すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1610号 5世紀の王墓に登る 上毛野はにわの里

2018-12-06 16:35:58 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】高崎市の北部に「三ツ寺」という地域がある。高崎市と合併するまでは群馬郡群馬町の中心域だったから、古くは群馬(上毛野国)の中心だったのだろうと推定される土地である。その三ツ寺で、古い居館址が確認されたと、地元の研究者が連絡してきてくれたのは1981年のことだった。新幹線建設に伴う事前調査で見つかったといい、「おそらく古墳時代だが、とても規模が大きそうだ」と、電話の彼は興奮していた。



もう半世紀も昔になる。社会人生活を群馬でスタートさせた私は、古代上毛野国に点在する遺跡を訪ね歩くことが大きな楽しみだった。そのうえ当時の群馬県は、新幹線や高速道路が計画され、大規模な工場団地が造成される経済成長のまっただ中にあった。掘り返される県土のあちこちで埋蔵文化財の緊急発掘調査が行われており、そうした現場にも足繁く通う私は、調査にあたる地元の多くの研究者と親しくなった。



なかでもお付き合いが深まった石川正之助さんは、私が東京に転勤した後も各地の発掘報告書を送ってくれるなど親切にしていただき、後に「三ツ寺Ⅰ遺跡」と命名されることになる居館址の発見も、いち早く連絡してくれたのだった。しかし私は東京の雑駁な生活に追われ、趣味の「日本古代史研究」はおろそかになりがちで、遺構の確認もしないまま今日まで来た。そしてようやく「かみつけの里」に立っている。



ここは保渡田古墳群と呼ばれる、大型の前方後円墳が点在する一帯で、三ツ寺Ⅰ遺跡の西隣りに整備された遺跡公園である。中核の八幡塚古墳は、全長102メートルの墳丘を二重の周濠が囲む、5世紀後半の前方後円墳だ。私が群馬にいたころ、もちろん存在はわかってはいたけれど、墳丘はほとんど削られ、痛々しい古墳の残骸であった。それが現在は築造時の姿(想定)に復元され、石で葺かれ、埴輪が飾られている。



榛名山の南面が平坦な沃野となって広がる晴れ晴れとした一帯で、5世紀末の榛名山二ツ岳の噴火で、すべてが火山灰に埋もれた土地である。三ツ寺遺跡の発掘以来、居館址の周辺も調査が続けられると、火山灰の下から見事に区画された当時の水田が確認された。そして居館址はこの地の王の館であり、水田がその富の源泉となり、大墳墓を築いて権威を誇示したーーという往時のクニの姿が、明らかになったのである。



古代三ツ寺人たちは、とんでもない天災に巻き込まれたわけだが、後世のわれわれに1500年前の暮らしを目の当たりにできる場を残してくれたことになる。これだけ材料の揃った歴史空間は珍しく、貴重な埴輪公園だ。ただ気になるのは、古代群馬の国名「上毛野」を「かみつけの」と読ませていることだ。群馬大学の尾崎喜左雄博士が健在なら「かみつけぬ」となっていたことだろう。歴史が突然、学閥的臭気を帯びる。

(八幡塚古墳=「かみつけの里」パンフレットより)

しかし現世の人間くささなど関係ないと、北方の榛名山は往時のままに個性的なスカイラインを浮かべ、西へと続く山並みは、浅間を経て妙義山に至る。陽はまさにそのノコギリ状のシルエットに落ちようとして、周堤に並ぶ埴輪の兵士たちを赤く染めている。私はどうも、時間をうんと遡った過去に同調しやすい性癖のようで、復元された世界に過ぎないのに、埴輪の列に気分を置いて、妄想を愉しんでいる。(2018.12.2)







(高崎・観音山古墳)

(同)

(同)

(同)

(同)










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