モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ

2019-05-21 11:35:19 | バラ
芳しいバラの季節になった。
そこで、多少時間ができたので、これまで書き散らかしてきたバラのシリーズをまとめてみようと思い着手した。リンクを使いシリーズが分かりやすく構成できるといいのだが・・・・・
※ このシリーズは、2008年11月20日―2009年1月8日までブログに掲載した原稿に一部手を入れ編集をした。

序 バラ事始めのいいわけ
バラの歴史は古く、紀元前5000年頃のエジプトで栽培されていたようだ。
現代のバラとは異なるが、花の美しさ、芳香のよさで王侯貴族に愛された花でもある。

バラの歴史の転換点には有名な女性がかかわってくる。
クレオパトラ、マリーアントワネット、ナポレオンの后ジョゼフィーヌなどたくさんある。特に、バラの世界では、ジョゼフィーヌ以前と以後では大きく異なる。

ジョゼフィーヌを中心に、Beforeジョゼフィーヌの“オールドローズの歴史”とAfter ジョゼフィーヌの“ハイブリッド誕生の歴史”を、
世にバラマニアのための様々な書物・データなどがあるなかで、バラがちょっと気になるなと思っているヒト向けに(自分のレベルだが)再整理をしてみる。

そのスタートはこの花しかないだろう。

(写真) ダイアナ プリンセス オブ ウェールズの花
 

1997年8月31日に痛ましい事故でダイアナ元英国皇太子妃が亡くなった。
そのメモリアルと彼女がかかわったチャリティ資金を得るために、1999年にアメリカJ&P社で作出されたのが、ダイアナ プリンセス オブ ウェールズだ。

J&P社は、ジャクソン・アンド・パーキングといいアメリカに於ける有名な育種会社で、バラの新種開発と通信販売という新しい手法で20世紀初頭から成長した会社だ。

ダイアナ プリンセス オブ ウェールズは、四季咲きでクリーム地の花弁にうっすらとピンクが載りさらに朱色がまし香りも素晴らしいハイブリッド・ティー(HT)だ。

(写真) ダイアナ プリンセス オブ ウェールズの花
 

ダイアナ プリンセス オブ ウェールズ(Diana, Princess of Wales) 
・ 系統:HT(ハイブリッド・ティー)
・ 作出:アメリカ、J&P社(ジャクソン・アンド・パーキング)、1999年
・ 花色:クリーム地に薄いピンク
・ 咲き方:四季咲き
・ 樹高:150cm

補 足
とげのあるバラ、角が出ているときのかみさんからは遠ざかろうと思っていたが今は懐かしい。不帰になって初めて気づくこともある。
しかし、バラの歴史だけはおさえておきたいと思い始め、小さく始めてみることにした。
といっても、自ら作るのではなく借景に徹しようと思う。
わが庭でも3種ほどあるが、これを増やすことはせずセージを増やすことに専念し、バラ園やよそ様の庭の美しいバラの記録を撮らせてもらいバラの物語りを残させてもらう。当面の借景先は、野田市清水公園にある花ファンタジアのバラ園である。

 バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ

日本で愛されている花の代表は、カーネーション・キク・バラと言ってもよい。
キクは一度取り上げたが、原産地と原種がわからないほど雑種化され園芸品種が増えている。

バラも同じようで、いま手にしている豊富な色彩、花形などの美しいバラは園芸品種だ。
その園芸品種の始まりからバラストーリーをスタートする。

1813年、パリから西に20㎞のところにあるマルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生した。ここからバラの世界は大きく変わることになる。世界で初めて人工交配による品種改良が行われ、幾多の新品種がここマルメゾンで育成された。
ジョゼフィーヌがバラの歴史を変えることになる。

(写真)マルメゾン城
 

マルメゾンの館は、ナポレオンとその妻ジョゼフィーヌが1799年に購入した。あまりにも高額でナポレオンには払えなかったが、しかし、ジョゼフィーヌは諦めなかった。“憧れの英国キューガーデンのような自然庭園を作りたい”これがジョゼフィーヌの動機で、ナポレオンの尻をたたいて手に入れてしまった。

ナポレオンの出世とともに、世界中から高価なバラの苗木を集め、ナポレオンと離婚した1809年から彼女が死亡する1814年までの間ここに住みバラ園をつくった。
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めたこの当時の全てのバラに近い250種があったというから驚きだ。

マルメゾンの庭園に使ったお金の総額は国家予算レベル??
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めた250種があったというが、一体いくらぐらいお金を使ったのだろうか? というのが素朴な疑問としてわいてくる。

ジョゼフィーヌが、遅れていたフランスのバラ育種産業をイギリスと並ぶように育てたくらいだから相当使ったようだ。これを趣味・贅沢・浪費などというが、産業を振興した政策コストでもあり、最近の2兆円バラマキとはだいぶ違う。これは浪費でも政策コストでもなく無駄という。

この時代のヨーロッパNo1の育種業者は、イギリスのリー&ケネディ商会で、マルメゾン庭園のバラはここから仕入れていた。
1806年にイギリスとヨーロッパ大陸との通商を封じ込めるために“大陸封鎖令”をナポレオンが出した。
イギリスと通商が出来なくて困るのはジョゼフィーヌもしかりで、特権を使い抜け道を作った。
それは、ベルギーのジョゼフ・パルメンティエ(Louis-Joseph-Ghislain Parmentier 1782‐1847)を経由して苗木を手に入れたようだ。植物へのほとばしる情熱をナポレオンですらとめることが出来なかった。

マルメゾンのバラ園には、赤バラのガリカ、ダマスク、白バラのアルバ、日本産のハマナスなどオールドローズが集積しただけでなく、ジョゼフィーヌはデメス(Jacques-Louis Descemet 1761‐1839)、元郵便局員のデュポン(André Du Pont 1756-1817)など多くの園芸家を支援し、より美しいバラづくりに打ち込ませたという。

これらの費用は、一説によると国家財政の三分の一にのぼる負債を残したともいわれるが、ナポレオンがやった戦争ほどお金がかかるものはないので一説とするが、かなりのものをバラのために使ったことは間違いない。
マリーアントワネットは1793年に断頭台に消えていったが、無聊を慰める庭造り・バラの収集は、マリーアントワネットから引き継いだのだろう。

ジョゼフィーヌと“リー&ケネディ商会”
ジョゼフィーヌ御用達の育種業者は、18世紀ヨーロッパNo1の育種業者といわれたリー&ケネディ商会であり、ジェームズ・リー(James Lee 1715–1795)と、ルイス・ケネディ(Lewis Kennedy、1721-1782)が1745年に設立した。

18世紀のイギリスは産業革命が進行した世紀だが、一方で、世界の花卉植物が愉しめる時代でもあり、王立キュー植物園が始めて海外に派遣したプラントハンターであるフランシス・マッソンのようなプラントハンターと、採取してきた植物を育成栽培する育種業者(nurseryman)が勃興活躍した。

ジョゼフィーヌと交流があったのは、2代目のジェームズ・リー(1754-1824)で、南アフリカでのプラントハンティングのベンチャービジネスに共同出資もしていたようだ。
ジョゼフィーヌはバラだけでなく、南アフリカケープ地方のヒースマニアでもあり、1803年からのジェームズ・ニーヴン(1774-1827)の南アフリカケープ地方でのプラントハンティングに、ジェームズ・リーなどと共同出資し、その成果をヒースなどの新種という現物でも受け取っていた。ジョゼフィーヌのヒースの収集は、1810年頃には132種まで増えたという。

この2代目のジェームズ・リーは交際範囲が広く、アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソン、さらには、なんとフランシス・マッソンとも相当親密な交際をしていたようだ。

リー&ケネディ商会がNo1といわれたのは、顧客の質だけでなく、世界的な花卉植物の仕入れが可能だから出来上がった。そこには正式ルートだけでなく裏ルートも存在したようで、ジェームズ・リーとマッソンの交際も種子・球根などの横流しとしで疑われた。
マッソンとジョゼフィーヌの接点は確認できていないが、ケープ地方のヒースを採取した第一人者はマッソンであり、ジョゼフィーヌにとっては、憧れのヒトであったかもわからない。

いつの時代でも趣味という領域は意外な人物を結びつけ、その先にさらに意外な人物が連なるという面白いネットワークをつくる。
善意の人たちのネットワークは、意外な力を発揮するが、悪意を持ったヒトがかかわると食い物にされるもろさがある。ジョゼフィーヌ、マッソンは食い物にされる善人のようだが、ジェームズ・リーはどうだったのだろう?
この商会は、卓越した個人技でNo1を構築したため、卓越した個人が消えた1899年に154年の歴史を閉じた。

ジョゼフィーヌの履歴書
ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814)は、1804年にナポレオンが帝位に就いたのでフランスの皇后になった。

彼女の生い立ちは、フランス出身かとばかり思っていたが驚いたことにコロンブスが発見しコロンブスにして“世界で最も美しいところ”と言わしめたカリブ海に浮かぶマルチニック島(現在はフランスの海外県)の貴族の家に生まれた。

1779年16歳のときにパリに出てきて、植民地長官の息子アレクサンドルと結婚したが1783年に離婚。
1794年にアレクサンドルが革命政府に処刑されてからナポレオンと知り合い、1796年に結婚した。
ナポレオンと結婚しても、遊び癖は直らずパリでは有名な遊び人だったようだ。

ほんの一例が、1722年に完成したエリゼ宮は、フランス革命の激動を乗り越える際にダンスホールとゲームセンターになった時期がある。
ルイ16世のいとこにあたるルイーズ=バチルド・ドルレアン公爵夫人が生活苦に陥ったため1階部分を貸し出したためである。
このダンスホールでひときわセクシーで目立つた美人がいた。エジプト、イタリアなどに遠征しているナポレオンの妻ジョゼフィーヌで、彼女が来るパーティやダンスホールなどは商売として成功するといわれるほどの有名人で相当な遊び人だったようだ。
エリゼ宮は今では国家元首が住む宮殿となっているが、最初にここに住んだ国家元首はナポレオンだった。
こんなジョゼフィーヌが、ナポレオンとの離婚後は、或いは、マルメゾンの館を買ってからは、庭造りと植物学にのめりこむ。

(写真)マリールイーズの花
 

そして、1813年、マルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生し、このバラに『マリー・ルイーズ』と命名し、別れた夫の再婚相手マリー・ルイーズに捧げた。
ナポレオンが再婚したマリー・ルイズは、神聖ローマ帝国フランツ二世の娘であり、マリーアントワネットの姪に当たる。

ハイブリッド品種の先駆け『マリー・ルイーズ』が誕生した1813年は、ナポレオンがロシア進攻に失敗し翌年退位、エルバ島に島流しとなる時期であり、また、ジョゼフィーヌも翌年に病気で亡くなる。

フランス革命があったからこそカリブ海の一植民地の娘がフランスの皇后になれることが出来、離婚後は、庭造りと植物学に熱中しバラの歴史に革命をもたらした。
このエネルギーは何処から来ていたのだろう?

ジョゼフィーヌの本名は、マリー・ジョゼフ・ローズだった。
ナポレオンがフランス風に変えた“ジョゼフィーヌ”から“ジョゼフ・ローズ”に戻ったのだろうか?
激動期にマルメゾンで誕生したバラは、大きなうねりをつくり新しい血筋として未来に向かっていった。
彼女の名前には "ローズ”があり、そのバラが歴史に足跡を残した。

<追加・補足>
ジョゼフィーヌとナポレオンとは、確率を超えた運命的な出会いだった。

ジョゼフィーヌ、ナポレオンの生い立ちを見ると歴史の偶然と必然にぶち当たる。
歴史に“ If ”ということはないが、ちょっとした手違いが世界の歴史を大きく変えたかもわからない。それが二人の誕生日にあった。

ナポレオンは、1769年8月15日コルシカ島の最下級貴族の家に生まれた。
このコルシカ島がジェノバ共和国からフランスに割譲されたのは、ナポレオンが生まれる1年3ヶ月前だった。
しかし、コルシカ島の住民はフランスの支配を嫌い、1年以上も反乱をした。
父シャルル・ボナパルト、母レティツィアもナポレオンをお腹に宿し反乱に加担して戦ったという。そして、実質的にフランス領を受け入れたのは、ナポレオンが生まれる直前のことというからかなりギリギリでフランス国籍を取得したことになる。
ナポレオンがイタリア人だったらヨーロッパの歴史・地図は今とは大きく異なっていただろう。

一方、ジョゼフィーヌは、1763年6月23日カリブ海に浮かぶマルチニック島で生まれた。
祖父がナポレオン家同様にフランスの最下級の貴族であり、新天地を求めマルチニック島に移住した。
この島は、コロンブスが発見し“世界で最も美しい”といわれたところで、現在はフランスの海外県の一つだが、フランスとイギリスがこの島の領有を争っていて、イギリスに占領されたマルチニック島がパリ条約でカナダと交換でフランス領に戻ってきたのは1763年2月10日だった。
ジョゼフィーヌが生まれる4ヶ月前だった。
1年後には再びイギリスに占領されるので、これもきわどいところでフランス国籍を取得したことになる。

こんなきわどい出生をした二人は、歴史を書き換える大革命をすることになる。
ナポレオンは政治の世界で、ジョゼフィーヌは植物学・バラの世界で。
 
(写真)皇后ジョゼフィーヌ


ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園の夢
『庭に外国の植物がどんどん増えていくのは大きな喜び、マルメゾンが植物栽培のよきお手本となり全国諸県にとってマルメゾンが豊かさの源泉になって欲しい。南方や北アメリカの樹木を育てているのはこのためで、10年後には私の苗床から出た珍しい植物を一揃い持つようになることを願っている。』
(出典:『ジョゼフィーヌ』安藤正勝 白水社)

ジョゼフィーヌは本気だった。ということがよくわかる。
マリーアントワネット同様に結構浪費したようだが、下級貴族から皇后になっただけにお金の価値と相場を知っていて、“殖産興業”をも知っていたようだ。

「ジョゼフィーヌ。用心するがよい。ある夜、ドアを蹴破り、私がいるぞ!」
というナポレオンからの警告があったのは、1796年の頃であり、遊び人からここまで変身したジョゼフィーヌはまるで別人となったようだ。
「身持ちがよくなった、思慮深くなった、こんなジョゼフィーヌはジョゼフィーヌではない」
と言い切って最後の文章を書いたのは『ナポレオンとジョゼフィーヌ』の作者ジャック・ジャンサンだった。

ナポレオンはジョゼフィーヌと結婚したがゆえにイタリア戦争に勝利したようであり彼に運をもたらしたことは間違いなさそうだ。
だが、離婚によりナポレオンは、自分の血筋を求めるという同族経営を目指し破綻する。

お払い箱されたジョゼフィーヌは、バラの新しい血筋を作り出す出発点に立ちバラたちに運を分け与えた。
ナポレオンも一緒にバラを栽培していたら違った世界が開けただろう。

歴史に“ If ”はないが、相当の低い確率で運命的に二人は出会い、男の革命と女の革命を行った。
ナポレオンは、革命を旧体制化して守ろうとしたので破綻し、ジョゼフィーヌは自己改革に追い込まれたのでバラにたどり着いた。 
という男と女の革命の結末だったのだろうか?

余 談
20世紀までは、偉大な人たちが歴史を構成してきた。ナポレオン、ジョゼフィーヌたちのように。
記録され、発信されるメディアが希少であり・高価であるため、捨てるものを多くつくらなければならなかったことも一因としてある。
現在は、未来に残るかどうかは別として、記録され、発信できる環境にあり “私の歴史” を残すことが可能になった。
きっと男と女の物語が数多く記録されているのだろう。

【バラシリーズのリンク集】
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
4:プレ・モダンローズの系譜ー1

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