り坂が終えた辺り右側に日蓮宗・宗川寺がある。

三門右側に秋桜、百恵ちゃんのコスモスではなく秋に咲く桜が咲いている。
三門を潜ると夫婦銀杏と呼ばれる2本の背の高い銀杏が植えられている。


三門右手の塀越しに瀬谷宿問屋場跡の案内板が立っている。

案内板によると、問屋場(といやば)は、1578(天正6)年小田原北条氏時代問屋場が設けられ、後に、徳川の江戸時代になっても江戸・平塚間5駅の中宿、瀬谷駅のとして、270年間中原往還の道筋の人馬、諸貨物の運送、継立に役割を果たしたという。
その問屋場は、これより東方80mというから、ホームセンターの駐車場辺りであろう。

宗川寺の北側を行く小道は旧鎌倉街道であり、道を一歩入ると石蔵が屋敷内にある旧家が幾つか望める。
 街道裏の旧家

境川を新道大橋で渡り、横浜市瀬谷区から大和市に入る。
 
中原街道は江戸の繁栄とともに生産物の輸送要路としての需要も高まり、街道の改修が実施された時に旧来の道に対し、新道の呼称が定着したのではなかろうか。
その当時の呼称がそのまま地名、橋名になったと書物に書かれており、大和市の上和田から福田の間を新道と呼んでいる。



高低差がある坂となる。大阪と呼ばれている。


坂を上がり切り左手の小道を少し行くと左馬神社がある。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の父義朝が祭神として祀られている。境内の縁には石仏像もある。
 
由来としては「古くより、相模の七サバ神社のひとつと数えられ、社名も鯖大明神(宝暦14年)、左馬大明神(文化13年)、和田左馬大明神(慶応2年)と変遷して、明治42年現在の左馬神社となり、村社に列せられた」とある。
境川の流域に位置する大和市、藤沢市、横浜市瀬谷区・泉区には「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と”サバ”と名付づけた神社は現在12社あり、江戸時代中期には13社あったといわれる。
サバ神社ついての記述は新たに機会を設けることとして先に進む。

道の拡幅工事が行われている。この辺りの道は中原街道とはいわず丸子中山茅ヶ崎線と呼ぶようだ。


藤沢町田線(国道467号)と交差する桜ヶ丘交差点にさしかかる。ここには道標兼庚申塔が置かれていたが現在は金毘羅神社に移設してあるので、少々外れて社に向かう。

金毘羅神社は明治時代中頃に地域の人々により勘請したといい、比較的新しい神社のようだ。
道標兼庚申塔は境内左隣に据えられていた。塔の左右に「大山ミち 八王子ミち」と刻まれている。1710(宝永7)年建立。
 

すぐ近くに小田急江ノ島線の桜ヶ丘駅がある。
旧滝山街道を通って本線に戻り、小田急の踏切を渡る。

道は下って、引地(ひきじ)川を新道下(しんみちした)大橋で渡る。そして上りとなる。
代官一丁目の交差点で道がふたつに分かれている。直進する方が自然であろうと。右側の真っ直ぐ伸びた道を行く。

暫く行くと厚木基地で直進がさえぎられる。
ただし、中原街道の綾瀬方向への道路案内板が直線状に見える。恐らく基地が中原街道を迂回させたのだろうと思う。

厚木航空基地の南側に出る。現在、ゆとりの森という広い公園になっている。基地を望む場所は一段高くなっており眺めがよい。
 大和市ゆとりの森
 厚木航空基地

綾瀬市に入る。
基地に角で道は分かれる。一方は厚木・海老名方面である。
ゆるやかな下りとなって菱川という小さな川を渡った後再び上る。

鶴島緑地という花壇があった。


その先に廻り坂という変わった名のバス停がある。


しばらく行くとフェンスに囲まれた中に堅牢大地神塔や道標を兼ねた庚申塔がある。庚申塔には「文化11年 南大山道」「西あつぎ □江戸道」と刻まれている。(文化11年=1814年)


右手に瓦屋根の門構えの家が目についた。旧家であろうか。


藤沢・座間・厚木線との交差点手前右手に法鏡山大法寺がある。


大法寺の先左手フェンスに囲まれた中に1819(文政2)年建立の堅牢大地神や1860(萬延元)年の庚申塔等がある


比留川を新道橋で渡る。


中原街道もこの辺りになると春日新道(かすがしんみち)という現代名になる。
綾瀬市の広報によると一般公募によって中原街道を綾瀬市全域では春日新道と呼称するという。


吉岡交差点左折してすぐに御岳神社がある。

鳥居の前に、金網に囲まれて不動尊塔と堅牢地神塔が入っており、網の外には、庚申塔がある。
不動明王は、1856(安政3)年の建立で、庚申塔は1838(天保9)年で、銘文には「東 江戸道、南 ふじさハ道、西 おおやま道、北 ほしのや(星谷)道」と刻まれている。
 

江戸時代、この辺りは吉岡村と呼ばれ春日局の領地であった。
春日局ゆかりの寺が中原街道から離れるがあるというので向かった。
吉岡交差点から30分ほどかけてゆかりの寺である吉岡山済運寺に向かう。
そこまでの道筋に江戸道というバス停があり古い名が残っていて嬉しい。

また、比留川の橋の袂には道祖神が祀られており、この道は昔からあったのかなと想像する。


吉岡山済運寺の案内板によると、三代将軍家光の乳母である春日局が化粧料として吉岡、用田等に3千石の所領を与えられ、この辺りに屋敷を設け大山の参詣の宿泊所にしたといわれている。
済運寺には春日局の位牌とともに、局が使用していたと伝えられる茶臼と茶釜が寺宝として保管されている。
 

春日新道に戻る。次は山根の道祖神である。

山根の道祖神はガソリンスタンドの隣に祀られていた。1922(大正11)年と比較的新しいものだった。


女坂にさしかかった。
女坂三差路交差点を渡った右脇にサイホウ塚がある。以前、サイホウ塚はこの三差路の中央に祀られていたという。
 

ここで綾瀬市から藤沢市に入る。


次は、中将姫の祠であるが、中原街道より少々奥まって分かりにくい位置にあるようなのでネットで地図を用意した。
新幹線に通じる下り坂にあるリサイクルガーデンを過ぎたところで右の細道に入った。両側は新しい住宅が建て並び、新築中の建物もある。作業員が外人ばかりのようで建設業界も外国人が職を奪っているようだ。
余談だが、丹沢・塔ノ岳の小草平を整備している職人さんの食事時に登ったことがあったが中国語が飛び交い暫くその場で休憩したが日本語は全く聞かれなかったこともある。その時は雪が積もった山の中まで来て御苦労さまと思った。

住宅の中の上り坂を詰めて右折して少々行くと「中将姫の入口」の案内板がある。思いもよらぬ案内板を頼りに畑の中の道を進んで行った。

中将姫の祠は畑から下った竹藪の中にあった。
 
そこにたてられた案内板は文字がかすれて読み取れないが、1260年ほど前のことで、中将官位の聡明な美しい娘がのちに中将姫と呼ばれるようになる。中将姫は、継母のいじめに遭い16才で仏門に入り、五色の蓮糸で一夜にして縦横とも約4.5m(1丈5尺)の当麻曼荼羅(たいままんだら)を織り上げた。29歳で西方極楽浄土に旅立ったという話で、浄瑠璃、歌舞伎の題材になった。中将姫伝説は各地に伝わっており、ここ用田の中条伝説は、中将姫は継母の策略のために家を追われ、人里離れ暮らしていた。いつの頃か姫は用田に住まわれ、人目を恐れて面をつけていた。この面が寿昌寺に預けられていたというが、現在は失われているということだ。

その護法山寿昌寺は祠から傾斜地に施された木道を下ってゆくと建っている。
 
 
寿昌寺の前の道を辿り、東海道新幹線のガードを潜り中原街道に戻る。合流するところにお地蔵様を安置した祠がある。


新用田辻を通り越し用田の辻に至る。


ここは中原街道(県道45号・丸子中山茅ヶ崎線)、大山道(県道22号・横浜伊勢原線)、厚木道(県道43号・藤沢厚木線)が交差する辻で、江戸時代、継立の宿(人馬を替えて、貨客を送り継ぐ宿駅)として繁盛していた。
当時の面影が交差点を渡った右脇に建つ道標を兼ねた仏像が載った庚申塔に見る。


暫く真っ直ぐな道を歩く。
中原という名のバス停を見つける。地図をみるとこの辺一帯を中原という。ここも川崎市の中原同様、中原街道に因んで名付けたのだろうか。


高座郡寒川町に入る。


小谷(こやと)バス停手前で右に折れて20分ほどかけて小動(こゆるぎ)神社へ向かう。
境内には地神宮塔等の石仏像が祀られていた。地神宮塔には天保10年(1839年)の年号が刻まれている。
 

大蔵(おおぞう)に入る。
僅かに左にカーブした道沿いに巨木の屋敷林が植えられ長屋門が備わった旧家を見つける。長屋門があることは歴史のある家なのだろう。
 
この家のまえに直線に延長した細い道が旧道のようだが、暫く行くと日産車体の工場に突き当たってしまう。


今回は、旧道には行かず、丸子・中山・茅ヶ崎線で岡田に入る。
十三塚という室町時代に造られた供養塚がある。

寒川町商工会の案内によると、
丸子・中山・茅ヶ崎線に沿って点在する塚で、現在は5基ほどが残っていす。中でも最大の規模が、小谷交差点南側にある「おこり塚」と呼ばれるもので、塚を盗掘した者が瘧(おこり)という病にかかったといういい伝えがある。(瘧という病は疫病で、マラリアの一種)

次は安楽寺西側にたっている中原街道案内板に向かう。

先ほどの日産工機に突き当たった旧道の延長した旧道が安楽寺の西側を通っていることが案内板に書かれている。この先は、梶原景時の館跡まで直線で延びていたようだ。
 

本日は安楽寺で終了し寒川駅に向う。
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