本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (53p~56p)

2016-01-30 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
ぶ』など一連の松田甚次郎の著書を読んでもそれらからは慰問した日が「大正15年12月25日」であるということを知る由はないはず。なのに、わざわざこの日「大正15年12月25日」を松田甚次郎が初めて下根子桜に賢治を訪問した日として佐藤隆房は「特定」してでっち上げたのか、その偶然性が気になる。
 また松田甚次郎自身も、どうして『土に叫ぶ』で
「或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
と、自身の日記とは矛盾するような書き方をしたのであろうか。もしかすると松田甚次郎の場合は当日12月25日は大正天皇が亡くなった日だからそのことに遠慮をして書き換えたのだろうか。
 いずれこれらのことに鑑みて言えることは、活字をそのまま事実であると鵜呑みにしてはいけない、検証せねばならぬということなのだろう。私はつい、出版されているものを読むとそれが真実であると受け止めがちな傾向がある。しかし以前述べた宮澤賢治研究家E氏の〝千葉恭は盛町出身〟といい、今度の佐藤隆房の〝大正15年12月25日〟の件といい、この松田甚次郎の〝昭和2年3月8日〟の件といい、活字になってはいたがいずれも真実そのものではなかった。真実を掴むためにはやはり検証が必要だし、大切なのだということをいまさらながらに思い知らされたのである。
 とはいえ、やっとこれで一つの懸案事項は解決出来てそれまでの大きな胸のつかえがおりた。ただし松田甚次郎のこれらの日誌を元にして確認しなければならないことがもう一つある。それがその時新庄を訪ねた最大の目的であったゆえに。
 二つ目の懸案事項
 さてこの時の新庄行の最大の目的は次のようなもう一つの懸案事項を解決することであった。それはいままでずっと解明出来ずにいた、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日を解明することであった。もっと正確にいうと松田甚次郎が盛岡高等農林入学後、甚次郎が下根子桜に初めて賢治を訪ねたのはいつで、その後いつ何回ほどそこを訪ねていたのかを知ることが最大の目的であった。
 そこで、『新庄ふるさと歴史センター』で見せてもらった大正15年及び昭和2年の松田甚次郎の日誌を、前者については3月末から、後者については8月末までしらみつぶしに調べてみた。それも単に日記だけでなくてその日誌に付いていた現金出納帳も目を皿にして付き合わせてみた上でである。その結果分かったことは
〝松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたと記してあった日は昭和2年3月8日と同年8月8日の両日だけであった。〟
ということであった。
そしてこの両日の日記の中味はそれぞれ次のようなものであった。

 昭和2年3月8日の日記
 昭和2年3月8日、つまり初めて松田甚次郎が賢治の許を訪れた日の日記には
 忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ
 reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   unpple
 2.30. for morioka 運送店
stobu 定盛先生行
 nignt 斎藤君
 今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の
 誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ.
 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
 吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ盡力スル
 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
 おゝお郷里の方々!地学会、農藝会
 此の中心ニ吾々のなすヲ見よ.
 現代の農村生活ヲ活カスノダ
 晴 関西大地震 花巻行
と記されていた。

 昭和2年8月8日の日記
 一方2度目で、それが最後の訪問になった昭和2年8月8日の日記は
  …
 農村青年ノ今後 彼モ力ナル
 ベキヲ与フレバマタ現在モ?大シ
 メルノミナレバトテカヤ
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ!
 花巻宮沢先生へ  歸宅
というものであった。
 甚次郎が賢治を訪ねた日の確定
 いよいよ結論へと進もう。『松田甚次郎日記』に書かれていることに基づけば
☆松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない。
またこのことと、松田甚次郎は昭和2年に高等農林を卒業しているということから
☆松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に下根子桜に賢治を訪ねたのは〝たった1回だけ〟であった。
と結論して間違いなかろう。なんとこれで二つ目の懸案事項が解決出来てしまった。
 なお、松田甚次郎自身は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)の「宮澤先生と私」の中で
「初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである」
とか、『土に叫ぶ』ので出しで
「その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
とか、かなりの回数そこを訪問しているかのような書き方をいるが、それはおそらく彼の思い違いか、あるいは思わず筆が滑ったかのどちらかであろう。
〝たった1回だけ〟の持つ意味
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日が確定した。それも望ましい形での確定だったから私はその幸運に感謝し安堵した。それはこの事実そのものが分かったこともあるが、それ以上にこの〝たった1回だけ〟であったことにであった。そして、この〝たった1回だけ〟であったことは二つの意味で私を驚かせる。
 その一つの意味はもちろん、この〝たった1回だけ〟が松田甚次郎のその後の人生を決めたことにである。初めて会った賢治に如何に松田甚次郎は魅惑され、信服し、一方賢治は松田甚次郎を心酔させたかということであろう。そういえばこの時期賢治は頗る精神が高揚していた時期であったはず<*>だから、おそらく松田甚次郎は賢治に圧倒され、カリスマ性を感じたに違いない。ただしこちらの意味の方はその時の新庄行においてはそれほど重要なことではなく、もう一つの〝たった1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだったが、そのことについては後ほど述べたい。
<*> この直前に次のようなことがあった、あるいはあったと思われることから推測出来る。
・昭和2年3月4日に下根子桜で集まりを開き交換会や競売等も行っていたと見られる。
・昭和2年3月4日〝地人學会〟創立の協議がなされて発足、少なくとも当日6名の加入があった。
・一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕一九二七、三、四、を詠む。
 とまれこの2度目の新庄行の最大の目的、〝いつ何回ほど松田甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねていたかということを探る〟という目的は達成出来た。また、そのことにより千葉恭の下根子桜寄寓期間に関しても大きな情報を得ることが出来た。再び新庄まで来た甲斐があった。それも偏に『新庄ふるさと歴史センター』及びセンター長のお蔭であると感謝しながら新幹線に飛び乗った。

6 賢治から松田甚次郎がどやされた日
 では、私にとっては「もう一つの〝たった1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだが」について述べてみたい。
 そもそもなぜ私はここまで松田甚次郎の下根子桜の訪問回数とその日がいつかを調べてきたのかというと、松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟と千葉恭の目からは見えた日がいつかを確定したかったからだ。
 千葉恭は賢治から〝どやされた〟甚次郎を見ていた
 以前述べたことでもあるが千葉恭は、「宮澤先生を追つて(三)」において
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
と、また「羅須地人協会時代の賢治」において
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
と証言しているので、千葉恭は下根子桜の宮澤家別宅寄寓中に賢治を訪れた松田甚次郎本人を、それも賢治から〝どやされ〟ていると千葉恭には見えた松田甚次郎本人の姿を目の当たりにしていたに違いないと考えていた。
〝どやされた〟のは賢治を訪ねた日
 当然のことながら、松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟のは賢治の許を訪ねた日でしかあり得ない。それは『松田甚次郎日記』を調べた結果、
〝松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない〟
ということが判明したから、この両日のどちらかでしかあり得ない。
 さてこの両日のそれぞれについて、昭和2年3月8日の訪問に関しては
 先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。
とか 
 黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そ
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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