本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(40p~43p)

2016-02-20 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
                  一九二七、四、十一、   
   えい木偶のぼう
   かげらふに足をさらはれ
   桑の枝にひっからまられながら
   しゃちほこばって
   おれの仕事を見てやがる
   黒股引の泥人形め
   川も青いし
   タキスのそらもひかってるんだ
   はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)122p>
 前者では、「下根子桜」に移り住んだ直後に詠んだであろうその出だしの「酸っぱい胡瓜をぽくぽく噛んで/みんなは酒を飲んでゐる」からそれを感じ取れる。
 また、それから約一年が経ったというのに、その時に詠んだであろう後者からはズバリそれが読み取れる。この「えい木偶のぼう」も「黒股引の泥人形め」もともに近隣の小作人のようなある百姓のことであろうし、しかもあの〔雨ニモマケズ〕の「デクノボー」がここでは「えい木偶のぼう」と苦々しい思いを込めて詠み込まれているのである。まさに賢治の教え子小原忠の、
 櫻での生活は赤裸々に書き残されているのでそれを見れば一目瞭然で、過労と無収入のためかムキ出しの人間賢治が浮き出されている。
<『賢治研究13号』(宮沢賢治研究会)5p >
という評は、このようなことを指しているのかもしれないと私は思ってしまう。
 あるいは一方で、座談会「宮沢賢治先生を語る会」におけるK(高橋慶吾)の証言、
 (賢治は)純粹の百姓の中から藝術家は出來ないと云うてゐた。若し出たとすれば、それはその人の先祖が商人であつたとか、士族であつたとかさういう系統を引いた人なんだと云つた。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)249p>
 はたまた、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」における川村尚三証言の中の
 農民は底にひそめた叛逆思想をもっていて、すくいがたいがとにかく今一番困ることに手助けしてやらねば……というようなことを言ったのも記憶している。
<『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)220p>
などを思い起こしてみると、賢治自身もやはり心の底では前頁の〝③〟のように、あるいは
   農民なんかずるい。とりわけ小作人は。
と捉えていたことは否めないようだ。そして、賢治の農民に対する姿勢は、あくまでも「手助けしてやる」という上から目線であったということもである。
 つまるところ、抜きがたい農民に対する蔑視が賢治にもあったということになりそうだ。だから当然、そのような立場になること、とりわけ「小作人」になるなどということは毛頭彼の頭の中にはなかったのだったと解釈すれば、すなわち、賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがやはりあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ完全に氷解する。端的に言えば、甚次郎は「純粹の百姓」であり、それと違って自分は「先祖が商人」であるという抜きがたい階級意識が賢治にはあったのかもしれない。
 とはいえもちろんあの賢治のことだから、「羅須地人協会時代」にこのような抜きがたい農民蔑視があったことの重大さと深刻さに後々賢治は初めて気付き、自責と悔恨の念が次第にもたげてきて慙愧に堪えなかったはずで、そのことが賢治をして、
・「殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」という謝罪の書簡(258)を伊藤忠一へ出させしめ、
・手帳に〔雨ニモマケズ〕を書かせしめ、
・柳原宛書簡(488)には「慢」の一字を書かせしめた。
のだという蓋然性がかなり高いのではなかろうかということを私は思い付く。
 そしてまさにそこにこそ人間賢治の「真骨頂」があり、素晴らしさがあるのだと私は確信する。葛藤と苦悩の果ての賢治にこそ私は人間的魅力を感じ、愛すべき賢治をそこに垣間見る。

 昭和二年は「ひどい凶作であつた」という誤認
 さて話は変わって、当時盛岡測候所長であった福井規矩三が「測候所と宮澤君」の中で
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
と述べているが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に記されている当時の天気から判断すれば、花巻周辺ではそんな「ひどい凶作であつた」とは言えなさそうだし、当時の新聞報道を見ても少なくとも花巻の稲作の作況と福井のこの証言との間には矛盾がある。そのことを以下で検証してみたい。
 まずは、昭和2年10月1日付『岩手日報』に岩手県の昭和2年の「第一回米作予想収穫高」の記事が載っているのでそれを見てみると次のように、
   本縣第一回米作豫想高 百六萬七千八十石
     平年作に比し一分一厘収
 九月二十日現在…(筆者略)…豫想収穫高は水稲百五萬五千五百八十八石陸稲一萬一千四百九十三石
と報道されていて、前年に比せば、
計十一萬九千六百九石(一割三分)の収を示せり
ともある。
 次に、同記事から稗貫及び隣の郡を抜き出して見ると、
        水   稲
    豫想石高 前年収穫高比増減 前年収穫高
 紫波 122,639石    29,192石 93,447石
 稗貫 109,879石     5,989石 103,890石
 和賀 114,668石     4,702石 109,966石
となっていた。紫波の場合は前年は旱害被害が甚大であったから、昭和2年は逆にかなりの増収見込みとなったのだろうし、稗貫の場合もそれなりの増収予想であったことがわかる。
 そして、11月12日付『岩手日報』に「第二回米作予想収穫高」が載っていて、それは次のようなものであった。
  本縣米作(第二回)豫想収穫高 百六萬九百五十二石        平年に比し七厘四毛収
…本縣における十月末現在米第二回豫想収穫高は水稲百四萬八千三百二十四石陸稲一萬二千六百二十四石合計百六萬九百五十二石にして之を九月二十日現在第一囘豫想収穫高合計百六萬七千八十一石に比すれば六千百二十九石(五厘七毛)の減収を豫想されてゐる之は本年の稲作は概して草たけ徒長の傾向にあつたが九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り為に倒伏したるもの又は岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである…(筆者略)…前年五ヶ年平均収穫高百五萬三千百二十一石に比するも七千八百三十一石(七厘四毛)の増収の見込みである。
つまり、昭和2年の「第二回予想収穫高」は第一回のそれよりも少し減ったが、それでも前年よりも増収の見込みである。
 次にこの記事から稗貫等のデータなどを抜き出してみると、
            水稲収穫高
     第二回豫想  第一回豫想   比較増減
  紫波 118,887石  122,639石   △3,752石
  稗貫 110,881石  109,879石    1,002石
  和賀 113,035石  114,668石   △1,633石
ということだから、紫波や和賀では第一回の予想収穫高よりも第二回のそれは減少しているが、逆に稗貫の場合は収穫高の予想は増えていることがわかる。したがって、
 昭和2年の場合、隣接する和賀郡などでは稲熱病が猖獗してその被害が甚大であったが、稗貫の場合はそのようなことはなかった。
であろうということが予想される。
 ここで前年との比較をしてみる、
  第二回豫想 前年収穫高比増減  増収割合
  紫波 118,887石  25,440石    2割7分2厘増
  稗貫 110,881石  6,991石      6分7厘増
  和賀 113,035石  3,069石      2分8厘増
となっているので、稗貫の場合は前年より約6.7%程の増収だし、紫波は前年大干魃だったせいもあって約27.2%という大幅な増収、和賀にしても昭和2年は稲熱病の被害が甚大だという報道は目立つものの、郡全体としてはそれでも約2.8%の増収であることが導かれる。また、岩手県全体であっても、「平年に比し七厘四毛増収」、すなわち0.74%の増収ということになる。
 どうやら、福井規矩三の証言「昭和二年は…ひどい凶作であつた」は彼の勘違いだった蓋然性が極めて高くなってきた。
 実際、「昭和2年岩手県米実収高」が昭和3年1月22日付『岩手日報』に載っていて、
   本縣米實収高 平年作より八厘
          前年比一割二分
とあり、この報道からは
       作付面積  収穫高   反別収穫高
   昭和2年  54,904町 1,061,578石  1.9335石
   大正15年  53,804町  947,472石  1.7610石
   5年平均  53,705町 1,053,120石  1.9609石
ということが判るから
   1,061,578÷ 947,472=1.120
   1,061,578÷1,053,120=1.008
となり、たしかに新聞報道どおり
   前年比収穫高は1割2分の増収
   5年平均収穫高では8厘の増収
であり、「ひどい凶作であつた」わけでは全くない。
 ただし、反別収穫高で比べると
   1.9335÷1.9609=0.986 
となるので作況指数は99となっていて100を割るものの、
・県全体としては平年作より0.8%の増収
・県の作況指数は99であり平年作
であったことがわかる。
 ちなみに、稗貫とその周辺の郡では
            水    稲
    第二回豫想   実収高(粳+糯)  比較増減
   紫波 118,887石 109,301+9,016=118,317石  △570石
   稗貫 110,881石 101,485+9,652=111,137石   256石
   和賀 113,035石 100,371+10,949=111,320石△1,715石
となっているので、紫波郡や和賀郡は実収高が「第二回豫想」よりも減っているが、稗貫郡は逆に増えていることがわかる。これはおそらく、同報道によれば
 岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである
ということではあるが、この中に稲熱病の被害の多かった地方は「岩手、紫波、和賀、胆澤地方」とあるのでそこに「稗貫地方」が入っておらず、稗貫地方はその周囲の地方とは違って、先ほどの「予想」(42p参照)どおりやはり稲熱病による被害はなかったからだと判断できそうだ。逆に言えば、昭和2年の稗貫郡の稲作は天候に恵まれていたということになるだろうし、作柄は前年を結構上回っていたというこがこれでほぼ明らかである。
 具体的には稗貫郡の水稲については、
  (実収高111,137)-(前年収穫高103,890)=7,247(石)
   7,247÷103,890=0.0698
より、
昭和2年の稗貫郡の水稲の実収高は前年比6.98%もの大幅増収であった。
ということが確定した。
 したがって、先の「昭和2年岩手県米実収高」に基づけば昭和2年の水稲は県全体では平年作よりも0.8%の増収だし、稗貫郡のそれについては前年比約7%もの大幅増収だったことも今わかったから、福井規矩三の
 昭和二年は…ひどい凶作であつた。
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