nancy's blog

nancy's film reviews, etc... 日々のできごと、動き回り記録など。最近では映画レビュー中心。

2021を振り返る

2022-01-25 | 日記
もう最近1年ぶり更新とか普通になってきた。

去年も1/22に書いているから、どうも1月のこの時期にブログを書く気になるらしいのだが、なぜなのか自分でも気になる…。

最近の出来事としては、先週友人の三回忌に行ってきた。三回忌なので亡くなって2年ということだ。早いのか遅いのかよくわからない。家族にとっては長い2年だったかもしれないし…あっという間だったかもしれないな。喪失感は癒えただろうか。

彼女の夫と息子は元気で暮らしているようだ。息子はとてもいい子そうだが、かなり美人だった友人に外見は全く似ていない。おそらく内面的に似ている部分が多いのだと思うが、コロナもあってあまり話す機会がなく、よくわからない。これからどんな青年になっていくのか楽しみである。

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別に書かなくてもいいし書くと嫌な気持ちになるが記録として書いておくと、昨シーズンの阪神は2位であった。ゲーム差なしの2位であった。勝利数が最も多い2位であった。

正直、CSで勝ち上がる力も残ってなかったし、上がれたとしても日シリで勝ち日本一になることは厳しかっただろう。でも、とりあえずリーグ優勝はできたはずである。しなければならなかった。今年からスアレスがいないからである。

なぜできないか。できなかったか。

ここまで優勝から遠ざかったチームのファンをこれだけの期間(今年で7年目)やったことがない自分には、よくわからない。ただ言えるのは、とにかく詰めが甘い。

阪神ファンをもっと長くやっている観戦友達は阪神の毎年の失速にはもう慣れっこで、もっと貯金やゲーム差がないと優勝はできないという。今年のアレでは到底足りないと。つまり、僅差では優勝できないのが阪神。ぶっちぎりでないといかんのだ。

そんな年、もう絶対来ないのに…。

本当に阪神ファンをやっているとメンタルが削がれる。気力が奪われる。

そんな中でも、今年はおそらく、自分が阪神を応援し始めて一番楽しい年だったし、だからこそ(リーグ優勝を逃して)一番辛い年でもあった。まだオリックスが日本一になっていればよかったが、ヤクルトが完全優勝したというのがまた気に食わない。阪神はどこよりも多い77勝もしてるのに…。(このことに関しては延々愚痴れる)

同じく新人のベイの牧が、多少調子を落としながらもシーズン中ずっと活躍を維持する一方、大失速したテル。この差は大きい。あまりにも大きかった。テル以外に打てる人がいなかったから。

助っ人外国人とは名ばかりでロハスは言うに及ばず、サンズもマルテもここぞというときにあてにならず、大山も一向に爆発しない。糸井も年棒に合った働きなど夢のまた夢。とにかく新人のテルに負担をかけ過ぎた。

阪神の話はもういいや。

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書いておきたいことがあった。

週刊文春WOMANで連載されている精子提供の話題を興味深く読んでいるが、12号の記事に共感する部分があった。

自分はかねがね、この「精子提供」に関してはずっと思うところがある。それは、生まれてくる子供の親を知る権利を無視していないか?ということだ。

興味を持ったのは女優のジョディ・フォスターが精子提供で子供を産んだ時だから、もうだいぶ前のことだ。調べたら1998年だった。その後父親はメル・ギブソンではないかとか言われているらしいが、ジョディがLGBTであることと合わせて、それはどうでもいい。自分が興味があるのは彼女が精子提供を受けてまで子どもを生むことにこだわったことだ。

週刊文春WOMANには夫のDVで離婚し、その後精子バンクで娘を授かった女性が、「子供たち(離婚した夫との間にすでに息子がいる)にはできる限り早く経緯を伝え、2人とも望まれて生まれてきたのだと伝えるつもりです」と述べている。

望まれて生まれてきたー子供からしたらこれは当たり前であるし、そんなことわざわざ言う必要なんてないと思う。重要なのは、なぜ精子バンクを使ってまで自分を生んだのかという点ではないのか。

注目すべきは同じ記事にあるAID(非配偶者間人工授精)で生まれた子供の証言である。

「子どものためではなく、子どもを持ちたい親のための技術であるAIDに、反対という気持ちは今も変わりません。AIDを続けるなら、多様な価値観を認める社会を目指す中で使うべきです。つまり、結婚して夫婦になったら子どもを産むのが当然という社会的な圧力や世間体を理由にAIDを選択してほしくはない」。(「つまり…」以降の後半部分は自分にはよく意図が伝わらない…)

自分が非常に同意するのは、「子どものためではなく、子どもを持ちたい親のための技術であるAID」の部分である。

結論は出ないのだが、この技術は、男性同士や女性同士のカップルがどうしても子供を欲しい場合以外、つまり上のような場合に認めていいものなのかどうかということだ。

子どもにしてみたら、AIDの場合、明らかに自分は愛情のない(というか関係すらない)男女の間に生まれたということになる。人が生まれるのには様々な事情や背景があり、愛情のある男女間に生まれる場合だけではないのも事実だろうし、そこにこだわってしまったらキリがないものわかる。

でも、そこをよりどころにしないでどうする?という思いも自分の中にはある。(何のよりどころ?と言われても答えられないから突っ込まないで欲しい。)

上に書いた夫のDVで離婚した人の場合、もし息子に兄弟が欲しかったなら、養子でもよかったはず。独身になった段階で、さらに子どもを欲しいと思う気持ちを抑えられないこと、そこでなぜ自分の遺伝子を入れることにこだわりAIDを選択するのか、そこが自分にはわからない。

友人にシングルで子供を産んだ人がいる。彼女は当時付き合っている人との間に子どもが出来たが、相手は結婚を望まなかった。だから彼女は1人で産み育てる決心をしたそうだ。そういう場合とAIDを選択することには、天と地ほどの差があると自分は思うのだが、違うのだろうか。

こういうことを言うと、では望まない性交や夫婦でない相手と関係を持った結果により生まれてきた子どもだって、愛情のない男女の間に生まれたということで言えば同じではないか、それならAIDという方法で生まれる方がいいのではないか?という人も当然いるだろう。

そこが自分ではうまく説明できないが、結果としてそうなって生まれてくる場合と、最初から「子どもを持ちたい」という気持ちだけでAIDを選択するということには、大きな隔たりがあると感じる。

つまり、究極を言えば、そんな制度は基本的にはなくてもいい(または例外を除き基本的に選択できなくてもいい)んじゃないかということ。

生殖医療がここまで進んでしまうと、当然こんな問題も起きてくるのだろう。子どもは基本的には愛情のあるカップルの間にできるもの。例外もあろうがそれはあくまで例外で基本路線はこれであり、「多様な価値観を認める社会」の観点から、同性のカップルが子供を欲する権利までにとどめ、カップルでない女性(あるいは男性)が子どもが欲しいという気持ちだけでこの制度を利用することは、認める必要はないのではないか。

そうやって生まれてくる子どもの立場になって考えたら、本当にそう思う。「お母さんは子どもが欲しかったから精子提供を受けた」-これをすんなり受け入れられる子供が果たしてどれほどいるのか?「親との信頼関係や自分のアイデンティティが一気に崩壊した」と、AIDで生まれた人が週刊文春WOMANの記事の中で語っている。生む方は立場を置き換えてよく考えてみて欲しい。

生まれれば独立した一人の人間であることは当然だが、出自に関することを無視はできないと思う。

愛情のある夫婦の間に生まれた人だけが尊いとか、そんなことを言っているのではない。そんなわけがない。

自分がとても危惧するのは、その基本を蔑ろにするような制度をここまで広く誰にでも適用していいわけないんじゃないのか?ということだ。