すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1928号 屏風ヶ浦で地球の歴史を考える

2024-05-12 22:10:48 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】日本中が快晴だというこの日、銚子市の屏風ヶ浦海岸は穏やかな潮風が吹き抜け、散歩者の気分を心地よく弾ませてくれる。剥き出しの地層が巨大な崖を形成し、10キロも太平洋と対峙して続くという屏風ヶ浦の景観を見に来た私は、崖下の遊歩道をゆっくり進みながら地球の歴史に耳を傾けている。だが聞こえてくるのは微かな潮騒くらいで、たまに名も知らぬ野鳥が飛んで来てチチッと鳴いて去って行く。地球の歴史は大きく余りに遠い。



銚子市から西の旭市にかけて10キロほど、緩く湾曲しながらほぼ垂直に切り立つ高さ4、50メートルの崖が続く。岩というより、ざらついた泥のような質感の崖は、細い縞模様が並行して何十層も積み重なっている。「ある時、海底が隆起したのだろう」という想像は私でも可能だ。しかしその「ある時」はいつなのだとなると、私にはお手上げである。ところどころに設置されている解説板で俄か勉強をしながら、46億年の地球歴史散歩を続ける。



崖の下部の層は100万年前、上部の白っぽく重なる層は10万年前の堆積だという。ということは、一帯が隆起したのは10万年前より最近のこととなるわけだが、解説板も時期を特定することは避けていて、「12万年前」の「古東京湾」を図解している。それによると関東平野は筑波山の麓あたりまで海が広がり、房総半島は現在の南半分が海に顔を出すだけ。銚子はといえば、犬吠埼周辺の岩礁がわずかに顔を覗かせる小さな島に過ぎなかった。



だが大海の点に過ぎないこの島は、1億年前の古い地層が押し上げられて顔を出した「点」であり、関東の大地形成に重要な役割を果たしているのだという。つまり1億年以上昔の基盤層が、古東京湾の海底をお椀のように包み込み、武蔵野台地などから流れ込んでくる土砂を受け止めたのだ。その結果、お椀の内部は土で埋まり、広大な平野が出現した。その過程で屏風ヶ浦の隆起も起きたのだろう。12〜10万年前、列島に人類はまだいない。



隆起した海底は長い年月、波に洗われ、「海食崖」と呼ばれる奇観を産んだ。波に削られた泥は西に流れ、長大な九十九里浜を形成した。江戸時代には「赤はげ」と呼ばれ、鹿島や香取神宮に詣でた帰りに立ち寄る墨客・庶民の観光名所になったのだそうだ。解説板にはそんなことまで書いてあるけれど、「チバニアン」については全く言及がない。「赤はげ」から南西に78キロ、半島深部の養老川に露出している新生代第4期更新生中期のチバニアンだ。



地磁気逆転の地層が明瞭に露出しているとして、地球史に「チバニアン期」の名を加えることになった「世界に誇る房総の地層」である。屏風ヶ浦はこのチバニアン期に出現したのではないか。この関連性がなぜ解説されていないのか、ひょっとして私の大発見なのだろうか。草が侵食して今や「緑はげ」になりつつある遊歩道で、私は独り興奮したのだった。頭上の崖の上は関東ローム層が堆積し、銚子特産のキャベツ畑が広がっているとのことだ。



屏風ヶ浦の入口に「富士山可視東端の地」の碑が建っている。太平洋に突き出ている銚子は、富士山や筑波山を目視できることから測量の精度を確認できる絶好の地なのだという。伊能忠敬はここに9日間滞在し、ついに「富士山を測り得たり其の悦知るへし」と日記に記すほど喜んだ。この日は水平線までくっきり眺められたけれど、富士山は見えなかった。潮干狩りに熱中する人たちは「赤はげ」も富士も眼中になく、砂を掘り続けている。(2024.5.10)










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