すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1624号 神話の国、旅の終わりは西都原

2019-02-22 13:20:55 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】宮崎県に「西都市」という街があることは知らなかったのだけれど、しかし「西都原(さいとばる)」と聞けば反射的に「古墳群」と口を突いて出るほど、私の記憶の引き出しにこの歴史遺構が収まっているのは間違いない。だがその引き出しは随分小さいようで、所在地、実態ともはっきりしない。わが国最大級の古墳群だということだが、いったいどんなところなのだろう。宮崎旅行の最終日、綾町から回り道してみる。



自称に過ぎないけれど「日本古代史研究家」である私は、奈良や関東など、古墳のある風景は見慣れている。しかし西都原には驚いた。市街地の背後の、標高70メートルほどだという台地に登ると、そこは広大な「原」になる。樹木は必要最小限
に伐採されているのだろう、あちらこちらに点在する土盛りが確認される。南北4.2km、東西2.6kmの西都原台地で、前方後円墳、円墳、方墳など319基が現存しているのだ。



これほどの古墳の集積は見たことがない。3世紀末から7世紀にかけて、この列島に古墳が出現する初期段階から終末期にかけて、延々と王の墓や陪塚が築かれ続けたことになる。墳長176mの女狭穂塚と男狭穂塚は5世紀前半の南九州の盟主墳であるとして、陵墓参考地になっている。日向国の真ん中あたりに位置する「西都」には、いったい何があったのだろう、西の都であろうか。一帯58haは国の特別史跡である。



日本神話のプロデューサーたちが、天孫降臨や神武東征といった物語を日向を舞台に構想していたころ、ここには南九州独特の地下式横穴墓などを築く王権が成立していた。その政権と大和朝廷は、いかなる関係にあったのか。古事記が語る通り、大和朝廷のルーツは日向にあるのか。全て謎だ。古代史研究家としては、古墳から古墳へ廻りながら疑問がどんどん膨らんで、ドキドキワクワクひたすら困惑を楽しんでいる。



さらに1912年(大正元年)から、日本で初めてとなる埋蔵文化財の学術調査が行われた遺跡であることも重要である。6次にわたる調査で日本の古墳研究がどれほど進んだことか。出土物調査のための研究所も設立され、1960年代から始まった全国の風土記の丘整備の第1号地でもある。文化財の保護と活用は今も難しい社会的課題であるけれど、ここからヨチヨチ歩み始めたのだと思うと、感慨深い史跡である。

(埴輪家・西都原考古博物館ホームページから)

(埴輪船・西都原考古博物館ホームページから)

かつての研究所は立派な博物館に発展している。史跡奥に建つ県立西都原考古博物館だ。170号墳から出土した「子持家」と「船」の埴輪は重要文化財の見事な造形だが、展示してあるのはレプリカで、実物は東京国立博物館に保管されているという。おかしいではないか。地元に博物館法に基づく施設が整備された以上、実物は出土地に返還すべきだ。それが埋蔵地への敬意であり、レプリカは東博に展示すればいい。



女狭穂塚の拝礼所前を掃き清めているご老体に、陵の前でたわわに赤い実をつける木の名を尋ねると、「これはモチノキ科のですな、クロガネモチと言います」と教えてくださった。宮崎の旅で多く見かけた木なのだ。「よほど不味いんでしょうな、鳥がちっとも食べに来ない」とも。その声をかき消すように、戦闘機の轟音が轟く。「うるさいでしょう、あの丘の向こうに自衛隊のスクランブル基地がありましてな」(2019.1.10)















(西都原考古博物館ホームページから)







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