人間関係で悩み続ける大学生が感じること

人との関係や自分との関係において、
人一倍、生きにくいと感じたり、
辛い・苦しいと思ってしまうことの多い人々へ

冬休みに思うこと

2006年12月29日 01時26分39秒 | 人間関係

大学が冬休みに入ってから、もっぱらバイトばかりしている。
これまで、サークル活動が忙しくてほとんどバイトが出来なくてお金が貯められなかったから、冬休みに入って、時間に余裕が出来てバイトがたくさん出来ることがとても助かる。
ただ、本当は、バイト以上に優先してやらなければいけないことがある。
それは、就活と簿記の勉強。

就活の方は、まず年内に履歴書を書き上げなければいけないから、一度書き上げて大学の就職課に添削をお願いしたら、すごいボロボロに言われて以来、全く手付かずの状態。
1週間前のセミナーを途中で逃げ出して以来、もう知らない人と会うのが嫌で仕方なくて、会社セミナー・説明会の情報を全く探す気が起きず放りっぱなし。

就活の中でもやらなければいけないことはたくさんあるのだけれど、現在の自分が特にやらなければいけないことは自己分析。
だから自己分析の本をこの前買ってきたけれど、まだ「積ん読」状態で1ページも開いていない。
今日は「就職活動のやり方」みたいな本を読んでいて、もう自分が就ける職種は何一つないなって絶望的な気持ちになって、とても憂鬱になった。
今日、思ったことが、人というのは「遠視」な生き物だなということ。
就職とか将来とか全然考えなくてもいい時には、「ああいう仕事はいいな」「あの企業に入りたいな」と、あれこれと考えられる。遠い先のことだから、ものすごく自由に考えられる。遠視で、遠くに存在すればすることほど、その事実がしっかりと見えている。
だけど、近づいてくると、すっかりぼやけてくる。
「自分はこれでいいのか」「情報が多すぎて何が正しいか判断出来ない」と、近くにせまってくると事実を把握することが、困難になってくる。
遠視で、近くの物事がうまく捉えることが出来なくなる。

簿記の勉強だって、やらなければいけないということは頭では理解している。
けれど、冬休みに入ってから、何にも手を付けていない。
「バイトが忙しい」という理由では決してない。
「バイト」に時間を割かれることはあれど、それだけで一日の全てが取られるわけでは絶対にない。
だけど、自分は「バイトをしている」ことで、何か自己満足を感じて、やらなければいけない事から逃げている気がする。
「今日はバイトだったから勉強はいいやー」という気持ちにすぐになってしまう。
バイトをすることで、それで一日の責任が果たされたと錯覚してしまっている。

僕はよく「忙しい」と言う。自分でも「忙しいな」と思う時がある。
だけど、実際には、今はそこまで忙しくはない。
しかし、冬休みが終わって大学が始まると、忙しくなってしまう。
何かおかしいと思う。
時間の使い方次第で何とでも解決出来る忙しさなのに、僕はそれが出来ていない。
何かおかしいな。
実際は自分自身のタイムマネジメント能力が未熟であることが問題なのに、「忙しい」と自分に言い聞かせることで、「忙しい」という状況を自ら無意識の範ちゅうで作り出していくことで、「自分は忙しい。だから頑張っている」と、何とか自分のプライドを保っているような気がする。
忙しくなかったらそれだけでもうダメ人間のような、そんな思いが常に潜在的に存在しているような気がする。

どうして自分にはそういう意識が常にあるのか。


物事は刹那的

2006年12月27日 01時39分57秒 | 人間関係
人間にとって一番幸せなことは、ちゃんと自分の感情を吐き出せることだと思う。
吐き出したい気持ちや、何かを伝えたい感情を抱いた時に、ちゃんと自分の言葉で言うことが出来て、ちゃんとそれを受け止めてくれる人がいる環境ならば、どんなことがあろうともとりあえず、幸せに生きていかれると思う。

何でそういう風に思ったのかと言うと、大学に入ってから、その両方を体験したような気がするから。

自分の感じていることを思うように言葉に出来なかったり、またはうまく表現出来たとしても、イマイチ自分が思うほど相手には通じていなかったり。また、理由は分からないけれど、どうしても自分の思うままに、感じるままに、人前で振舞うことが出来ない環境だったり。

自分にとって苦しいな、辛いなって思う環境がある。
そのことを自分の性格のせいだとは思いたくないから、「環境が悪い、あの人がむかつくから、あいつがいなければ」と、責任を自分以外の周囲に持っていくことが、無意識のうちにある。
また、「やっぱり自分がダメだから…もっと積極的になれないから…」と、謙虚さを装って必要以上に自己嫌悪に陥って、自分自身のせいにしようとする時もある。

けれど、そうじゃない。
自分が憂鬱になってしまう原因はたくさん、ある。
環境「のみ」が悪かったり、自分「のみ」に責任が存在するからではない。
原因は複数ある。
環境が悪い部分もあるし、自分が悪い部分もある。
嫌いな人がいるからという部分もあるし、嫌いな人に対するストレスのたまらない接し方を身につけられていない自分の部分にも責任がある。原因は複雑に絡み合っている。
一つだけでは決して、ない。
憂鬱になってしまいやすい人って、心が弱い人って、物事を広く見ることが出来ていない人が多いと思った。
視野が狭い。
短期的にしか判断出来ない。
そういう他人を客観的に見ることが出来た時に初めて、「もしかして自分はこういう風なのか」と実感した。
「他人のふり見て我がふりなおせ」というわけではないけれど、本当にその通りだと思った。

心の耐久度

2006年12月24日 00時42分33秒 | 人間関係

昨日は就活で、(株)インテリジェンスのセミナーに参加した。
午前と午後の2部構成に分かれていて、2つとも内容が異なるので、僕は両方ともに申し込み予約をしておいた。
午前は『「しゅうかつ」を知ろう』というテーマのセミナーで、内定者と参加学生とで、座談会形式で行う質疑応答が中心のディスカッション的なものだった。
会場に着くと早速ランダムにグループ分けされて、最初は簡単に自己紹介。

『今日はたくさんの就活友達を作りに来ましたぁ~』って言う女の子がいて、何かものすごく嫌な気持ちになった。
何でか分からないけど、腹が立って腹が立ってしょうがなかった。
だけどきっと、絶対、僕自身の中に何か問題があるから、刺激されると苦しくて辛くて仕方がないものがあるから、「腹が立つ」ことで自分が自分自身に対して何らかの意思表示をしているのだと思った。
『今日はたくさんの就活友達を作りに来ましたぁ~』って言われることで、相手はそんなこと考えてもいないのに、もう瞬間的に僕は『そうやって「自分は社交的なんだぞ、誰とでも仲良くなれるんだぞ」っていう態度を示して、自分の人間的大きさを見せびらかそうとしているんだろう!
』と、卑屈な気持ちになる。
女の子はそんな意識なんて微塵も持っていないはずなのに、僕は反射的に、自動的に、そういう風に考えてしまう。

きっとそれは、『誰とでも仲良くなれること』や『社交的であること』が最も価値のあることと僕自身が一番感じていることだから、そう捉えて感じてしまうのだと思う。だけどそれが欠けている自分自身は価値がないことになっちゃって、それが欠けていることは確かなのに、そのことを認めたくない、という自分の中で心の葛藤があるから、そういう風に捉えてしまうのだと思う。
女の子にはそんなつもりは全くなくて、本位で『就活友達が作りたい』と言っているだけなのに、それを僕が聞くと、僕の中にあるそういう心の問題や葛藤のフィルターを通して、『自分の大きさを示したいんだろう!』という、卑屈でねじまがった咀嚼をしてしまう。
『自分の大きさを示したい』のは本当は、自分自身が思っていること。

相手に対して何故か分からないけどイライラしたり不快な気持ちになったりしてしまう時って、大抵、自分の中のそういう心の葛藤に触れられてしまっている時だ。
理由は分からないけれど、他人同士が楽しそうにしてるとどうしようもなく不機嫌になったりしてしまうのは、まぎれもなくそういうことだ。
理由は分からないけれど、目線を合わせてもらえないとどうしようもなく憂鬱になってしまうのは、まぎれもなくそういうことだ。
理由は分からないけれど、身近な人が何かに対して一生懸命頑張っている姿を見るとどうしようもなく切なくて苦しくてたまらなくなってしまう気持ちは、まぎれもなくそういうことだ。

それで結局、もう午前のセミナーだけですごく嫌な気持ちで憂鬱で満たされてしまって、もう午後のセミナーには行くことが出来ず、そのまま名古屋駅の大きな本屋さんでずっと過ごしてた。
こういう心の体力のなさが、心の強度の耐久度の低さが、人間関係においてもだけど、就活においても、やっぱり障害となってくる。
それでいつもうまくいかなくなる。
もう分かっている。
もう先は見えている。
どうなるか、もう分かっている。
あーあ。


だんだん分かる

2006年12月20日 01時49分03秒 | 人間関係

今日は就職活動で、セブンイレブンのセミナーに参加してきた。
会社の説明会というわけではなく、参加学生がグループを組んで、議論や課題に取り組む「グループワーク」が主のイベントだった。

日立、武富士、JT…こういうセミナーには、これまで何度か参加してきた。
けれど、やっぱりグループディスカッション的なものはいつも苦手だ。いつもとっても苦痛だ。
別に就職活動を通して初めて知るわけではないけれど、グループでの活動を通して、改めて自分がどういう人間かということを再認識する。
自分がどれほどダメな人間かを知る。
就職活動でセミナーや説明会に参加すればするほど、世の中の企業が求めるものに、自分はいつも一致しないということを実感して、いつもいつも憂鬱になる。

これまでの大学生活で、サークルを通して、ゼミを通して、バイトを通して、自分がどういう性格の人間で、どういう価値観を持って生きている人間かということはもう、嫌というほど知った。
だから、現在の就職活動を通して初めて知る「ダメな自分・認めたくない自分」というわけでもない。
『自分はこういう場だと、こういうことを感じて、自然とこういう風な態度を取って、こういう風な結果になるだろうなあ』ということが大抵想像出来て、決まってその通りになる。
もう、自分の行動予測が容易につくという感じ。
だから、就職活動の度に憂鬱になって、心が不安定になることが多い。

説明会で、業界の動向や企業の概要を聞くことは、自分の視野が広がっていくようで、本当に楽しい。
けれど、自分が弱いところが刺激されてしまうような場面になると、大抵落ち込んでしょうがなくなる。
それってつまり、自分の弱いところを、自分のずるいところを、自分の卑怯なところを、自分の受け入れたくないところを、まだまだ認められていない証拠なのかな。
うーん、自分はやっぱり、まだ絶対に22歳の人間ではない気がする。


ずるさが心を苦しめている

2006年12月19日 00時44分02秒 | 人間関係

やっぱり自分はずるい人間だ。
いつも自分の意思に対して責任がない。
他人に対して、「○○して欲しい」とか、「○○したい」というような欲求がある。
だけど、そのことを直接示そうとはしない。

彼女に会いたいと思う時がある。
だけど絶対に自分から『会いたい』とは言わない。
『会いたい』って言って、それでもし断られたら、ものすごくショックを受けるから。
だから、それとなく『いま何してるの?』とか、そういう風に「ただヒマだからメールしてみた」的なまわりくどい態度を取って、何となく相手の方から「会おうか」と言ってくれるのを待っている。

人と接したいと思う時がある。
だけど絶対に自分の方から『ごはん食べよう』とか『遊ぼう』とかは言わない。
相手が心の調子が悪くて不機嫌だったりしたら嫌だし、普段は自らそんな態度を取らないのに、いきなり自分からそんな態度を取ったら『何だコイツ』って、不信がられるのが嫌だから。

就職活動の時、自分から社員の人へ話しかけたりすることが出来ず、いつも社員や他の学生から話しかけられることを無意識のうちに待っている。

自分の欲求があるのに、それを絶対に表に出さない。出せない。
「謙虚」と言ったら聞こえはいいかも知れないけれど、そんなことは全然ない。
むしろ、自分自身の気持ちに対して無責任な、そしてなおかつ他人に対して非常に依存的な、精神的にとても未熟な心の在り方だ。
自分自身の気持ちによって自分の心の安定を図ることが出来ていなくて、いつも、他人の感情の良し悪しが、自分の感情の良し悪しへとつながってしまっている。
自分自身の感情のあり方が、他人の感情のそれに依存してしまっている。

拒否されたら嫌だ、傷付きたくない、憂鬱になりたくない、という気持ちがいつもまず前提に存在していて、そのことが物事を判断する基準になっていて、だから、いつもいつも受動的で、自分を守ることが一番になっている、ずるい自分がいる。

他人の言動や行動に、自分自身の心の安定が依存してしまっている以上、ちょっとしたことでものすごく大きく心が揺れ動いて、簡単に憂鬱になったり、簡単にイライラしてしょうがなくなる。
そんな生き方をしていて一番苦しいのは、何よりも自分自身のはずだ。
だから、やっぱり精神的にまだまだ未熟なところが多いと思う。


自分のダメなところ

2006年12月16日 01時09分42秒 | 人間関係

今日はカウンセリングだった。
「しんじくんはとっても卑怯で、ずるい性格をしているんだねえ」と、先生に言われ続けた。
最初はそんなことないってずっと思って、『そんなことはないです』と言い続けたけど、本当は、「そんなことない」んじゃなくて、「そんなことがあってたまるか」という、自分の認めたくない部分を受け入れまいとしているのが現実の自分の姿なのではないか、と思えてきた。

自分がステージに立つサークルの定期演奏会に、父親に見に来て欲しかった。
『演奏会はいつあるんだ?』と父親に以前聞かれていたから、これはもうてっきり来てくれるものだとずっと思っていた。
だけど結局来なかった。
それで僕はすごく腹が立って、憂鬱で、嫌な気持ちになった。
来てくれるような態度を取っていたのに。
それなのに来なかった。
だから、僕は腹が立って、それ以来父親に対してわざとそっけない態度を取るようにしてしまっていた。
「僕がこんなに腹が立っているのは何故か知っているか?」という自分の憂鬱になった気持ちを汲み取ってもらおうとしている、間接的すぎる態度。

そしたら先生に、「しんじくんは卑怯で、ずるい性格をしているんだねえ」と連呼されてしまった。
「父親に見に来て欲しいのなら、そういう思いをちゃんと伝えればいいのに、それすら伝えようとしないで、それなら来てくれなくても当然なのに、その当然の結果に対して、腹を立てているしんじくんがいるね」と言われて、確かにそうだなあと思った。
しかも、その「来てくれなくて残念だった気持ち」を、直接『どうして来てくれなかったの、残念だった』という気持ちを伝えるわけでもなく、関節的に、ネチネチと、自分の気持ちを汲み取ってくれるのがさも当然のように振舞って、それでその気持ちを汲み取ってもらえないと、もっとイライラして…という悪循環に陥っている。
自分が最も傷付かないように、いつも行動している。
自分から何か気持ちを出していった場合に、そのことを否定されて傷付いて憂鬱になることがとても嫌だから、受身で、間接的に、いつも自分の意思を通そうとしている。

確かに卑怯で、ずるい性格だと思った。


心の底には

2006年12月03日 01時38分30秒 | 人間関係

やっぱり自分はこのままでは生きていかれないと思った。
他人に対するものすごく攻撃的なこの気持ち。
憂鬱で仕方がないこの気持ち。
自分に対するどうしようもない絶望的なこの気持ち。

いつも同じことで、いつも同じところで、いつも心は刺激されて、それで憂鬱になっている。それでイライラしている。
苦しくて仕方がないこの気持ちを、何度も味わっている。
何度も味わっているけれど、一向に変わらない。
嫌だって感じる心は、憂鬱だって感じる心は、他人に対して攻撃的な気持ちになる心は、苦しいって感じる心は、いつも同じ。
いつも同じで、何度も何度も経験してきた。その都度、絶望的な気持ちになって、何もかも投げ出したくなって、それで僕は何度も過った行動を取る。
逃げたり、八つ当たりしたり、ひきこもったり。

今日もサークルで、幾度も刺激されたくない心の部分が刺激され、それですぐにに心がダメになって、不機嫌になることでしか自分を保てなくなって、一人になってはいけないのに、一人になれるように、逃げ出した。

そしてこの不機嫌さや自分のダメさに対する憂鬱をぶつけるものがなくて、ひたすら彼女に八つ当たり。
一体いつから自分はこんなにダメ人間だったのか。
一体いつから他人にこんなにも依存的な人間だったのか。
やっぱり変わらない。
何もかもが憎くて仕方がなくて、自分がこんな性格になってしまったことが憎くて、自分をこんな風に育てた環境が憎くて、自分の心を何度も刺激する現在の環境が憎くて、何でもかんでも反応して憂鬱になる自分の心が憎くて、もうどうしようもない気持ち。
一体自分は、何を求めているのか。
この憎しみや憂鬱、攻撃的な気持ちは、一体なにが原因となって、本当は何を求めてこんな状況になっているのか。
もう22年間も生きてきたけれど、やっぱり分からない。
自分が何とか生きていかれる術を求めて試行錯誤してきたけど、やっぱり自分が生きていかれる術なんてなかった。
だって、環境がいくら変わろうとも、
自分自身がもとからダメだったら、どんな環境でも生きていかれないに決まっている。
自分自身がこんなにダメである以上、やっぱり自分はどこに行っても生きていかれるはずがない。

大学の就職活動支援ツアーで先週、東京に行った時も自分のダメ人間さだけを痛感して終わったし、サークルでも、自分の積極的になれなさだけを感じて、自分が刺激されたくないことを刺激されて、そういうポイントを何度も再確認して、それでその都度憂鬱になってそれで終わって、いつも同じ。
バイトでも自分の刺激されたくないことばかり刺激されるし、どうしてこんなに毎日憂鬱で仕方がない状況ばかりなのか。

理想が高すぎるからだ。
理想が高すぎるから、生きていかれなくなる。
「こうならなければいけない」的な気持ちが常に生きる基盤として存在しているから、そうなれない現実を実感する度に生きていかれないほどの憂鬱を感じなければいけない。
でも理想が高すぎるのは、理想を高くしなければダメだと感じながら育ってきたからだ。
そうしなければ何とか生きていけないと思ったから、そうせざるを得なかったはずだ。
僕は何にも悪くない。
そういう価値観を植えつけられるような環境で育ったから、そういう価値観を身につけてしまっただけであって、僕の責任ではない。
なのに、どうして今、僕がこんなに被害をここうむらないといけないのか。
おかしい。
とてもおかしい。
だから、他人が憎くて仕方がない。
いつも他人が憎くて仕方がない。
心の中に、いつもいつも憎しみがフツフツと渦巻いている。


人間関係で悩み続ける大学生

2006年12月02日 02時03分24秒 | 人間関係

人と人との関係って、自分にとって本当に大きなテーマだ。
人間関係が、自分にとってこれほどまでに大きな存在となっているのは、一体どうしてなんだろう。

大学1~2年までずっと仲良くしていた学部の友達と、3年生になってから久しぶりに会う機会が最近あったのだけれど、何だかものすごくぎこちなくて、態度がよそよそしくて、とても苦しい気持ちになった。
これまではわりと素直に接することが出来ていたのに、何故かものすごく態度が冷たい。目も合わせてくれない。
どうしてかなあ、何か気にさわることでも言ったかなあと考えるけれど、思い当たる節がない。
そのまま苦しくて嫌な気持ちを抱えたまま、僕は自ら距離を取るようになってしまった。
何だかその人とのこれまでの関係が全てなくなってしまったような、そんな喪失感に襲われ、ああもうやっぱり人間関係って嫌だと思った。

サークルを続けてもう2年間弱がたつけれど、サークルという集団組織においての人間関係にも、本当に多くのことを感じるような、そんな人と人との関係がある。
当初は苦手で仕方がなかった人が、2年間たってようやく話せるようになってきたり、好感の持てる人だと感じていたのに、一瞬のうちに嫌いになってしまったりだとか、人と人との関係って、人間関係って、非常に流動的なものなんだなあと思った。
いつも固定されて同じ状態で保たれているものでは決してなくて、何でもないことで揺れ動いたり、積み重ねによって動かされたり、その日の体調によって大きく変化したり…、日々、動き続ける、と
ても刹那的なものなんだなあと思った。

あと1週間後には、サークル1年間の集大成の定期演奏会が待っている。
何だか今までいろいろあったけど、それでも何とかここまで自分の心を致命的にまで追い込むことなく、ここまで来れて、とても不思議な気持ちだ。


もしかして

2006年11月05日 23時01分40秒 | 人間関係

もしかしたら僕はもう、カウンセリングを受け続ける必要はないんじゃないかなあと、最近思うようになってきた。
カウンセリングを受けるようになってから、そろそろ1年がたつ。
最初の1~2ヶ月は先生からどんどん質問されて、それで僕が答えたことを先生は熱心にノートを書いていたけど、最近はもう何も書いていないし、ノートすら持っていない。
いつも、世間話をしているだけのような感じ。
別にノートの有無が自分の状態の良し悪しとは何ら関係ないけれど、最近、気付いてきた。
自分が、自ら、変わるしかないのではないかと。
「他人と接していて、いつもこういう気持ちになる」、「あの人の言動が、何故か自分にとってはものすごく不快に感じて嫌だった」と、自分の感じたことを先生に話す。
そうすると、『それって、あなたのお父さんと同じ言動よね』とか、一言づつポンと言われる。
その言葉に『ああ、そうかなるほど』と思う。

「なるべく人前には出さないようにするけど、彼女の前での自分は、ちょっと油断をするとすごい愚痴っぽくなったり、すごく妬ましくなったり、すごくネチネチとしたりして、びっくりする。こんなうっとうしい自分は自分ではないような気がする」と言う。
そうすると、『じゃあそれは誰?うっとうしいような自分は自分ではないの?』と言われる。
いやそんなはずもないなと思って、ああこれはうっとうしい自分を、ダメな自分を受け入れたくないがための自己防衛的な気持ちを、無意識の内に持っているんだなと思って、『ああ、そうかなるほど』と思う。

こういう『ああ、そうかなるほど』をたくさん味わえば味わうほど、問題は全て自分自身の物事の考え方や、自分自身との付き合い方によって生じているんだなという思いが、強くなっていく。
だから、結局は、自分自身が変わらねば、本質的には何も変わらないんじゃないかなと思った。
「カウンセリング行けば何とかなる」的な、極めて他力本願な生き方が、自分自身の生き辛さを助長しているのではないかと思う。
だから、この先、カウンセリングを受け続けることは、そういう他力本願的な生き方をますます強めてしまうのではないだろうかと思い、現在の僕にとってはカウンセリングを受け続けることはやめた方がいいのではないかという結論に至った。


揺るがない事実

2006年10月21日 00時42分55秒 | 人間関係

「最近の自分は良い方向に変われたかなあ」と、しばらくは前向きな気持ちで日々を過ごすことができたと思っていたら、実はそんなこと全然なくて、いとも簡単にそのポジティブシンキングは崩れていく。
ああやっぱり、自分のこの前向きさや明るさは、上辺だけ
、表面上だけなものなんだなとはっきりと再確認する。

どんなに自分の中で固い決心のようなものをしても、自分が憂鬱になったり憎しみでいっぱになったりするポイントは変わらなくて、そこに触れられると、そこを刺激されると、あっという間に、これまで22年間生きてきたダメな自分に舞い戻る。

どんなに心揺さぶられる出来事があっても、どんなに好きな彼女ができても、どんなに感銘を受ける本を読んでも、本質的には自分という人間は何も変わることがない。
相変わらず気が狂ったように嫉妬心で心は満たされるし、憎しみでいっぱいになって劣等感を抱く。
ちょっと強くなったかなとか、ちょっと自分との付き合いがうまく出来るようになったかなとか、そんなことを「自分の刺激されたくない部分が刺激されなくて、心の調子が良い時」には感じられるけど、そうじゃない時には全く感じられない。
うぬぼれているだけ。
僕自身が強くなったとか、そういう何かしら自分自身に変化があって生きることが前向きになれたのではなくて、周囲の状況が自分にとって都合が良いから、刺激されたくない部分が刺激される機会がたまたま少なかったから、そういう機会を自ら避けているから、前向きになれていただけ。
自分が主になって現状を変えられていたのではなくて、自分の周囲の状況によって自分が変われたのだと錯覚していただけだった。

やっぱり自分は何一つ変わっていない。
相変わらず自分のことでいっぱいいっぱいになっていて、それで自己中心的に生きていく。
自分の心の様子が最優先事項。
自分の心が不安定なら、もう他には何もできない。他人にも関心を示せない。
そして一人で勝手にイライラと憂鬱を溜め込んで、ひたすら八つ当たり。
でも素直にそのイライラを表現できないから、愚痴っぽくなる。ひがみっぽくなる。
無愛想になったり、ムスっとすることで「自分は今、不機嫌なんだぞ、だから腫れ物に触るように優しく接しろ」という態度を取るようになる。
間接的に自分の気持ちを察してもらおうとする。
それでそういう思わせぶりな態度を汲み取ってもらえないと、ますます不機嫌で憂鬱になる悪循環。

いつもいつも同じ自分。
これまでの自分は、いつもこう。
何も変わっていない自分。
カウンセリングを受けたとか、サークルに入ったとか、彼女ができたとか、そういうことで何かが変わるような気がしたけど、そんなことはなくて、「自分」という人間は何も変わらん。
何一つ変わらん。
自分の人間性がずっとこうならば、このままでは絶対に社会に適応できない。
何でいつもいつもこんなに刺激されたくない部分が多いのか。
どうして他人は何とも思わないことで、自分はこんなにも憂鬱になるのか。
一体どうしてか。

もう嫌だ。