《不羈奔放だった賢治》
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
・ある年の同窓会総会のときに先生は、卒業生で種苗協会を作ってアメリカやその他の国から新しい草花などを取り寄せて田園を大いに美しくしようではないかと提案されたことがあります。(浅沼政規、257p)
・また或日は物々交換会のような持寄競売をやった事がある。主として先生が多く出して色彩の濃い絵葉書や浮世絵、本、草花の種子が多かったやうである。(伊藤克己、280p)
・そういえば種苗商をやれと云われたこともある。(小原忠、288p)
教え子の回想を総合すると、賢治は種苗協会のようなものをつくり、草花や西洋野菜を栽培する共同の事業を始めたかったらしい。学校を辞めてすぐ始めた花壇作りは、その前段階だったようにも思われる。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)76p~>
と。たしかに、前掲書『宮澤賢治研究』で確認してみるとそれぞれの回想はその通りであった(( )内の数値は当該の頁)。
となれば、先の小菅の証言から導き出された35pの〝①〟の信憑性がさらに増したと言える。そしてこの〝①〟は、賢治が昭和3年6月に上京した大きな理由が、
(伊藤七雄の)胸の病はドイツ留学中にえたものであったが、その病気の療養に伊豆大島に渡った。土地も買い、家も建てたという徹底したもので、ここで病がいくらか軽くなるにしたがって、園芸学校を建設することになり、宮沢賢治の智慧をかりることになったのである。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)191p>
ということであれば、たしかに頷けるし、
(伊藤七雄は)体がよくなってくると大島に園芸学校を建てようと思いつき、その助言を得るため、羅須地人協会で指導している賢治を訪ねてきた、というわけである。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、昭和41年発行)243p>
という理由であったとしたならば、これとも符合する。
さらには、「伊豆大島行」を終えてからも、その頃故郷では農繁期(猫の手も借りたいといわれる田植の時期であり、植えつけた苗の生育が心配な時期)であったのにもかかわらず、賢治はすぐに帰花せずに帝国図書館に出掛けて行き、当面差し迫ったこととは思えぬ『BRITISHU FLORAL DECORATION』の原文抜粋筆写及び写真のスケッチを手間暇かけて行い、『MEMO FLORA手帳』を作った(〈注九〉)ということも、
「羅須地人協会時代」の賢治は「花卉等の園芸家」になろうとしていたし、なり続けようとしていた。……②
のであったとすればすんなりと腑に落ちる。こうなってくると当然、この〝②〟は有力な仮説となる。
つまるところ、「下根子桜」に移り住んだ賢治ではあったが、賢治のその当時のその最大の目的は、「貧しい農民たちのために身を粉にして献身する」ということなどではなくて、あくまでも〝②〟のためであったという蓋然性が増してきた。そしてそれは、「下根子桜」から撤退して豊沢町に戻ってからの、病気がある程度回復した際に書いた『銀行日誌手帳』の栽培日記からも〝②〟は傍証されそうだ。
だからもしかすると、賢治が突如花巻農学校を辞めて「下根子桜」に移り住んだのは、草花や西洋野菜を栽培する園芸家(=「花卉等の園芸家」)になろうと急に思い立ったからであり、
「花卉等の園芸家になる」=「本統の百姓になる」
という等式が賢治の場合に成り立つが、一方で、賢治は「本物の百姓」になりたいわけではなかった、とも言えそうだ。
まさに菅谷規矩雄が指摘(〈注十〉)するとおり、
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ「下根子桜」の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない。
ということだったのかもしれない。
となれば、私はこれまで大いなる誤解と思い込みがあったということをここで認める必要があるのかもしれない。言い換えれば、このように賢治のことを解釈すれば、少なくとも大正15年の未曾有の旱魃罹災に際して当時の賢治が一切救援活動等をしなかったという事実もある意味納得できないこともない、ということに私は思い至ったからだ。また、先に掲げた「賢治自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったのだろうか」という疑問もこれだとほぼ氷解する。
〈注九:本文36p〉土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」(『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収)より。
〈注十:本文37p〉菅谷規矩雄氏は、
宮沢がつくったのは、白菜やカブやトマトといった野菜がほとんどで、主食たりうるものといったらジャガイモくらい――いや、なにを主食とするかのもんだいと、作物の選択とがついに結び合わないのである。トウモロコシや大豆はつくったらしいが、麦のソバも播いた様子がない。
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
<『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房)98p~>
と論じているが、私もこの「二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない」という指摘はその通りだと思うし、このことに私たちは目を背けてはいけないのだとこの頃は思っている。さもないと、賢治の真実を見誤る虞(おそれ)があるからだ。
抜きがたい「農民蔑視」
さて私個人としては、先の仮説〝②〟が成り立つとしたならば、賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫ったのだが自分自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったということの了解ができるので、つまり賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ氷解するのであった。
ただし、もちろんそんな基準はアンフェアだから納得はできないのだが、賢治にとってはそのようなことは埒外のことであったということなのであろう。だからこそ逆に、賢治はあのような素晴らしい作品を沢山残せたのだということになるのかもしれない。凡人の常識的な倫理観で天才賢治の言動を論うことは、どうやらもともと無意味なことのようだ。
さりながら、そのような賢治が凡人の眼から見て(つまり常識的に考えて)どのように評価されるかを一度は検証しておくことも無意味なことではなかろう。まして、ここまで賢治のことを少しく調べてみた限りでは、私の眼にはそのようなことが今まであまり為されてこなかったと映るからである。
†農民蔑視
では、なぜ賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫りながら、賢治自身は「小作人」にはならなかったのかということをもう少し別の観点から見てみよう。
たまたま手に取った『太陽 5月号 No.156』に宮澤賢治の特集があり、その中の特集対談において肥料設計等に関連した次のような内容も話し合われていた。
T だけれども、たとえば農民に肥料相談をし肥料設計をしてやっている宮沢賢治と、童話の主人公の名前を何回も書き直して苦労して原稿を書き直している宮沢賢治との間には当然どこかで葛藤があると思うのね。それが私にとって、たいへんドラマティックに見えるんだけれども。それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから。だから自分の教えてあげた肥料でうまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれないようなね。
A それはもう当りまえですよ。
T そいうことを知っているはずでしょう。
A もちろん知っていますね。
<『太陽5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月発行)94p >
私はこの二人(A:宮澤賢治研究の第一人者、T:女流作家)のやりとりを知って、とりわけ作家T氏の『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから』という発言等に遭って、びっくりした。
まずそれは第一に、T氏はこのように農民のことを見ているのかということに対してである。せめて心のうちで
・農民なんかずるい
・それは田舎の人だから
と思っているのであればまだしもだが、このような決め付け方と論理で公の場でかような発言をし、しかもそのことを活字にして世に送り出していたということを当の農民が知ったならば、農民がどう感ずるだろうかということは明らかなことであり、そのことが心配になったからだ。またもちろん、人間がずるいかずるくないかをその職業のくくりで決めつけられたのではたまったものではなかろう。
その上、言葉に対して敏感なはずの作家が『農民はずるい』ではなくて『農民なんかずるい』というように表現しているからである。この「なんか」の一言からT氏の「農民」に対する蔑視がいかようなものかがほぼわかる。さらには、その理由が「田舎の人だから」とT氏は決めつけていることになる。はたしてこのような倫理観や論理でよいのだろうか。
第二に、そのことをA氏が否定していないことにもである。ただし、A氏の『それは当たりまえですよ』とは『農民なんかずるい』に対してではなくて、『うまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれない』ということに対して述べたことだったのだということであれば多少は私の心は軽くなるが。
そして第三に、賢治は「そういうことを知っている」と二人はそれぞれ推測し、断定していることにである。なぜなら、ここでの「知っている」とは会話の流れから言って『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ』の「知っている」であり、そしてそれはとりもなおさず、
農民なんかずるいのを知っていた。それは農民は田舎の人だからである。……③
と賢治も農民を見ていたとこの二人は言っていることになる、と私には思われるからである。どうも、そこには抜きがたい「農民蔑視」が賢治にもあったということをこの二人は当然の如くに認めていると思えるからである。
†賢治にもそれはあった
さりながらよくよく思い返してみると、たしかに賢治もまた〝③〟と見ていた節があり、彼にも抜きがたい「農民蔑視」があったことは否めない。それは、例えば次のような詩を読み直してみれば、そのような点が賢治にもあったことを否定しきれないからだ。
七三五 饗宴
一九二六、九、三、 酸っぱい胡瓜をぽくぽく嚙んで
みんなは酒を飲んでゐる
……土橋は曇りの午前にできて
いまうら青い榾のけむりは
稲いちめんに這ひかゝり
そのせきぶちの杉や楢には
雨がどしゃどしゃ注いでゐる……
みんなは地主や賦役に出ない人たちから
集めた酒を飲んでゐる
……われにもあらず
ぼんやり稲の種類を云ふ
こゝは天山北路であるか……
さっき十ぺん
あの赤砂利をかつがせられた
顔のむくんだ弱さうな子が
みんなのうしろの板の間で
座って素麺をたべてゐる
(紫雲英植れば米とれるてが
藁ばりとったて間に合ぁなじゃ)
こどもはむぎを食ふのをやめて
ちらっとこっちをぬすみみる
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)24p >
一〇三五 〔えい木偶のぼう〕
****************************************************************************************************
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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・また或日は物々交換会のような持寄競売をやった事がある。主として先生が多く出して色彩の濃い絵葉書や浮世絵、本、草花の種子が多かったやうである。(伊藤克己、280p)
・そういえば種苗商をやれと云われたこともある。(小原忠、288p)
教え子の回想を総合すると、賢治は種苗協会のようなものをつくり、草花や西洋野菜を栽培する共同の事業を始めたかったらしい。学校を辞めてすぐ始めた花壇作りは、その前段階だったようにも思われる。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)76p~>
と。たしかに、前掲書『宮澤賢治研究』で確認してみるとそれぞれの回想はその通りであった(( )内の数値は当該の頁)。
となれば、先の小菅の証言から導き出された35pの〝①〟の信憑性がさらに増したと言える。そしてこの〝①〟は、賢治が昭和3年6月に上京した大きな理由が、
(伊藤七雄の)胸の病はドイツ留学中にえたものであったが、その病気の療養に伊豆大島に渡った。土地も買い、家も建てたという徹底したもので、ここで病がいくらか軽くなるにしたがって、園芸学校を建設することになり、宮沢賢治の智慧をかりることになったのである。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)191p>
ということであれば、たしかに頷けるし、
(伊藤七雄は)体がよくなってくると大島に園芸学校を建てようと思いつき、その助言を得るため、羅須地人協会で指導している賢治を訪ねてきた、というわけである。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、昭和41年発行)243p>
という理由であったとしたならば、これとも符合する。
さらには、「伊豆大島行」を終えてからも、その頃故郷では農繁期(猫の手も借りたいといわれる田植の時期であり、植えつけた苗の生育が心配な時期)であったのにもかかわらず、賢治はすぐに帰花せずに帝国図書館に出掛けて行き、当面差し迫ったこととは思えぬ『BRITISHU FLORAL DECORATION』の原文抜粋筆写及び写真のスケッチを手間暇かけて行い、『MEMO FLORA手帳』を作った(〈注九〉)ということも、
「羅須地人協会時代」の賢治は「花卉等の園芸家」になろうとしていたし、なり続けようとしていた。……②
のであったとすればすんなりと腑に落ちる。こうなってくると当然、この〝②〟は有力な仮説となる。
つまるところ、「下根子桜」に移り住んだ賢治ではあったが、賢治のその当時のその最大の目的は、「貧しい農民たちのために身を粉にして献身する」ということなどではなくて、あくまでも〝②〟のためであったという蓋然性が増してきた。そしてそれは、「下根子桜」から撤退して豊沢町に戻ってからの、病気がある程度回復した際に書いた『銀行日誌手帳』の栽培日記からも〝②〟は傍証されそうだ。
だからもしかすると、賢治が突如花巻農学校を辞めて「下根子桜」に移り住んだのは、草花や西洋野菜を栽培する園芸家(=「花卉等の園芸家」)になろうと急に思い立ったからであり、
「花卉等の園芸家になる」=「本統の百姓になる」
という等式が賢治の場合に成り立つが、一方で、賢治は「本物の百姓」になりたいわけではなかった、とも言えそうだ。
まさに菅谷規矩雄が指摘(〈注十〉)するとおり、
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ「下根子桜」の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない。
ということだったのかもしれない。
となれば、私はこれまで大いなる誤解と思い込みがあったということをここで認める必要があるのかもしれない。言い換えれば、このように賢治のことを解釈すれば、少なくとも大正15年の未曾有の旱魃罹災に際して当時の賢治が一切救援活動等をしなかったという事実もある意味納得できないこともない、ということに私は思い至ったからだ。また、先に掲げた「賢治自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったのだろうか」という疑問もこれだとほぼ氷解する。
〈注九:本文36p〉土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」(『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収)より。
〈注十:本文37p〉菅谷規矩雄氏は、
宮沢がつくったのは、白菜やカブやトマトといった野菜がほとんどで、主食たりうるものといったらジャガイモくらい――いや、なにを主食とするかのもんだいと、作物の選択とがついに結び合わないのである。トウモロコシや大豆はつくったらしいが、麦のソバも播いた様子がない。
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
<『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房)98p~>
と論じているが、私もこの「二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない」という指摘はその通りだと思うし、このことに私たちは目を背けてはいけないのだとこの頃は思っている。さもないと、賢治の真実を見誤る虞(おそれ)があるからだ。
抜きがたい「農民蔑視」
さて私個人としては、先の仮説〝②〟が成り立つとしたならば、賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫ったのだが自分自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったということの了解ができるので、つまり賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ氷解するのであった。
ただし、もちろんそんな基準はアンフェアだから納得はできないのだが、賢治にとってはそのようなことは埒外のことであったということなのであろう。だからこそ逆に、賢治はあのような素晴らしい作品を沢山残せたのだということになるのかもしれない。凡人の常識的な倫理観で天才賢治の言動を論うことは、どうやらもともと無意味なことのようだ。
さりながら、そのような賢治が凡人の眼から見て(つまり常識的に考えて)どのように評価されるかを一度は検証しておくことも無意味なことではなかろう。まして、ここまで賢治のことを少しく調べてみた限りでは、私の眼にはそのようなことが今まであまり為されてこなかったと映るからである。
†農民蔑視
では、なぜ賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫りながら、賢治自身は「小作人」にはならなかったのかということをもう少し別の観点から見てみよう。
たまたま手に取った『太陽 5月号 No.156』に宮澤賢治の特集があり、その中の特集対談において肥料設計等に関連した次のような内容も話し合われていた。
T だけれども、たとえば農民に肥料相談をし肥料設計をしてやっている宮沢賢治と、童話の主人公の名前を何回も書き直して苦労して原稿を書き直している宮沢賢治との間には当然どこかで葛藤があると思うのね。それが私にとって、たいへんドラマティックに見えるんだけれども。それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから。だから自分の教えてあげた肥料でうまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれないようなね。
A それはもう当りまえですよ。
T そいうことを知っているはずでしょう。
A もちろん知っていますね。
<『太陽5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月発行)94p >
私はこの二人(A:宮澤賢治研究の第一人者、T:女流作家)のやりとりを知って、とりわけ作家T氏の『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから』という発言等に遭って、びっくりした。
まずそれは第一に、T氏はこのように農民のことを見ているのかということに対してである。せめて心のうちで
・農民なんかずるい
・それは田舎の人だから
と思っているのであればまだしもだが、このような決め付け方と論理で公の場でかような発言をし、しかもそのことを活字にして世に送り出していたということを当の農民が知ったならば、農民がどう感ずるだろうかということは明らかなことであり、そのことが心配になったからだ。またもちろん、人間がずるいかずるくないかをその職業のくくりで決めつけられたのではたまったものではなかろう。
その上、言葉に対して敏感なはずの作家が『農民はずるい』ではなくて『農民なんかずるい』というように表現しているからである。この「なんか」の一言からT氏の「農民」に対する蔑視がいかようなものかがほぼわかる。さらには、その理由が「田舎の人だから」とT氏は決めつけていることになる。はたしてこのような倫理観や論理でよいのだろうか。
第二に、そのことをA氏が否定していないことにもである。ただし、A氏の『それは当たりまえですよ』とは『農民なんかずるい』に対してではなくて、『うまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれない』ということに対して述べたことだったのだということであれば多少は私の心は軽くなるが。
そして第三に、賢治は「そういうことを知っている」と二人はそれぞれ推測し、断定していることにである。なぜなら、ここでの「知っている」とは会話の流れから言って『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ』の「知っている」であり、そしてそれはとりもなおさず、
農民なんかずるいのを知っていた。それは農民は田舎の人だからである。……③
と賢治も農民を見ていたとこの二人は言っていることになる、と私には思われるからである。どうも、そこには抜きがたい「農民蔑視」が賢治にもあったということをこの二人は当然の如くに認めていると思えるからである。
†賢治にもそれはあった
さりながらよくよく思い返してみると、たしかに賢治もまた〝③〟と見ていた節があり、彼にも抜きがたい「農民蔑視」があったことは否めない。それは、例えば次のような詩を読み直してみれば、そのような点が賢治にもあったことを否定しきれないからだ。
七三五 饗宴
一九二六、九、三、 酸っぱい胡瓜をぽくぽく嚙んで
みんなは酒を飲んでゐる
……土橋は曇りの午前にできて
いまうら青い榾のけむりは
稲いちめんに這ひかゝり
そのせきぶちの杉や楢には
雨がどしゃどしゃ注いでゐる……
みんなは地主や賦役に出ない人たちから
集めた酒を飲んでゐる
……われにもあらず
ぼんやり稲の種類を云ふ
こゝは天山北路であるか……
さっき十ぺん
あの赤砂利をかつがせられた
顔のむくんだ弱さうな子が
みんなのうしろの板の間で
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藁ばりとったて間に合ぁなじゃ)
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《鈴木 守著作案内》
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
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