すずめ通信

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第1930号 房総の王権を語る芝山はにわ群

2024-05-16 12:53:06 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】「芝山町」の位置が知りたくて、銚子駅と千葉駅・船橋駅をそれぞれ直線で結んでみる。「房総半島の付け根」と言う場合、東端は銚子だろうが、西端がどこになるのか迷ったからだ。すると芝山町は、みごとにその2本のラインの中間位置に収まった。つまり「芝山町は房総半島付け根の真ん中」と言っていいのだろう。北総台地の南端が九十九里平野へと降っていくあたりの半島深部で、北側は成田空港が食い込み、町の中央を「はにわ道」が貫いている。



芝山町の所在にこだわっているのは、房総半島に「芝山古墳群」と呼ばれる6世紀の遺跡地があると知ったからだ。しかも中規模ながら前方後円墳もあり、膨大な埴輪が発掘されているという。だとすればその一帯に、何らかの地方王権が存在していたことになる。広大な半島を考えればそうした歴史があって何の不思議もないわけだが、恥ずかしながら私は「加曽利貝塚」の次は「南総里見八犬伝」にまで飛んでしまうほど房総の歴史に疎いのである。



そんなわけで「芝山町ってどこだ?」と調べ始め、「成田闘争が激しかったころ、よく耳にした街の名だ」と思い出す。「三里塚芝山空港反対同盟」による成田空港建設反対運動である。地図を眺めていて「芝山古墳・はにわ博物館」を見つけた。銚子からの帰り、総武本線を松尾という駅で降りる。そこは山武市になるのだが、駅前から芝山町営の巡回バスが出ているのだ。九十九里の平坦部から、30メートルほどの高低差を登って北総台地の上に出る。



あっけらかんとした空が広がっていた九十九里の風景は、涼やかな水田地帯に一変する。ちょっとした土盛り程度に見える丘陵に集落が張り付き、川沿いの水田は豊かに水が張られて田植えを終えている。程よい広さのムラの佇まいはいかにも稲作適地に見え、古くからの営農を偲ばせる。ところどころに黒々と固まる森は、ブランド材として名高い山武杉の植林地かもしれない。道路脇に埴輪像が散見されるようになり、バスは芝山仁王尊に着く。



「こんな鄙びた土地に」と思いがけないほど豪壮な古刹が現れ驚いたが、博物館へと急いで境内を抜ける。「はにわ博物館」は小規模な施設ながら、1956年に発掘調査された全長88メートルの殿塚古墳や、隣接する姫塚古墳の出土埴輪を中心に展示されている。人物埴輪が多く、馬などの動物や家形埴輪も豊富で、種類と点数の多さに圧倒される。保存状態は極めて良好で、修復の手が加えられているのかと思われるほどだが、そうした注釈はない。



これほどバラエティーに富んだ埴輪を展示する博物館は、あまり例がないのではないか。なかでも姫塚古墳は「葬列の埴輪」と呼ばれる、築造当時の状況が確認できる貴重な発掘になったらしい。マスコミが遺跡調査で報道合戦を展開するのは高松塚以降の現象だが、姫塚発掘が今なら、大騒ぎになっていただろう。町は「はにわ道」沿道などあちこちにレプリカを立て、「芝山はにわ祭」を開催して埴輪の町をアピールしている。結構なことである。



房総半島は6世紀後半になって古墳築造が増加し、その結果、千葉県は全国最多の前方後円墳確認地なのだそうだ。ではどんな豪族が勢力を張っていたのか。律令制下の芝山町や山武市は「武射郡」に含まれる。ムサを名乗る豪族の支配があったのだろう。姫塚の埴輪列に並んでいた「背の高い男」がその一人だろうか。想いを6世紀に馳せていると、山武杉の上空を旅客機が上昇していった。成田を飛び立ち、どこに向かっているのだろう。(2024.5.10)














































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