千宗旦、千利休の孫で今のわび茶を確立したともいえる人。
彼は息子達の就職活動に極めて熱心で、次男一翁宗守を高松松平家に仕官させ、三男江岑宗左は紀州徳川家に、四男仙叟宗室を加賀前田家に仕えさせた。
やがて次男は武者小路千家、三男は表千家、四男は裏千家を興し、継承していったことは有名。
で、ここに長男が全然出てこない。 若くして死んだのか?と思い、ちょっと調べてみたら、悲しい話のようだ。
長男は千宗拙
ただ、父宗旦との折り合いが悪く勘当され、早くに家を出て江戸で浪人暮らしをしていたと伝えられている。
諸説あるが、宗拙の就職を心配した沢庵和尚の口利きで大名家への仕官が決まりかけたのだが、それを宗拙が断り、沢庵和尚などへの顔向けもあり、宗旦が宗拙を勘当したとも言われているらしい。
そうとは言え、宗旦自身も若い時には、「乞食宗旦」と言われていても大名家への仕官を断ったこともあるようであり、宗拙は父親譲りの性格だったのかも知れない。
宗旦が三男宗左に書いた手紙には「少もへつらい(諂い)不申候」(『元伯宗旦文書』十七号)とあるが、これが宗旦の生き方だったのであろう。大名への仕官を拒んだのは、この生き方故ではないだろうか。
そう言う意味では、宗旦の気質を一番に受け継いでいたのが実は宗拙かも知れず、その長男を勘当することに宗旦は何を感じていたんだろう。
宗拙が京都西賀茂の正伝寺で亡くなった際、宗旦は宗左・宗室宛の書簡に、「宗拙、去六日ニ死去候。絶言語事候。」と述べたあとで、「閑翁宗拙候」と号を贈っている。