本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (45p~48p)

2016-01-29 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
の如く記す。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   [?]pple
 2.30. for morioka 運送店
…(略)…
<『校本宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)>
とあることから、昭和2年3月8日であることが分かる。
 したがってこれらの資料から、松田甚次郎は友人須田と二人で昭和2年3月8日(火)の午前には旱魃に見舞われて困窮していた赤石村を慰問し、同日の午後には下根子桜の賢治宅を訪れていたといえそうだ。
 松田甚次郎に対する〝先生の訓へ〟
 そして、この下根子桜訪問の際に賢治から諭された〝先生の訓へ〟がその後の松田甚次郎の生き方を決めた。そのあたりのことを松田甚次郎は自著『土に叫ぶ』で次のように語っている。
 赤石村を慰問した日のお別れの夕食に握り飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。…(略)…
 真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覚の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
 そしてその後、松田甚次郎は賢治から言われたとおりほんとうに小作人(松田甚次郎の実家は豪農であったのに)となり、農村劇を幾度も上演し、黙ってそれらを十年間実践したというのである(因みにその実践報告書がベストセラー『土に叫ぶ』である)。このことに鑑みればなおさら、賢治の松田甚次郎に対する教訓の仕方は私にとっては正直意外であった。「そんなことでは私の同志ではない」という先に外堀を埋めてしまう賢治の論法、妥協を許さない強い姿勢は私が抱いていた賢治のイメージからはかけ離れていたからである。
 また、松田甚次郎が知っていたか否かは定かではないが、当時賢治は小作人になっていたわけでもないし、農村劇(農民劇)をやっていたわけでもないはず。なのにそれを他人に半ば強要していたとすれば賢治の教訓は当然アンフェアである。だから、私はあの賢治がまさかここまで言うか、とさえも思ってしまう。一方で、もしかすると賢治の教訓の仕方の真実はこれほどのものではなくて、賢治の言い方に対して松田甚次郎が自分の想いを織り込み過ぎて事実を多少粉飾した文章になっているのではなかろうかとも思ったりはするのではあるが…。
 千葉恭の受け止め方
 ところで、この時の賢治が松田甚次郎に訓示を垂れている様こそが、『イーハトーヴォ復刊2号』において千葉恭が
 〝松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。〟
と語っているシーンを彷彿とさせる。そこでもしかするとこの場面を目の当たりにして千葉恭は〝どやされた〟と言っているのではなかろうか、と私は直感した。
 周知のように、この頃すでに賢治はそれまでのような旺盛な活動からは退却していったと言われているはず。この訪問日より1ヶ月強ほど前の昭和2年2月1日付岩手日報において
「目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる」
と取材に答えていた賢治であるが、この日を境にしてそれまでのような活動は下火になっていったと聞く。その後農民劇だけは着々とその準備をしていたということも考えられるが、賢治はその後農民劇を上演したということは少なくともなかったはず。一方、豊沢町の賢治の実家は当時10町歩ほどの小作地を有していた大地主と聞くが、松田甚次郎とは異なり賢治自身は小作人になっていたわけでもない。
 そのような状況下に賢治があったということを、もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別宅に寄寓していたとすれば彼は承知していたはずだ。そうだとするならば、賢治の実態と松田甚次郎に垂れた〝先生の訓へ〟との間には乖離があるので違和感があると千葉恭は受け止めていたかも知れない。もともと千葉恭は冷静な考え方をするタイプだし批判的な見方も出来る人物のようだから、この受け止め方が千葉恭をして〝どやされた〟という表現をなさしめたのかも知れない。もしそのような違和感を持っていなければ例えば〝強く諭された〟というような表現をすると私は思うからである。
 推論の欠陥と修正
 ここまで推論して来て私はこの推論の仕方にやや欠陥があり、迷路に嵌りつつあることに気が付いた。この様に推論出来るのは、
〝もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別宅に寄寓していたとす れば〟
という条件下で、であると思い込んでいたが、もう一度冷静に振り返って推論の仕方を修正する必要がありそうだ。
 そもそも私がなぜこのような考察をして来たかといえば、
〝千葉恭は昭和2年3月8日に下根子桜に賢治を訪ねて来た松田甚次郎を見ており、その時松田甚次郎が賢治からどやされた場面を目の当たりにしている。〟
という仮説を実は持っていたし、その検証をしたかったからであった。そしてこのことが検証出来れば自ずから
〝千葉恭は昭和2年3月8日頃も下根子桜の宮澤家の別宅に寄寓していた。〟
ということも言えそうだと思っていたからである。
 もちろん松田甚次郎が下根子桜の賢治の許を訪れていたのがこの一回だけであれば話しは簡単でこれで終わる。ところが、松田甚次郎はその他の日にも下根子桜の賢治の許を訪ねていてしかもその時賢治から〝どやされ〟ていたということがあれば、千葉恭が3月8日に下根子桜の宮澤家の別宅に寄寓していたということは保証出来なくなる。その他の日にも訪れていなおかつ〝どやされ〟たことがあれば昭和2年3月8日に千葉恭がその現場にいたという保証にはなり得ないからである。
 実際、松田甚次郎は『土に叫ぶ』ので出しで
「その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
と〝暇乞い〟に行ったと語っているのだから、この日(3月8日)よりも前にもそこを何度か訪れているということをこの表現は示唆しているような気もするし…。

3 松田甚次郎の桜訪問回数
 さてこうなれば、松田甚次郎が賢治の許を訪問したことは昭和2年3月8日以外にもあったのかなかったのか、あったとすればそれはいつだったのかということをまずは探る必要があると覚ったので、そのことを次に試みたい。
『宮澤賢治研究』より
 その関連で思い出すのはまず松田甚次郎著「宮澤先生と私」という次のような回想である。
 盛岡高等農林学校在学中、農村に関する書籍を随分と読破したのであるが、なかなか合点が行かなかった。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協会の事が出て居つたのを読むで訪れることになつたのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる様ななつかしい面持ちで早速二階に通された。
 明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて来る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光つて見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
 先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持参せられて、食事をすゝめられた。
 かくして私共は、慈父に久し振りで会ふた様な、恩師と相語る様にして下さつたあの抱擁力のありなさる初対面の先生にはすつかり極楽境に導かれてしまった。
 それから度々お訪ねする機を得たのであるが、先生はいつも笑つてにこにこして居られ、文化はありがたいものだ、此処に居てロシアの世界的なピアノの名曲を聴かれるとてロシアの名曲を聴かしてくだされたり、セロを御自ら奏して下さつたものである。…(略)…
 私が先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが、私が先生の教えを奉じて、最初に農民劇を演ずべくその脚本を持參して伺つたのであるが、非常に喜ばれて事細かく教示を賜り、特に篝火を加えて最高潮を明にして下さつたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書)>
 この回想を読んでみて気になったことが3点ある。その第一は、
「初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである」
の部分である。この時が松田甚次郎が賢治を下根子桜に訪ねた最初であり、その後何度か、それもしばしばそこを訪れたと受け取れる表現をしているからである。
 その第二は、
「先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが」
のところである。つまり松田甚次郎が賢治の許を訪ねた最後は昭和2年の8月であったと言っている点である。
 その第三は、
「先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて」
と述べている点である。
 そしてこの第三の証言の中の〝十一時半〟という時刻から、松田甚次郎が最初に賢治の許を訪ねた際には午前中からそこを訪れていたということになろう。すると、最初の訪問日は昭和2年の3月8日ではなさそうだ。なぜなら『土に叫ぶ』からは、千葉恭は3月8日の午前中は赤石村を慰問して午後に下根子桜を訪れたと読み取れるので、同日の午前中にはまだ甚次郎は花巻に着いていなかったことになるからである。
『宮澤賢治』(佐藤隆房著)より
 さて、では千葉恭が賢治を下根子桜に最初に訪れたのはいつだったのであろうか。そこで次に思い出したのが『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)である。その中には「八二 師とその弟子」という節があり、次のようなことがあたかもその光景を見ているかのように綴られている。
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされていま
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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