すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1874号 王権発祥の地・纒向を歩く

2023-08-06 15:52:39 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】山辺の道を南に辿る時、巨大な前方後円墳群を経て穴師山と三輪山を分かつ巻向川の細い流れを渡るころには、深閑とした森の傍を檜原神社に近づく道が延びて、晴れ晴れとした眺めに疲れを癒されるのが常である。だから私も「纒向(まきむく)」という土地の名は馴染みが深く、檜原社から箸墓へ坂を下ったこともある。ただ日本史において、これほどただならぬ土地であるとは思い至らなかった。「纒向遺跡」の発掘調査が明らかにしつつある。



「万葉まほろば線」という愛称があるらしいJR桜井線を、畝傍から乗車して香具山、三輪を経由して巻向で降りる。駅名をたどるだけでも確かに「万葉まほろば」である。巻向は小さな無人駅で、稲田の中に新興の建売り住宅が進出しているごくありふれた風景だ。ただ家並みの向こうに三輪山、振り向けば遠く二上山が霞んでいる。突然、私はタイムスリップして、2000年ほど遡った大和平野の空中を浮遊し始めた。以下は眺めたままの報告である。



わずかな縄文人が暮らしているだけだった盆地に、西から顔つきが異なる集団がどんどんやって来て、低地の川筋にムラを造りコメを植え始めた。すると土地争いが勃発し、中国の史書に「倭国乱れ、相攻伐すること暦年」などと記録される有様だ。そこへ卑弥呼が登場し、大乱はようやく治まる。ただ目を凝らして見るのだが、卑弥呼の居所は大和なのか九州か、判然としない。盆地真ん中の唐古・鍵の大集落は消滅し、古墳時代が幕を開けたようだ。



纒向では大規模な土木工事らしい。たくさんの掘立柱を並べて大屋根をかけた御殿のような建造物が並び、運河だろうか、大きな溝が掘られている。付近では前方後円という不思議な形の墓が築かれてもいる。人が大勢集まっているのは「大きな市」で、持参している土器類は様式がそれぞれ違うから、いろいろな土地からやって来た人たちなのだろう。言葉は通じているのだろうか。家族が農作業に精を出している、多くのムラとは様子が異なる。



一番大きな建物を覗くと、中央で偉そうな人物が、集まった者たちに「鏡」を与えている。後世の学者が「三角縁神獣鏡」と名付ける、卑弥呼が魏の帝から賜った「銅鏡百枚」の類だろう。時代はすでに3世紀半ばを過ぎ、卑弥呼は死んで「径百余歩」の墓に入っている。新しい権力者が「鏡」を与え、勢力を拡大しているのだろう。みんな感激しているのは、これがあれば地元に帰って「王」を名乗り、一族はヤマトの大王と似た墓を築くことができるからだ。



ここまで観察して私は目が覚めた。纒向遺跡は柱穴に目印の丸太が建てられ、ここに大きな建物があったことを理解させてくれる。それは大和盆地に増殖したムラが纒向王権のもとに統合され、新たなヤマト王権を生んだ地なのだ。そして「倭の五王」らが河内や出雲、吉備、筑紫を次々征服、王権は飛鳥に移って国づくりを始めるのである。改めて四囲を眺める。大和高原に背後を守られ、盆地を見晴らすいい立地だ。三輪山に群雲が湧いている。



これでいつか箸墓が調査され、倭迹々日百襲姫命が卑弥呼であり、大市墓はその墓であると確定されたら、それは面白いけれど、恐らくそんなことはないだろう。邪馬台国とヤマト王権は直接つながる関係にない、との考えに私は傾いている。それでも箸墓近くのホケノ山古墳が発掘調査された際は、「もしやこれこそが卑弥呼の墓ではないか」などとひそかに興奮したものだ。そんなことを思い出しながら、ホケノ山に登って箸墓を望む。(2023.7.20)

























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