人間関係で悩み続ける大学生が感じること

人との関係や自分との関係において、
人一倍、生きにくいと感じたり、
辛い・苦しいと思ってしまうことの多い人々へ

憂鬱になる原因

2006年08月26日 23時16分26秒 | 人間関係

最近、はっきりと「人と接することが辛くなってしまう理由」が分かったような気がする。
僕が人と接することが辛くなって仕方なくなってしまう時って、いつも自分の中の「触れられたくない部分
」が刺激されてしまった時だ。
その触れられたくない部分が刺激されてしまうと、嫌な気持ちがジワーっと広がって、たちまち不機嫌になって憂鬱になってしまう。

「触れられたくない部分」が自分にとって、どうして「触れられたくない部分」なのかは分からない。
けれども、人と接していて、どういうことがあったら、どういう接し方をされたら、その触れられたくない部分が刺激されてしまうのかっていうのが、最近はっきりと自覚できるようになってきた。

例えば、別の人に対する接し方と、自分に対する接し方が違うなあと他人に対して感じてしまう時。
例えば、自分にとって距離の近い人が、勉強やバイトを頑張っている時。
例えば、人と接することが苦手な人なのに、苦手なりに頑張っているなあという他人の姿を垣間見たとき。
例えば、自分以外の友達と友達が仲良くしている時。

そんな時、心の中に刺さったままのトゲがうずいてチクチクと痛むように、心が苦しくて切なくて、仕方なくなる。
自分のそういう触れられたくない部分を刺激されない状態ならば、とっても前向きにのびのびと生きていけるのに、その部分を触れられてしまうと、もう自分のダメな部分が、弱い部分が全て露出してしまうような、そんな自分自身の姿へと変わってしまう。
それまでは人と接することが苦ではなかったのに、自分のそういう部分を刺激されてしまうと、もう何をしてても心が曇ったままのような、常に胸がザワザワしたような気持ちでいっぱいになる。
そうなるともう、人とのコミュニケーションは非常に苦しいものになる。

そういう自分が確かに存在していることは何となく分かっていたけれど、どうして人と接していて急に「不機嫌で憂鬱で仕方ない自分」になるのかが分からなかった。
けれども、もうすぐ一年がたつカウンセリングと、本を読んでいくうちに、自分の心の正体が分かった。
「触れられたくない部分」っていうのは、自分が子供の頃に家族の影響によって受けた傷のようなものだそうだ。
「こういうことがあったらいつもこういう思考をする」「こう言われたらいつもこう解釈する」というように、人間には育った環境によって身に付けた、自動思考のようなものがある。
それと同じように、幼い頃に身に付けた「触れられたくない部分」というものは、幼い頃の人はそのことをを無意識のうちに忘れようとする。
けれど、忘れたつもりでいても、心の奥底の無意識の範ちゅうではしっかりとその傷は存在していて、あることをきっかけにいつでもその傷は掘り起こされ、その都度苦しい気持ちになって、憂鬱で仕方なくなったり、辛くて仕方なくなってしまう。

現在の自分は、まずそういう状況にあるのだとはっきりと自覚した。
今でも人と接することが苦しくて仕方がない。
劣等感や嫉妬心を刺激され続けて、嫌な気持ちになって仕方がない。
だからまず、現在の自分は「触れられたくない部分」が、なぜ自分にとって「触れられたくない部分」なのか、その原因を知ることがこの生き苦しさを解決する唯一の手段だと思った。
そうすればきっと、僕は人と接することが脅威ではなく、苦痛ではなく、恐怖ではなくなると思う。


いくつになっても

2006年08月12日 12時31分50秒 | 人間関係

現在僕はインターンシップの期間中で、デイサービスで研修をさせてもらっている。
利用者には体の不自由な高齢者がたくさんいて、性格もそれぞれに多種多様だ。
デイサービスの仕事は嫌だけど、人間観察をしているのはものすごく楽しい。

その中で、他の利用者からも、職員の人からもあまり好かれていない人がいる。
どうして好かれていないのかと言うと、いつも愚痴を言っているし、他人の悪口が多いから。
この人は70~80歳になるまでずっと、どうしてこんなにも嫌われてしまう性格で生きているのか、それが不思議でとても知的好奇心がわいてすごく知りたいと思って、なるべくたくさんその人と接するようにしていた。

この人と話していると、いつも必ず同じ話になる。
自分がいつもどれだけ苦しい気持ちを感じているか、
自分がいつもどれだけ他人に対して気を遣っているか、
他人はいつもどれだけ鈍感で気楽か、
どうして自分ばかりいつも不幸になるのか、
どうしていつも自分の人生は不公平なのか、
ここの職員は利用者の扱いが平等ではない…等々。

はたから見たら利用者を平等に扱っていないとかそんなことは全然なくて、その人の物事の感じ方の問題であるのは間違いないのだけれど、この人は本気でそう感じている。
この人は他人に構ってもらいたくて仕方がない。
レクリエーションで、職員さんが「今から質問するから、選択肢の中から1度だけ手をあげてくださいね」と言っているのに、何度も手をあげて注目を買おうとする

自分がどれだけ不幸か、ここのデイサービス内で自分がどれだけ気苦労しているかということをしきりにアピールして、とにかく自分に注目を向かせようとする。

人に構ってもらいたい、人と話がしたいと思っているのに、その方法が分からなくて、自分の不幸を訴えてみたりすることで、人と関わろうとする。
それでもうまく人と関われないから、ますます寂しくて仕方がなくなる。
そういう気持ちが、怒りが、寂しさが、辛さが、どうしようもない苦しさが、憂鬱が、
愚痴や他人の悪口を吐かずにいられない状況にこの人を追い込む。
そうするとますます他人とは関われなくなってしまって、より一層、この人は孤独を深めてしまうという悪循環に陥る。

そういうことを感じながら
接していたら、この人はよく考えたらとても不幸な人なんだなと思った。
とっても苦しくて辛くて仕方のない人なんだなと思った。
毎日が息苦しくて仕方のない人なんだなと思った。
この人がしきりに訴える「自分がどれだけ不幸か」ということは、あながち間違ってもいないなと思った。
この人が人と上手に関われなくて、歪んだ価値観を身につけて、生きることが死ぬほど辛くて仕方のない人生という土台で生きている、という意味では、あながち間違ってもいないなと思った。

70歳になっても80歳になってもこういう人がいるっていうことは、やっぱり一度幼いころに身に付けた自分の物事の感じ方や考え方、生き方の土台っていうものは、やっぱり絶対に変わらないものなのかなと思って、憂鬱になった。
この人がこうなってしまうメカニズム的なものを感じられてしまうっていうのは、自分もそうだからだと思って、憂鬱になった。
この人に共感して、かわいそうだと感じてしまうのは、自分が身を持って実感しているからだと思って、どうしようもない気持ちになった。
やっぱり生きるのって大変だなと思った。