本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(44p~47p)

2016-02-21 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
という証言は、岩手県全体にせよ稗貫地方にせよいずれの場合にも全く当てはまらないので、こうなればこの証言は彼の全くの事実誤認であったと断定せざるを得ない。

 昭和二年は「非常な寒い氣候が續いて」という誤認
 さてここで『新校本年譜』を見てみると、その昭和2年7月に、
七月中旬(〈注十一〉) 「方眼罫手帳」に天候不順を憂えるメモ。「肥料設計ニヨル万一ノ損失は辨償スベシ」
 昔から岩手県では稲作に関して旱魃に凶作なしといい、多雨冷温のときは凶作になるという。
七月一八日(月) 盛岡測候所に調査に出向く(書簡231)。
七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状(書簡231)。
 福井規矩三の「測候所と宮沢君」によれば、「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
というような記述がある。
 たしかに「多雨冷温のときは凶作になる」は尤もなことだし、「稲作に関して旱魃に凶作なし」とは言い切れないということは先にその実例を知った(28p~32p参照)ところだが、それよりもここでもっと問題とせねばならないことは、福井のこの「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という証言だ。まして福井は当時盛岡測候所長だったから、この証言を皆端から信じ切ってしまうだろうからなおさらに。
 そのせいでだろうか、各著者がその典拠を明らかにしていないので確かなことは言えないが、例えば
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
 <『宮沢賢治 その独自性と同時代性』(翰林書房)173p>
という記述や
 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
<『イーハトーヴの植物学』(洋々社)79p >
そして、
一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p >
というような記述に出会う。
 つまり「一九二七年の冷温多雨の夏」や「昭和二年は…六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった」などという断定表現にしばしば出会う。
 しかしながら、福井の証言「昭和二年は…ひどい凶作であった」は歴史的事実とは言い難いことをつい先ほど実証したところであり、こうなると残りの「(昭和二年は)非常な寒い気候が続いて」の部分についても信頼度が危うくなってきたので検証してみる必要がありそうだ。
 そこでまずは、同年譜が「(昭和二年は)非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作」の典拠であるという福井の「測候所と宮澤君」を見てみると、
 昔から岩手縣では旱魃に凶作なしといふて、多雨冷溫の時は凶作が多いが、旱天には凶作がない。…(筆者略)…あの君としては、水不足が氣象の方から、どういふ變化を示すものであるかといふことを専門家から聽き、盛岡測候所の記錄を調べて、どういふ對策を樹てたらよいかといふことに頭を惱まされたことと思ふ。七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)316p~>
という記述があり、たしかにそこには「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であった」と述べていることを確認できる。
 しかも、賢治の『方眼罫手帳』にはたしかに天候不順を憂えているとも思われる次のようなメモ
△△気温比較表ヲ見タシ
△△今月上旬中ノ雨量ハ平年ニ比シ而ク(ママ)大ナルモノナリヤ
 日照量ハ如何
 風速平均は如何
△△本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)386p~>
もあるから、この福井の証言は素直に歴史的事実だったと思いたくなる。
 しかし、『新校本年譜』にあるとおりこのメモがこの年の「七月中旬」の記載であるというのであれば、冷静に考えてみると、このメモからは実はそれほど賢治が「それまでの天候不順やあるいは現状を憂えている」とは必ずしも受け取れるわけではなかろう。純粋に科学的な見地からの疑問と、そのための気象データを知りたいということを賢治は備忘的にメモしていたに過ぎないとも解釈できるからだ。だからこのメモから私が読み取れることは、「今後天候不順が起こるのだろうか」という程度のことを賢治は気に留めていたということである。
 それは、例えば農学博士卜蔵建治氏の『ヤマセと冷害』によれば、大正時代以降は大正2年の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、
一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。むしろ暑い夏で…旱魃が多く発生している。
<『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p >
ということだから、賢治のこの最後のメモ「本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ」はこの当時は無用な心配であったことからも(この歴史的事実はよく知られていることのはずだし、賢治自身もこのことに当時気付かなかったはずがない)、賢治はそのことを気に留めていた程度であったということが裏付けられるのではなかろうか。
 実は、先に少し触れたように、当時湯口村の村長等を務めたこともある阿部晁はいわゆる『阿部晁の家政日誌』をつけているのだが、その日誌には日々の天気も記してある。そこでその日誌から昭和2、3年7月の天気について拾ってみると次頁の《表 昭和2年と3年花巻の7月の天気と降水量》の表のようになる。しかも、阿部晁の家は花巻の石神(あの鼬幣神社のある地域、花巻農学校の直ぐ近く)であるから、これらの天気は当時の花巻の天気と判断してほぼ間違いなかろう。
 よって同表によれば、昭和2年7月の上旬・月間は同3年に比べると雨量がやや多いとはいえ、田植直後の時期だからそれはそれほど「天候不順」とは見えない。それどころかこの表に従えば、昭和2年はこのとおりこの月は同3年に比べて見てもわかるように気温も高めだから、稲作にとっては歓迎すべきことであり、どうも福井の言うところの「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」と矛盾する。
 しかも、実はその福井自身が発行している『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年)』(岩手県盛岡・宮古測候所)に基づいて大正15年~昭和3年の花巻の稲作期間の気温と降水量のデータをグラフ化してみると、それぞれ、48pの《図1 花巻の稲作期間気温》と《図2 花巻の稲作期間雨量》のようになる(これらは次頁の表のデータとも矛盾していない)。
 ちなみに、《図2》からは昭和2年の6月の田植時に雨量が少ないことが判るが、前年に比べればまだましであるし、七月には雨量も多い。また《図1》からは同2年は気温も高めであり、「羅須地人協会時代」3年間の中では一番高いのでこの年は稲作にとっては好ましい傾向の年だったと言える。
 一方で、岩手の農家が一番恐れているのが冷害だと思うのだが、一般に
    冷害=冷温多雨
という図式が成り立つ。がしかし、少なくともこの昭和2年はこれらのグラフ等からわかるように
    高温多雨
だから、この図式には当てはまらないのでその心配もない。つまり、福井自身がこの年報を通して、
 昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった
ということを否定していてるということになる。
 それでは一体歴史的事実はどちらかというと、記憶よりはもちろん客観的なデータから導かれる方であり、
 昭和2年の稲作期間の天候は決して「昭和二年は非常な寒い気候が続いて…」などということはなかった。
ということにならざるを得ない。そしてこのことは先にわかった、
 昭和2年の稲作は県全体では平年作よりも0.8%の増収、稗貫郡の場合は前年比約7%もの大幅増収だった。
によっても裏付けられる(43p参照)。
 したがって、福井の「測候所と宮沢君」における「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という記述は完全に勘違いであり、彼の事実誤認であったということにならざるを得ない。歴史的事実はそれどころか、
 昭和2年の稗貫郡の水稲は天候にも恵まれ、稲熱病による被害もそれほどなく、前年比約7%の大幅増収。また、

<『阿部晁の家政日誌』より>
〈注〉天気と気温はいわゆる『阿部晁の家政日誌』より抽出したもの、降水量については盛岡地方気象台提供。
 また、灰色部分の気温は各旬間の平均気温であり、降雨量は旬間の小計である。そして最下段は月間の平均気温と、降雨量の総計である。
 なお、気温については華氏の数値であったが、摂氏に直してある。似たような数値の気温が続いていて不安な部分もあるが、少なくとも7月の気温の傾向はつかめる。
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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