本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (49p~52p)

2016-01-29 08:30:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
す。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年版)>
 「やった!これで分かったぞその日が」と私はほくそ笑んだ。松田甚次郎が初めて賢治を下根子桜に訪れた日は大正15年12月25日だったんだ。
 しかしその喜びも束の間、待てよ何かおかしいぞという気がしてきた。たしかその頃賢治は滞京中ではなかったのか、花巻には居なかったのではないかと。
 ならばその頃の賢治の行動を「新校本年譜」で確認してみよう。12月中に関しては次のような内容になっていた。
 12月1日 定期の集りが開催されたと見られる。
 12月2日 花巻駅より、澤里武治と柳原昌悦<*>に見送られながらセロを持って上京。
 12月3日 着京し神田錦町上州屋に下宿。
 12月12日 東京国際倶楽部の集会出席等。
 12月15日 政次郎に書簡にて「二百円」の送金を依頼。
12月20日    〃    重ねて「二百円」の送金を依頼。
12月23日    〃    29日に帰郷すると知らす。
<『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)』(筑摩書房)>
ここには12月29日に帰郷したとはっきりは書いていないが、それまでは滞京中であると思われる。恐れていたとおりだ。はたして、事実はどっちだったんだろうか…。参ったな、どうすればいいのだろう。途方にくれそうになった時にふと思い出したのが『新庄ふるさと歴史センター』であった。
<*> このことに関しては前述したことがあるように
「澤里武治一人に見送られながら花巻駅から7度目の上京をした」
とばかり思っていたが、その後あるとき、実証的宮澤賢治研究家のC氏から
「そのとき花巻駅に見送りに行ったのは澤里武治だけでなく柳原昌悦も行っていたのです」
と教えてもらった。というのは、かつてC氏が柳原昌悦本人から直接取材した際に、柳原は
「一般には一人ということになっているが、俺も澤里さんと一緒に行ったのです」
と証言していた、とC氏は私に語ってくれたのである。何にも書かれていていないことだけれども、と。となればもしかすると、賢治が「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」と語ったことを柳原も聞いていたかもしれない。

4 松田甚次郎の古里訪問
 どうして私はふと『新庄ふるさと歴史センター』を思い出したのだろうか。それは過去に一度そこを訪れた時のあるものが私をそうさせたに違いない。
 松田甚次郎の足跡を訪ねて
 かつて松田甚次郎の古里新庄市鳥越を訪ねたことがある。それは松田甚次郎生誕百周年の2009年のことであった。昭和2年3月8日に賢治を訪ねて「小作人たれ、農村劇をやれ」と賢治から諭されて実際そのとおりに実践、いわば「賢治精神」を忠実に実践したであろう松田甚次郎のことを以前からもっと知りたいと思っていたし、節目の年だから何かしら記念行事等の催し等が行われているのではなかろうかとも思ったからである。
 初めて乗る山形新幹線、たぶん『松田甚次郎記念館』などが創られるなどという動きもあるのではなかろかと車中で勝手な想像をしながら思いに耽っていたならば、思いの外早くその終点新庄駅に着いた。何はともあれ早速鳥越にタクシーを走らせ、松田甚次郎の足跡のいくつかを辿ってみた。具体的には鳥越八幡宮、そこの境内にある土舞台、最上共働村塾跡、如法寺、隣保記念館跡地、生家、墓地等を歩き廻って当時に想いを馳せてみた。
 ところが、生誕百周年の年ではあったのだがとりたててそのようなことを記念する催しも、また記念館を建てるというような動きもともにないように感じた。そのような形跡も情報も得られなかったからである。賢治の生誕百周年の際の賑々しさに比べてこの静けさは歴史の必然なのだろうかと一抹の寂しさを感じてしまった。
 思うに、大ベストセラー松田甚次郎著『土に叫ぶ』や松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』は、それまでは地方に埋もれていた存在であった賢治の名を全国に知らしめるために多大の貢献をしたはず。なのに昨今、松田甚次郎の名は殆ど忘れ去られつつあるという寂しさを感じながら、次に訪れたのが新庄市立図書館と『新庄ふるさと歴史センター』である。
 まず先に図書館を訪れた。そこには松田甚次郎に関する資料が纏めて置かれているコーナーがあり、いくつかの資料が閲覧出来た。その中には見てみたかった資料等も幾つかあり、特に、斎藤たきちの「賢治の心で山形の地を生きて」という資料は興味深かいものであった。次に訪れた『歴史センター』は、その2階が『新庄市民俗資料館』になっていてそのフロアーに「郷土人物館」というコーナーがあり、松田甚次郎に関する展示もいくつかあった。ガラスケースの中には松田甚次郎の日誌(もちろん閲覧は出来なかった)の展示もあって興味深かったのだが、正直言って思ったよりその展示資料の量・内容ともにあまり豊富でなかった。松田甚次郎は戦意昂揚に協力したと見なされてあまり評価されていないせいなのだろうか。そのあたりのことをセンター長に訊いてみると、松田甚次郎の農村改善運動等には功罪両面がありその評価は未だ定まっていないからであろうということであった。
 これが1回目の新庄訪問であった。
 2度目の新庄訪問
 さて前述したように、大正15年12月25日はたして松田甚次郎は賢治の許を訪れていたのかいなかったのかということが分からなくなっていた時に思い出したのがこの『新庄ふるさと歴史センター』であった。それはそこに松田甚次郎の日誌が陳列されてあったということを思い出したからである。彼の日記を見ることが出来ればいずれであるかが判るではないかと。
 しかし問題はその日誌を見ることが出来るか否かだ。学者でも研究者でもない私が松田甚次郎の日誌を閲覧出来るはずはないよなと思いつつ、厚かましくも駄目元で同センターに問い合わせてみる。
「宜しければ松田甚次郎の大正15年と昭和2年の日誌を見せていただけないでしょうか」
と。するとなんと受話器から
「宜しいですよ。それではこちらにお越しになる前にその日をお知らせ下さい。準備しておきますので」
という返事が聞こえてきた。嬉しさのあまり私はあやうく「やったっ!」と叫ぶところだった。
 ということですぐさま訪ねたのが2度目の新庄訪問で、それは2月の末であった。新庄に近付くにつれて車窓からの眺めに驚きが増していった、あまりの積雪の多さに。岩手の積雪も少なくはないが、新庄の雪の多さは桁違いだった。新庄駅に下り立ってみると3月間近だというのに積雪が私の背丈よりも高かったからだ。この時期でかくの如くであるなら、真冬とか昭和初頭の頃ならばここの積雪の多さは推して知るべしだ。それだけでも松田甚次郎の実践は凄かったに違いないと直感した。松田甚次郎は農閑期の冬、農民を啓蒙する講演のために猛吹雪の中を幾度も駆けずり回ったと『土に叫ぶ』でたしか語っていたはずだからである。雪の回廊の中、そんなことを思い出しながら『新庄ふるさと歴史センター』に向かった。
 そこへ着いたのはまだ昼時だった。恐縮しながら、
「松田甚次郎の日誌を見せてもらいたくてやって参りました者です」
と受付の方に告げると、なんとわざわざセンター長が自宅から駆けつけて来て、大正15年と昭和2年の松田甚次郎の日誌を見せてくれた。いの一番に開いて見たのはもちろん大正15年12月25日の頁である。

5 『松田甚次郎日記』より
 幸いにも見ることが出来た松田甚次郎の二冊の日誌。それらはいままで私が抱えていた2つの懸案事項を一気に解決させてくれた。
 大正15年12月25日の日記
 その一つは、松田甚次郎の大正15年12月25日の日記には次のようなことなどが書かれていたからである。
    …
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
  人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
  明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ
  快晴  赤石村行 大行天皇崩御
<『大正15年 松田甚次郎日記』>
 したがってこの日記に従うならば、松田甚次郎はこの日(12月25日)は花巻にではなくて日詰に行き、大旱魃によって飢饉一歩手前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。南部せんべいを一杯買ひ込んで国道を南下しながらそれを子供等に配って歩いたのだろう。そして、盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛かったというようなことも記している。したがって慰問後は直接盛岡に帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしていた訳ではない。因みにこの日に購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことも確認出来た。その日記帳には金銭出納も事細かに書かれていたからである。
 というわけで、一般には他人の著書よりは本人がしたためた日記の中味の方が遥かに信憑性が高いだろうから、松田甚次郎本人のこの日の日記から
〝松田甚次郎の赤石村慰問は一般に3月8日の午前と思われているようだが慰問したのは大正15年12月25日であるし、この12月25日に甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねてはいない。〟
と結論していいであろう。つまり
(ア)松田甚次郎は大正15年12月25日に下根子桜を訪れていない。佐藤隆房著『宮澤賢治』には同日そこを訪れたと書いてあるが、それはフィクションである。
(イ)松田甚次郎は大正15年12月25日に赤石村を訪れて慰問しているが、自身の著書『土に叫ぶ』では昭和2年3月8日に赤石村を訪れたかのように受け止められるような書き方をしている。しかしそれはこの日のことの記憶違いであろう。
ということではなかろうか。
 やった!これで今までのもやもやの一つが霽れた、と私は心の内で抃舞した。新庄は遠かったけれど真実には近づけた。心から『新庄ふるさと歴史センター』とセンター長に感謝した。
 それにしても佐藤隆房は大正15年12月25日に松田甚次郎は下根子を訪れたと、それも恰も見ているかの如くその様を生き生きと「書いた」のはなぜなのだろうか。明らかな虚偽がそこにはあるが、さりとて全く無関係な日かというとそうでもなく、大正15年12月25日は旱魃で困窮しているであろうことに心を痛めて松田甚次郎が赤石村を慰問した日ではある。しかし『土に叫
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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