人間関係で悩み続ける大学生が感じること

人との関係や自分との関係において、
人一倍、生きにくいと感じたり、
辛い・苦しいと思ってしまうことの多い人々へ

自分の心が裸になっていくよう

2006年07月30日 01時34分26秒 | 人間関係

昨日はカウンセリングだった。
何故か昨日は、いつも以上に自分の伝えたいことを伝えられた。
最近はよくカウンセリングを休んでしまうことが多い。だけどやっぱりそれは、自分が見たくない・認めたくない自分自身の嫌な部分から目をそらして、これまでの僕の人生の生き方通りの、「逃げてしまう」ことにまたつながるので
、休むことは良くないと先生に言われた。

昨日のカウンセリングでは、自分に対する、ものすごく大きな発見をした。
自分が人間関係において傷付いたり、憂鬱な気分になったりする時って、いつも「自分が望むような相手の反応や結果」が得られなかった時だ。
具体的に言うと、「僕がこれだけ相手に対して気を遣ってるんだから、相手はそれ相応の反応を自分に示すべきだ」とか、「自分はいつも注目されるに値する人間で、周りの人は自分に対してそういう態度を示すべきだ」とかいう気持ち。
そういう気持ちって、人間なら誰もがある程度は持っているものなのかも知れないけれど、その要求の気持ちの度合いが他の人より高くなっている、という自分自身がいることを知った。
何でその気持ちが人より強くなってしまうのかっていうのは、やっぱり自分の幼い頃に原因があるらしい。
幼い頃に、自分自身が満足して、納得するぐらい愛されたという実感が持てないでいるから、「寂しい」という気持ちを抱いてしまった。
だけど、その「寂しい」という気持ちを「ちゃんと感じる」っていうことはとてもエネルギーのいることで、また、「寂しい気持ちを感じている自分」を認めることは、とっても苦しいことなのだそうだ。
だから、「寂しい」という気持ちを抱く代わりに、「怒り」を抱いてしまったらしい。
その「怒り」の感情が、「自分はもっと人から愛されるべきだ」、「自分はもっと人に構ってもらえるべきだ」、「自分が落ち込んでいたら、相手は自分に対して当然気を遣うべきだ」と、相手に対して過度に大きい要求につながってしまう。
相手に対して求めるものが大きくなってしまうから、「怒り」という気持ちが、人間関係においての「自分の傷付きやすさ」を助長してしまう。

「怒り」を持っていれば、「寂しい」という、自分が本当に認めたくない気持ちを抱かないで済む。
カウンセリングが終わったあとに、自分が持っている「怒り」という感情について考えていたら、これまでの人生で当てはまることがとても多くて、本当に驚いた。
人と接している時は、「この人は自分のことをどう思っているのか、どのように評価しているのか」と、いつも疑心暗鬼で接している。
「好かれたい」や「嫌われたくない」ではなくて、「自分の価値が下がってしまうこと」が最も怖くて、常に警戒しながら接している。
相手の返事の仕方一つで、自分の気分がものすごく左右される。
ちょっとでも気のない返事や喋り方をされただけで、ものすごくイライラして憂鬱になって、その相手のことが嫌いになる。その「気のない反応」がその人自身の性格だと捉えることが出来ず、その反応が「自分に対する評価の表れ」のような気がして、相手に腹が立ってくる。
「自分はもっと好かれるべきだ」という「怒り」の感情を前提に人と付き合おうとするから、ますます傷付いて人間関係が嫌になる。
そういう感情が、自分の生きづらさを増大させる。
その感情は、「ありのままの自分を認める」ということをいつも妨げる。
「怒り」の感情が「理想の自分」をどんどん高めている。
そしてはっきりと先生に言われたことが、「しんじくんにはまず怒りの感情が根源にあって、その怒りの感情が求める『高すぎる他人への自分に対する欲求』があって、当然だけど、その求めるものは手に入らなくて、そういう時にしんじくんはいつも必ず、逃げようとする。

その典型例がひきこもりであったり、バイトを辞めたり、サークルを辞めたいと思ったりすることだ。
サークルそれ自体が嫌なのではない。
人間関係それ自体が辛いのではない。
「怒り」の気持ちが前提に存在して、その感情が「理想の自分」のようなものをより高いものにしてしまって、当たり前だけどそれはいつもたどり着けない理想の自分で、僕はその度に傷付いて、憂鬱になって、落ち込んでいる。
「人間関係が嫌だ、人間関係が嫌だ」ではなくて、「人間関係に対して自分が求めるものがあまりにも大きすぎて、それがいつも叶わないから嫌だ」ということに、僕はその時はっきりと気付いた。

そうなると、今も自分の中に存在し続ける、この「怒り」の気持ちとは、どうやって付き合っていけばいいのかな。


他人に対する気持ち

2006年07月27日 01時27分59秒 | 人間関係

昔から当たり前だなって思う自分の価値観や物の考え方っていうのが、実は他の人にとってはそんなこと全然なくて、そういう「自分の当たり前」がおかしいことに気付かされることが、最近とても多い。
人から何か遊びや用事に誘われても、まず断ることしか頭に浮かばなくて、それはもう自動思考のように体に染み付いている。
どうして断ることしか頭に浮かばないのかは分からないし、自分自身の他人に対する「しこり」のようなものが常に存在する原因も、何でかは分からない。
けれど、それはもう僕の生きるスタンスになっていて、頭で考えるより体が勝手にそう反応する。

自分が他人に対してそういう風に感じるのが普通だから、他人も自分に対して、自分が感じていることと同じように感じているのではないかと思えてしまう。
自分がまず「断りたい」「避けたい」と考えているから、相手も自分自身に対してそう思っているのでは、と思う。
だから僕が他人と接する時は、どうしてもよそよそしくなってしまうのだなと思った。
他人が本当はどう感じているのかも定かではなくて、自分の経験している感情のみで相手の気持ちを探ろうとするから、他人が自分を「断りたい」「避けたい」と考えていると思ってしまう。
だから人間関係もうまくいくはずないと思った。

大学に入ってから、「どうしてそんなに躊躇することなく他人と関わることが出来るのか」と、とてもじゃないけど信じられない気持ちになってしまうような人たちを何人も見てきた。
どう考えてもそんな行動、言動を取ることが出来るのは信じられない、といつも思った。

だけど、最近はそういう人たちが何故、そのような人との関わり方が出来るのか、少しづつ納得出来るようになった。
彼・彼女らは、僕が他人に対して感じていること・抱いている気持ちを、他人に対して、持ち合わせてはいない。
そんな感情は持っていないから、人と接していてもよそよそしくならない。
申し訳ない気持ちにならない。
いてもたってもいられない気持ちにならない。

他人に対して、ネガティブな感情を持ち合わせていない。
だから、うまくいくんだと思う。


どうしてこんな人間に育ったのか

2006年07月02日 23時34分19秒 | 人間関係

僕はいろんなことに手を出す。
カラーコーディネーター、英語、簿記、ギター、バイト、バンド、卒論、ゼミの書記、サークル、起業アイデアコンテスト、読書、カウンセリング、インターンシップ…。
高校の時もそうだったけど、大学に入ってからはより一層、様々なことに手を出す割合が多くなった。
そして、何一つ、結果は出せていない。

大学3年生の今も相変わらず多くのことに手を出しては「忙しくて大変だ、大変だ」と思うようにして、『忙しい自分』に自己満足してしまっている。
現在は、①卒論、②サークルのピアノ伴奏者、③簿記の勉強、④インターンシップ、⑤ゼミの書記、⑥バイトと、かなり多くのことに手を出してしまっている。
自分の意思で全て選択しているとは言え、やらなければいけないことに追われる毎日というものはストレスがたまることも多い。
最近は睡眠時間も満足に取れなくて、体調も基本的に不良で、気付くと常にイライラしている自分がいる。

今日もバイトをして、終わって家に帰ってからやるべきことをやろうとするけれどどうしてもやる気がわかない自分がいて、すごく悔しくてすごく鬱で、そんな自分に対してすごく嫌悪感を抱いて、もうイライラの極みで、母親に八つ当たりをしていた。

『どうしてやることが分かっているのに僕はやる気が起きないのか』と母親に対して言うと、「何でそんなにやることを作るの?もっと減らせばいいのに」と言われた。『それは減らせないの!』と言うと、「どうして?」と聞かれた。
どうしてだろう…と少し考えたら、すぐに答えが出た。
僕があれもこれもと手を出さずにはいられないのは、自己無価値感が強いから。自分に対する価値を感じられないから、自分の価値をどうにかして高めようと、無意識のうちに多くのことに手を出しては、何とかして結果を出そうとしている。そしてその結果を出すことで自分の価値を高めようとしている。
僕が物事に取り組む時って、何か目的があって取り組むのではない。
将来はこういう職種に就きたいからこの勉強をする、というような目的があって物事に取り組むわけではない。
興味があるから、サークル活動やバイトをするわけではない。
自分を高めたいから卒論やインターンシップ、ゼミ活動に力を入れているわけではない。

僕が物事に取り組む時の動機は全て、自分に対する無価値感から逃れたいがための、ただそれだけの一心だ。
だから、あれもこれもと手を出してしまう。
動機がおかしい。
自分の力量も考えずに、とにかく自分を「忙しく」していないと自分の価値がなくなってしまうように思えてきてしまい、不安で不安で仕方がなくなる。
その不安から逃れるために、一生懸命頑張っているに過ぎない。

ではどうして、そこまで自分に自信が持てないのか。
どうしてそこまで自己無価値感が強いのか。
その理由がずっと分からないでいたけれど、最近少しづつ分かってきた。
僕が自分に対して自信を持てないのは、育った環境や、育てられた親による原因が大きいのだと思う。
育った環境が悪かったから、僕は自分の価値を感じられない、常に不安を抱かずにはいられない人間になってしまった。
親が精神的にもっと成熟した人だったなら、僕はもっと普通な人生を送れていたはずだと思う。
ちゃんと正しく育てられていたら、こんなにも人間関係や自分との関係で悩まずに済んだと思う。
僕はいつも人間関係で誤った捉え方、解釈をしては傷付く。
他人の言動に直接傷付けられているのではなく、他人の言動に対する、自分の解釈によって、自ら自分を傷付けている。
いつも一人でいたいと思う。集団の中にいることがとても苦痛で、一人でいたいといつも思う。
人と仲良くしたいと思う自分はいるのに、どうしてもそういう気持ちが先行して人と仲良くするということが、人との関係を楽しむということが出来ない。その方法が分からない。
そのくせ嫉妬心や劣等感だけはものすごく強い。
自分自身の価値の判断基準が「頑張れているかどうか」、「他人より優れているかどうか」に依存しているから、嫉妬心や劣等感が強くなるのも当然な気がする。

そういう生き方の基本が根本的におかしい。
おかしくなってしまったのは育った環境によるものが大きいと思うから、思わず母親に『自分の無価値間が強いのは育てられた環境が悪いから!』と言ってしまった。

言った直後に後悔する。
今度はすごい自己嫌悪。
自分の生きにくさの原因を、親に責任転嫁しようとする自分に対しての嫌悪感。

自分はやっぱりおかしい。
自ら自分の人生を苦しくさせている。
何でこんな欠陥だらけの人間に育ってしまったのかな。
生まれ変わって普通の人になりたい。
そしてちゃんとした普通の、悩みのない人生を過ごしたい。