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葉山町・長柄の石仏群をゆく

2011-10-21 16:45:51 | 歴史散策
葉山町・長柄
長柄は鎌倉時代の長江氏の足跡を残す山深い静かな谷戸であったと紹介されている。
長江氏とは『歌舞伎十八番之内 暫』で主役となる鎌倉権五郎景政を祖とする一族で、長江義景は源頼朝が石橋山の挙兵に参加、鎌倉幕府創建の功臣である。

スタートは横須賀から逗子・鎌倉に抜ける県道134号と逗葉新道が交差する京浜バス停「長柄交差点」である。
「はやままちづくり協会」の長柄の絵地図を片手に、134号から脇道に入ると直ぐ左手に庚申塔が見える。


笠原商店前の庚申塔
1669(寛文9)年、舟形。
「相州三浦郡長江郷下村善男子」という文字と三猿を刻む。町で2番目に古い庚申塔。そばを走る道がかつては逗子に通ずる古道であった伝えられる。




長運寺
真言宗。御霊神社の別当寺として永正年間(1504~20)建立。三浦大介の命名と伝わる。町文化財となっている不動明王が本尊。他に「地蔵十王図」11副があるが、これは江戸時代後期の十王の信仰を1尊1副に描き、地蔵菩薩を含めて11副からねる。保存状態もよく8月のお盆時期に公開されている。湘南七福神(布袋尊)でもあり、三浦不動尊第25番札所。

             

三浦大介義明は平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将で三浦半島一帯に勢力を保持していた。
源頼朝が挙兵に呼応したが、畠山重忠の軍勢と合戦となり戦死した(衣笠城合戦)。享年89歳。なお、敵方の重忠の母は義明の娘であり、重忠は孫にあたった。そのため重忠は合戦は本意ではなかったが、役職がら戦わざるを得なかった。


逗葉新道を高架橋で渡りそのまま側道には下りずに長い階段を長柄小学校へと上がってゆく。
小学生が通る時間帯は賑やかなのかも知れぬがその時間帯を外すと静かな通りであり、初めて歩くところなので少々不気味さえ感ずる。
吾妻社は長い階段を上がり切った左手にあった。右手内は小学校の門に通ずる小トンネルがある。校庭の角を潜って校門に入るようだ。



吾妻社(あずましゃ)
各地の吾妻社は日本武尊の東征の道筋に祀られていると伝えられており、相模国から上総国に向かう折に鎌倉、逗子、葉山を通り走水に出られたと思われる。
社は長柄小学校建設の折ここに移された。
尊は妃を偲んで「吾妻はや」と嘆き東の国をそれ以降「あずま」と呼んだという。

              


大神宮

 

昔は大事に祀られていたであろうが宅地化で隅に押しやられた感じである。一緒に土地整備で移転してまとめたと思われる庚申塔や小祠が祀られていた。


御霊神社(ごりょうじんじゃ)
長江太郎義景が長江に居を構えた後、祖父鎌倉権五郎景政を祀ったと伝えられる。伝説の武神にあやかる1月の御備射(おびしゃ)祭の弓射式が今に続く。

   

境内には日清・日露戦争時の司令官東郷平八郎の記念碑が置かれていた。記念碑には伯爵の称号が刻まれているが、東郷は薩摩藩士時代には薩英戦争に、戊辰戦争では新潟・箱館に従軍している。西郷隆盛の西南戦争でも日本にいたら薩摩軍に馳せ参じたろうというし、軍歴も50年、根っからの軍人であった印象だ。
1934(昭和9)年86歳で死去。国葬が執り行われ、神格化に本人は反対されたが、東郷神社、東郷寺で祀られる。



福厳寺(ふくごんじ)
臨済宗。長江太郎義景の菩提寺と伝えられる。
1348(貞和4)年柏巌可禅(はくがんかぜん)が開山。心満尼開基。
鎌倉尼五山太平寺住職の隠栖(いんせい)所(隠居所のこと)ともいわれる。

 

三門(山門)は2階建てとなっており、2階は鐘楼になっていた。これを鐘門というそうで、戸塚宿にある高松寺
にも鐘門があった。但し、高松寺は突き棒が外から見える形態であった。


福厳寺前の川伝いの小道を進み、新しい住宅が両脇に数件建ち並ぶ道を突き進むと急に草ぼうぼうの畑道となる。地図通り畑道を疑心暗鬼で進んでいった。
あとでわかったのだが、ここが殿ヶ谷と呼ぶ谷戸であった。


              

少々進むと左手に折れた畑道の正面に「長江義景大明神」が見えた。


長江義景大明神
殿ヶ谷と呼ぶ棚田のある谷戸の奥に社殿がある。
その社殿の裏側にやぐらがあり長江氏三代(義景、明義、義重)の墓と伝わる五輪塔が3基ある。
義重は三浦氏一族が全滅の際に討死し、その後にこの塔が建てられてといわれている。

 

一時、タイムスリップして昔の谷戸にある隠し田に入り込んだような光景を感じた。
黒い穂の稲が一層古き時代の世界を醸し出していた感じもする。


再び新しい住宅が建ち並ぶ世界に戻る。
そこから「長徳寺跡」に向かうが、道を一歩外れて昔から使われていたのではという軽自動車がやっと通るくらいの道を進んだ。
道はくねくねと続き、カギの手に旧家が現れた。


 

門の前には太い樹が植わっていた。


再びコース道に戻り暫く行くと右手に庚申塔群が現れた。
こんなに多くの庚申塔が地図に出ていたかなと確認するとここが「長福寺跡」の入口であるようだ。
確認しなかったら通り過ぎてしまっていた。庚申塔の御利益である。
脇には「畠山重忠御守護地蔵尊」と刻んだ板碑もある。
少々「長福寺跡」への道に入ると倒木が覆いかぶさったコンクリート製の小祠があった。中には馬頭観世音と牛
明神が祀られていた。牛明神とはどんな神様なのだろう不明だ。


 


長福寺跡

              

地蔵と一緒に僧侶の墓・無縫塔(むほうとう)も並んでいる長福寺跡である。


上の里 子育地蔵尊

              

子育地蔵尊は仙光寺の手前に立っていた。


仙光院
真言宗。永正年間(1504~20)長覚が開基と伝わる。1913(大正2)年再建。
三浦不動尊第24番札所。本尊十一面観音。
廃寺となった長徳寺の本尊畠山地蔵(町文化財)は2003(平成15)年、この寺に移された。
この地蔵は重忠が衣笠城を攻撃したときに戦勝祈願として建立されたと伝えれれる。等身大、寄木造玉眼入りで全身漆箔で鎌倉中期の運渓作(運慶と同一とも)といわれる。国宝級の像ではあるが、3度の修理の際全体に白ペンキを塗るという失態をしたことがある。

              

  

堂内にはふくよかな畠山地蔵が安置されている。表面は現代に化粧されたため古めかしさは当然感じないが、神々しさのようなものを感ずる。
畠山重忠ゆかりの史跡は各地に残っているが、重忠は鎌倉幕府の創建に尽くし、智・仁・勇を兼ねそろえた武将といわれる。鎌倉幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、だまし討ちにあい武蔵国二俣川(横浜市旭区)で討ち死にした。享年42歳。その戦いは数万対130騎という大差で、今も万騎ヶ原(まきがはら)と地名が残っている。



長柄上の庚申塔
右端の庚申塔に1688(元禄元年)の銘。一面六臂(いちめんろっぴ・ひとつの顔と六つの腕をもつ)の青面(しょうめん)金剛と、日、月、三猿などを刻む。

              



本立寺(ほんりゅうじ)日蓮宗。1624(寛永元)年創建と伝えられるが、現在の建物は火災後1900(明治33)年に再建された。

              


諏訪神社

     

急な石段を上がると、参道の石畳は苔むしていた。あまり足を運ばれていないようだ。


次の「道標を兼ねた石標」に行くには「長柄上の庚申塔」まで戻り「上坂」を上がってゆく。
「上坂」は段差の低い緩やかな傾斜の坂である。この坂を通学に使っている中学生は「シンデレラ階段」と呼んでいるそうだ。



上坂
山に囲まれた長柄地区から逗子方面に抜ける古道。

              

周りを木々に覆われた長い坂を上がり切るとそこは区画整理された新興住宅地であった。
くねくねの道を生活手段に使用している社会から一変して世界が変わったように感じた。向かいの山には先ほど言った小学校も見える。


 
道標を兼ねた石標
右かながわ道、左かまくら道、中央に馬頭観世音と刻む(明治8)年設置の塔。もともとは尾根の岐路にあったが造成時に移設された。

              


再びくねくねの道の世界に「上坂」とは違い、はじめに訪れた「長運寺」に通じる長い階段を下りて行き、スタートのバス停「長柄交差点」に戻った。2時間半の手ごろな散策コースであった。

   

今回の散策コースは葉山町の「健康の散歩道」にもなっており、案内板や道路にはマーカーが埋め込まれていた。
              

参考した絵地図は葉山町図書館(京急バス向原下車)2階のはやままちづくり協会で販売している。葉山町に関する写真や資料などの掲示もされている。

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