人間関係で悩み続ける大学生が感じること

人との関係や自分との関係において、
人一倍、生きにくいと感じたり、
辛い・苦しいと思ってしまうことの多い人々へ

就職が怖い

2006年06月22日 01時55分04秒 | 人間関係

大学3年生になってから、いよいよ本気で就職活動を意識するようになってきた。
就活に関係するオリエンテーションや講義が毎週のようにある。
社会人になって働くということを、真剣に意識せざるを得なくなってきた。
就活に関係することになると、僕はいつも怖くて不安で仕方なくなり、憂鬱になる。

これまで経験してきたアルバイトの中で、去年少しだけ働いていた家電量販店がある。
基本的に接客業で、あまりの仕事の辛さに「この仕事だけは絶対に正社員として就けない」と心の底から思った。
いつもは人間関係が嫌でアルバイトは辞めるのだけれど、生まれて初めて、そのいつもの理由に加え、「仕事内容が嫌」で辞めた。
その時は「もし自分の適性を知らずに、この仕事を正社員としてやっていたら…」と考えると恐怖で仕方がなかった。だから、自分の将来については本気で考えて、自分の適性に合ったものでなければ絶対にいけないと思った。

それなのに、どうしても考えることから逃げてしまう自分がいる。
自分の仕事の適正については真剣になって考え続けなければいけない、と身に染みて実感したのに、考えることがとても億劫で、とても憂鬱で、とても嫌で、現実逃避をしてしまう自分がいる。
『文系大学の新卒なんて、100%営業の仕事だよー』という友達の話を聞いたり、仕事の本を読んで現実を知るたびに、そんな仕事は絶対に出来ない自分はますます憂鬱になっていく。

僕の通う大学は福祉大学だから、「福祉職に就こう」と考えたこともある。
そう思って障害者の授産施設でアルバイトを経験してみたこともあるけれど、やっぱり自分には無理だと思った。
何より、「営業の仕事が嫌だから福祉の仕事に就こう」っていう消去法的な動機が、そもそも絶対にいけない気がする。

あーもー本当に社会に出るのが怖くて仕方がない。
もっと心の強い自分に生まれたかった。
ニートやひきこもりになんてもう2度となりたくないけど、仕事をすることがとても怖いから、ニートになりたいと思う時もある。
だけど絶対に嫌。
しかしなってしまう可能性も否定出来ない。
自分は本当に社会に出てやっていけるのか。
社会の荒波にもまれた時、心を病むことなく生き続けることは出来るのか。
アルバイト先でうつ病になっていく正社員の人達を目の当たりにする度に、不安で不安で仕方なくなる。


2006年06月19日 02時59分14秒 | 人間関係
僕は父が嫌いだ。
今日は会社で嫌なことでもあったのか、機嫌があまりよくなかった。
夕食時に酔っ払った勢いで、親や兄弟等の親族に、用もないのに電話をかけまくる。
父には話し相手がいない。親族にしか話し相手がいない。
普段はそれで気がおさまるのだけれど、今日はそうでもなかった。
夜中の12時も過ぎているのに、家の外へ出て、隣の家のインターンホンを何度も鳴らす。
起きてきた住人に対して何の理由もないのに怒鳴り散らす。
住人は夜中に起こされるは怒鳴られるわで、その迷惑は想像を絶する。

父のこういう行動は今に始まったことではなくて、昔からそうだった。
父は同窓会でも一番の嫌われ者らしく、とうとう同窓会の便りさえ送られることがなくなった。

僕は父が大嫌いだ。
すぐに大声をあげる。すぐに怒鳴る。
僕が、他人とのコミュニケーションをうまく取れなかったりするこういう性格になってしまったのは、こんな父に育てられたからなのかなあとも思う。

父には、人との関係の作り方というものが分からない。
だから、僕もこんなに人間関係で苦しむのかな。
それともただ、自分の努力不足を父に責任転嫁してるだけなのかな。

共感すること

2006年06月14日 01時27分10秒 | 人間関係

辛い気持ちや苦しい気持ちっていうのは、誰もが抱いている。
僕が普段から感じるような「憂鬱」な気持ちや「自分が嫌だ」という気持ち、「人と会うのがおっくうだ」っていうのも、誰もが感じていること。
自分だけが繊細なわけではないし、自分だけが傷付きやすいのではない。
自分だけが落ち込むわけではないし、自分だけが人と会うのが辛いと感じるわけでもない。

これまでは、なかなかそういう風には考えられなかった。
何か嫌なことがあると、「どうして自分だけは、いつもこんなに辛い気持ちになるのだろう」的な思いを抱いていた。
それがとってもおこがましくて、それがとっても傲慢な考え方っていうことに気付いていながらも、そう考えずにはいられないほど、自分だけに関心が向いてしまっていた。

けれど「自分だけじゃないよなあ」っていうことに、最近考えられるようになった気がする。
サークルの人とより深い関係になれたり、彼女とより親密な仲になれたりすることで、これまでは自分だけに向いていたものが少しは他者にも向けられるようになり、「こういう気持ちは自分だけではない」と思えるようになった。

「自分だけではない」って考えられることは、と
ても勇気が出て、本当に良い考え方だと思う。
他者のことを知る・理解するっていうことは、とても高度な人間関係スキルだと思う。
他者を受け入れるっていうことは、精神的に成熟した人でなければ出来ないと思う。

だから、僕はやっぱりまだまだ出来ない。
他人に対して「大変だね、頑張ってるね、辛いね」って口先では言えても、本当は自分の辛い気持ちや苦しい気持ちのことの方でいっぱいで、本心からそういうふうには考えられない、余裕のない自分がいる。
自分以外の人もみんな、話を聞けば聞くほど、本当に大変だなって思う。
本当に頑張ってるなって思う。
辛いのがすごく伝わってきて、分かって、考え込むことしか出来なくなってしまう。
だけど、他人のそういう気持ちを認めるっていうことが、自分の現在感じている辛い気持ちをないがしろにされてしまうような感じになってしまって、素直に認められない。
他人がどれだけ大変な目に遭っていようとも、他人がどれだけ辛い気持ちを味わっていようとも、「自分が辛い」と感じる自分の問題のことは、何をさておいても「辛い」ことが現実であって、それは間違いない。

だから、「他人の気持ちに共感出来るようになった」といくら豪語しようとも、結局は自分の気持ちが一番大切になってしまっている自分がいる。

う~ん。


どこまでが自分の責任か

2006年06月06日 01時31分10秒 | 人間関係

自分の現在の性格・物事の考え方っていうのは、育った環境や、幼い頃の周囲の人達の影響によるものがとても大きいと思う。
赤ん坊が与えられた服を嫌がることなく身に付けるのと同じように、幼い頃に言われたことや植えつけられた価値観っていうのは、抵抗することなくそれを自分の価値観として受け入れてしまう。
親が精神的に未熟で、気分の抑揚が激しい人だったりすると、自分の感情のはけ口に子供を利用したりすることがある。その時、子供は親に逆らえず自分を殺してしまう。その結果「自分の感情を抑圧すれば親は機嫌が良い」ということを学習してしまって、成長して大人になっても、他人と仲良くするためのコミュニケーションの方法として「自分の感情を抑圧すれば他人が機嫌が良い」と間違った判断をしてしまう。
他人に迎合する以外での、人との関わり方の方法が分からない自分がいる。

子供の頃に十分に甘えられなかったら、大人になってもその「甘えたい」という欲求を満たそうと、死に物狂いになってしまう自分がいる。死に物狂いになるから、正常な対人関係が築けなくなってしまう。
普通の人間関係がどういうものか頭では分かっているのに、実際の心はそのようには反応出来ず、常に自分の欲求を満たすべくような行動を取ってしまう。

弱い自分、かわいそうな自分でなければ人の関心をひくことが出来ないと思っているから、ひたすら「不幸な自分」を示そうとしてしまう。
このブログの存在がまさに、その典型だと思う。
本当は人に甘えたくて仕方がない。
本当は人と話したくて仕方がない。
本当は人と接したくて仕方がない。
だけどそれが出来ない。何故出来ないのかと言うと、その方法が分からないから。
では、何故その方法が分からないのかと言うと、これまでの人生でそういう方法を取って人と接した経験がないからだと、カウンセリングの先生は言っていた。
やっぱり幼い頃に身に付けた「こうすれば人の関心をひける」「こういう態度を示せば他人は自分に話しかけてくれる」というような自分の価値基準が、今もなお、現在の、人とのコミュニケーションにおいてのスタンダードな方法になってしまっている。

人と接することを本心では求めている。
だけど自分から求めていった時に、拒まれて傷付いてしまうことを極度に恐れている。
あんまり思い出したくないから分からないけど、「人と接したい」という本心の気持ちと、「拒まれて傷付きたくない」と思う気持ちを天秤にかけて比べてみた時に、後者の方が勝ってしまうということは、
きっとそういう経験が昔、自分自身にあったに違いない。
そのことに加え、「弱い自分でいれば人は気にかけてくれる」という幾度も重ねた経験が、自分の中の「人と接したい」という気持ちを多少なりとも満たしてしまう。
「弱い自分」でいることで、「甘えたい」という幼い頃に満たされないままの気持ちを、多少なりとも満たしてしまう。
そんな成功体験を味わい続けていれば、僕がその方法を用いてでしか人と関われなくなってしまうのは当然な気がする。

僕が現在、こういう人間になってしまったのは、僕の責任だけではない気がする。
むしろ、親や育った環境のせいによるものが大きいと思う。

テレビニュースを見ていて、毎日のように犯罪の報道が流れる。
その犯人のことが流れる度に、これまでは「どうしてこんなひどいことをするのか」と憤りを覚えた。
だけど、今日は「自分の人生を台無しにしなければならないほどの心の傷を持ったこの犯人は、一体どういう環境で育ったのか」と思うようになった。
誰だって、好きで犯罪なんて犯すはずがない。
誰だって、自分の人生をそんなことに費やしたくない。

けれど、そんなことに費やさざるを得ないほどの精神的な葛藤が、犯罪加害者の心には存在している。だから、結果的に不幸なことが起きてしまう。

僕だって、好きで人と接することを拒むわけではない。
僕だって、迎合する以外での、甘えたいという欲求以外での、自分に関心を持ってもらいたいという非常に不安な気持ち以外での、人との関係を築きたい。

けれど、それが出来ない人間に、親や育てられた環境のせいによって形成されてしまった。

そうやって「自分が育った環境」に何もかも責任転嫁していてもしょうがないっていうことは分かっている。
分かってはいるけれど、ある意味ではそれが変えられようのない事実であるのは確かなわけで
、だから僕は「育った環境で自分がこうなってしまったのは仕方がない…だけどこれからは自分で自分を変えていこう!」なんてポジティブに気持ちを切り替えることなんて出来ない。
自分で自分を切り開いていくなんてことが出来る基礎を、そもそもの自分が持ち合わせていないんだから。
そんな基礎を身に付けられるているような自分に、そもそも育てられていないんだから。

こんな自分が本当に嫌い。
責任転嫁することでしか自分の存在証明を保てないような自分が、本当に消えていなくなって欲しい。


他人との関わり方はいつも同じ

2006年06月04日 01時35分13秒 | 人間関係

カウンセリングで頻繁に指摘されることがある。

『しんじくんは他人とのコミュニケーションにおいて、常に母親との関係のようなものを求めてしまい、無意識のうちにその関係作りにいそしんでしまう。』

母親との関係というのは、とっても弱い自分と、精神的に何もかも依存することの出来る母親、という関係。
物心ついた時から現在に至るまでそうだけど、特に不登校時代にはその関係の強さが顕著に出ていたと思う。
とても弱い自分だから、とても繊細な自分だから、母親は自分に構ってくれているのだという気持ちをいつも抱いていた気がする。
実際に自分は弱かったかも知れない。実際に自分は傷付きやすかったかも知れない。
だけど、「もし少しでも元気な自分になってしまうと、もう関心を持ってもらえなくなるのでは…」という不安が常にあり、実際のそれ以上に弱い自分を演じてしまっていた感じがする。

実際に自分が元気になったり、強くなってしまったら母親の関心を向けることが出来ないのかどうかは分からない。実際は分からないのに、関心を持ってもらえなくなると僕は強く思っている。

だから未だに、母親との関係においては非常に幼稚で、精神的に大きく依存したコミュニケーションしか取ることが出来ない。

嬉しいことがあっても、別に辛くとも何ともないことがあっても、母親の前でそんな自分を出すことは何故かものすごく怖くて、不安で、だからわざと不機嫌な自分でいようとしてしまう。
自然と、体がそうなってしまう。
不機嫌な自分でいれば、「何かあったの?」と関心を持ってもらえるような気がする。
不機嫌な自分でいることで、弱い自分でいることで、何故か心の底からホッとしてしまう。
見放される不安がなくなって、気持ちが落ち着いてしまう。

どうしてこんなにも「自分に関心を持ってもらえなくなる不安」を感じてしまうのか。
それはカウンセリングの先生いわく、「子供の頃に親に対して完全に甘えきった経験に乏しく、その不安から現在も、子供の頃と同じような気持ちを満たそうとしてしまうから。子供の頃に嫌というくらい甘えられた子供の方が、『自分は親に愛されてるんだ、この家にいてもいいんだ』という安心感を得ることに成功して、結果的に精神的な自立が出来るようになる。」と言っていた。

僕が子供の頃に親に十分に甘えられたかどうかはもう記憶にないから分からない。
あんまり思い出したくない。
だけど原因が分からなくても結果として、そういう「満たされない何か」が存在するから、母親との関係もおかしくなってしまうのだと思う。

先生の指摘通り、他人との関係においても、常に母親との関係を求めてしまう自分がいる。
例えばそれは、上下関係がはっきりとしている関係。
自分が下で、相手は上という立場の関係が最もしっくりくる。
自分が相手より下だから、気持ち的に思いっきり相手に依存出来る。
それは母親との関係と同じ。
サークルにおける先輩と後輩、アルバイトにおける社員とバイト、友人関係においての頭の良い人とそうでない自分。そういう関係がものすごく落ち着いて、最もうまく人間関係が築けてしまう。
逆に、自分が上で相手が下、という関係は全くうまくいかない。
そんな関係を僕は経験したことがないから、求めていないから、精神的に依存することでしか関係を保てないから、うまく人間関係を作ることなんて出来るはずがない。

だから僕はいつも、自分は弱いということをしきりに他人にアピールしたがる。
だから僕はいつも、自分の意見より他人の意見の方が絶対に正しいと思ってしまう。

気持ち的に依存することでしか人間関係がうまくいかないのだから、相手に自分の意見を言ったり、嫌なことは嫌と、はっきりと言えない。

現在の自分の人間関係における問題の原因が見えても、子供の頃からこんなに屈折した「人との関わり方」を身に付けてしまったのに、今更それを修正して、対等な人間関係を築くことなんて出来るのだろうかと、ものすごく不安で憂鬱な気持ちになる。


心が疲れる時

2006年06月02日 02時00分16秒 | 人間関係

サークル活動をしていると、本当に嫌な自分が出てくる。
「これって本当に自分なのか」って疑いたくなってしまうような自分が、出てくる。
信じたくない・認めたくない気持ちがとても強いから、そんな自分に嫌悪感を抱き続ける。

人との関係・自分との関係において、イライラすると言葉遣いも態度も乱暴になってきて、今すぐにでも逃げ出したい、消えてしまいたい気持ちになる。人のいない場所へ行きたくなる。一人が恋しくて仕方なくなる。
だけどそれが許されない状況にあることがほとんどで、だからそういう時はムスッとして、ただひたすら不機嫌な自分になることでしか自分を保てなくなる。
不機嫌な人って、その周囲の人にとっては本当にただの不快な人でしかなく、何にもいい影響はない。
「他人にとって今、自分は本当に迷惑でうっとうしい存在なんだろうなー」と頭では分かっていても、不機嫌な感情をコントロールすることは非常に困難で、更に「場の雰囲気を悪くしている今の自分はなんて嫌な人間なんだろう…」と自己嫌悪に陥ってしまう。
とても悪い悪循環。

『「自分はいま辛いんだよー、苦しいんだよー」って感じる時に、不機嫌な態度を取ることでしかコミュニケーションを取れない自分』が良くない、ダメだって分かってるのに、本で読んだりして分かってるのに、いくら頭で理解していても、理性より感情の方が圧倒的に強くて、そんなん無理だーってはっきり思ってしまう。

初対面の他サークルの人と接する必要のある機会が最近多くて、本当に緊張する。
容易に想像は出来ていたけれど、案の定、人間関係が苦痛だなあと感じることが非常に多い。
すごく明るい人だとか、いい人そうだとかっていうのは分かるのだけれど、どうしても緊張からテンパってしまって、自分の中の最も弱い部分が出てきてしまうような感じ。
『どうしてこんなに気まずいのだろう。』
『どうしてこんなに変な相づちしか言えないのだろう。』
『どうして喋ってる内容の意味すら分からないのに、僕はヘラヘラと笑っているのだろう。』
と、あまり好きにはなれない自分になってしまう。

考えてみたら、現在の合唱サークルに入ったばかりの時の人間関係の状況と全く一緒だなあと思った。
そう考えると、やっぱり相手や環境に原因があるのではなくて、自分自身の人間関係に対しての考え方や解釈の仕方に、大きな原因があるのかなあと思った。

だけどとにかく、心が疲れたなあと思った。
もう、しばらくは一人でのんびりしたいなと思った。
明日はカウンセリングの日なので、こういう気持ちの時はそれがとても大きな支えになる。
ああでも本当に心が憂鬱で嫌だ。
何が原因かも分からないくらい多くのことがあって、その都度いろいろ感じて、だから今はもう何もかも休んでゆっくりしたいと思った。