すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第407号 彼岸花あるいは曼珠沙華

2006-09-18 12:55:26 | Tokyo-k Report
【Tokyo】9月は雨の多い季節だと承知はしているものの、これほどだったろうかと今年の長雨に呆れている。台風の影響もあるのだろうか、東京は昨夜来、結構な降りだ。それでも自然はきちんと季節を覚えているようで、一昨日、晴れ間を見て神代植物公園に出かけたところ、「彼岸花」がたくさん花をつけていた。緑以外の彩の少ない季節だけに、その姿はいっそう目立つ。この花について、印象的な文章があるので紹介しておく。

【宮本常一『忘れられた日本人』土佐寺川夜話から】
天保のキキンの時はずいぶん伊予からたくさん来て、シライ谷に小屋をたてて住んでおりました。シライ谷というのはシライの多い谷のことで、シライはシレエとも言い、彼岸花のことです。もともと救荒植物として土佐藩ではこれを田畑の畔に植えさせたようですが、シライ谷は今行っても初秋には火が燃えているようにこの花が咲きそろうと言うことです。

山の中の青一面の木の茂みの中に、この赤い色はずいぶん鮮やかで、通りがかりに見とれてしまうことがあったと申します。 伊予の人たちは一年近くそこに住んでシライを掘り、それを煮て川水でさらし毒をぬき、ついて餅にしました。これがシライ餅です。少し食べるには悪くもないが毎日たべると、決してありがたい食べものではありません。そのシライを食べ、稗や稗ヌカを食べました。(中略)

ある男が山へ木挽に行ってべんとうのシライ餅を食べたがいかにもうまくない、最後の一つを切株の上にのせておいて帰りました。一年ほどたって行ってみると、モチはそのまま切株の上に白くさらされたまま残っていたと申します。


【山田宗睦『花古事記』から】
消しゴムで消すように、過去の自分を消したい。そういう欲求は、わたしの人生の節目にいくどかやってきた。どういうことを消したかったのか、今では細かなひだまで覚えてはいない。かえって、そう思ったときとところの情景が記憶に確かである。法然院から南禅寺に抜けようとして、南禅寺の入口で燃えるような曼珠沙華を見た。

いち面すくすくと林立して、見上げると南禅寺の大甍の列の黒々としているのが、対照的だった。そのとき、自分を消したいと思った。志したときの哲学についての考えが、京大哲学科に入ってみて、いいかげんなものに思えたことにかかわっていた、と思う。

戦争中で人影はなかった。正面はともかく、法然院の方から入っていくと、なにがなし荒廃の風があった。それが好ましかった。以後、訪れない。訪ねる気もない。

裸にて焔と化すや曼珠沙華(中勘助)

三十年前のことである。このときから彼岸花は、わたしの心象深くに根をおろしたのである。折に触れてはヒガンバナについての知見、文章を記憶していったが、それをまとめるだけの筋を見つけられないでいた。

昨年の夏すぎ、前川文夫「ヒガンバナの執念」を、四国へ行く車中で読んだ。この執念という言葉は、ヒガンバナそのものについての形容なのか、ヒガンバナについての前川さん自身の形容なのか、たぶん双方にかかっての名辞と読んだが、このエセーは、わたしも執着してきたヒガンバナについて、一つのはっきりした文脈を提示している。(中略)

確かにヒガンバナの方言は多い。本草綱目啓蒙に、すでに次の名がある。「石蒜 マンジュシャケ シビトバナ (以下略)」。計四十八である。牧野富太郎は五十一の方言があるとしたが、「日本植物方言集」によると、四百十六の方言がある。日本の草木でこんなに方言が多いのはイタドリとヒガンバナの二つである。

そこに前川説が現れた。これも「シロエ系の方言」に着目する。「これは西は対馬から島根県、四国、とんで静岡県に分布し、シーレ、シレイ、シレーバナという傍系を生じて、瀬戸内、兵庫県、隠岐とほぼ前者の間隙を埋めている」。これを解くことで、ほぼヒガンバナの旧名の由来と、この花と日本人のかかわりの歴史とが、わかるわけである。

それには四つの植物が、互いに関連している。①イ②クログワイ③クワイ④ヒガンバナ。「同じころか少し遅れて、ヒガンバナも渡来したと思われる。この鱗形は真白であるので、エグの真黒なのと対比されて、シロエグの名を受けたのであろう。やがてこれが短縮したり、訛ったりして今方言として残るシロエからシーレに通じる方言集団になったのではなかろうか。徳島県三好郡に残る方言シロイモチ、愛媛県新居郡のシロイやシロエは暗示的である」。

この花、不思議と畑のヘリに多い。前川さんが言うように、もと栽培された名残かもしれない。前川説にはもう一つ、専門的背景がある。いわゆる史前帰化植物説である。①稲作に伴う秋に実る一年草で東南アジアを原産地とする第一群②麦作に伴う主として冬越しの二年草でヨーロッパ地中海出身の第二群③地下茎や根で入ってきた主に中国系の第三群。

中尾佐助は前川説を支持し、③についてヒガンバナのほかミョウガ、シャガ、ショウブ、オニユリ、クワイなどの地下茎を持つもの、それにウルシ、カジノキを加え、第三群は照葉樹林文化の初期のものの残存とした。つまり史前帰化植物の渡来史では③②①の順序ということになる。

この花が、この列島への人と文物の渡来のうちで最も古いものの一つだと言うことを、わたしは想起して、一種の懐かしさを覚えた。三十年前、この花のしとど咲く南禅寺で、わたしは、自分のそれまでの人生を消しゴムで消すように消したいと願った。青春の日の潔癖さと清算主義がそこにはあった。

そのとき吹きだすように赫かったヒガンバナが、はるかの史前帰化植物の一つで、消えようにも消えることなく存続してきたことを、今のわたしは知っている。しかも、民俗学系のヒガンバナ考は赤い花、青い葉のほかは知らなかったが、思いきや鱗茎の白さからシロエという名で知れ渡ってきたのも、面白い。変転して、人生は、植物は、どこに続いていくのであろうか。      


【榊莫山『莫山仏心紀行』から】
マンジュシャゲというのは、梵語で、真紅の花という意味らしい。野では、たいてい真紅の花が群生して、とても情熱的な風景をかもし出す。

子供のころ、そのヒガンバナを手折って遊んでいると、「アホ、その花は毒の花や。はよう捨てんかい」と、大人たちに叱られた。なのに、このヒガンバナは薬用植物にされる不思議な花なのである。事典をひくと、「ヒガンバナ属の鱗茎(りんけい)は、デンプンを多量にふくみ、食用となる」とかいてある。が「毒性のあるアルカロイドをふくむ」ともある。

さらに、もう一つ不思議なことがある。ヒガンバナは、花を咲かせているときには、葉がない。土中から花の茎が、つんつん立っているだけだ。

十月にもなれば、花はもう見られない。実をつけて種子をふくらませたりはせず、いつとはなしに、花の姿は消えてゆく。

そして晩秋に、葉が出てくる。木の葉や草が、散ったり枯れたりする季節。ヒガンバナは、ひとり葉をのばすのだ。とてもひねくれもの、だと思う。季節の常識に従わず、春がきて草木が目をふくころ、ヒガンバナの葉は枯れてゆく。


【中村浩編『牧野富太郎植物記』から】
川の堤や道端、また墓地などに秋のお彼岸のころ赤色の美しい花を開くヒガンバナ一名マンジュシャゲは、別の名をシビトバナ(死人花)、ジゴクバナ(地獄花)、ユウレイバナ(幽霊花)などともいわれます。これはむかし中国で、葉と花を同時につけないものを嫌う習慣があり、これが日本にも伝わってきたからです。

その花の色が血のような赤い色をしていることも、日本人には美しいというよりも、毒々しい感じを与えるものと思われます。アゲハチョウ以外にはチョウのなかまもこのヒガンバナには集まってきません。けれど外国人などは、この花を美しいといい、アメリカなどではわざわざ日本から鱗茎を輸入して栽培している人もいるほどです。              
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