《不羈奔放だった賢治》
続きへ。
前へ 。
“『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
花巻 梅津健吉(金融業)
75.7 18.9 94.6 115
花巻 宮沢直治(商 業)
62.9 23.7 86.6 102
花巻 佐藤秀六郎(商業)
49.1 26.4 75.5 92
花巻 松田忠太郎(商業)
52.9 9.6 62.5 60
湯口 宮沢善治(旅館業)
46.9 13.2 60.1 100
花巻 宮沢商店(商 業)
24.6 26.8 51.4 57
(筆者注:田畑の単位は町歩である)
<『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)16p~>
なんと、昭和12年当時、宮沢直治の小作人は102名、宮沢善治同100名、宮沢商店同57名にも及ぶ。いわゆる「宮澤マキ」は計134町歩の田圃、畑も加えれば計198町歩もの小作地を有していたことになるし、小作人の総数は259名にも及ぶ。
「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎
さて賢治から「小作人たれ/農村劇をやれ」と「訓へ」を受けた甚次郎は、昭和2年3月に盛岡高等農林学校を卒業し、故郷に帰ってその「訓へ」どおりに小作人となり、農村劇を上演し続けたという。いわば「賢治精神」を甚次郎は実践しようと心に決め、その実践をし続けたとも言える。具体的には、前掲の『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾―』や松田甚次郎の『𡈽に叫ぶ』(羽田書店)によれば、前述したことと一部重複するが、おおよそ以下のとおりである。
実は、甚次郎の生家は稲舟村(現新庄市)鳥越一二〇戸集落の中で一番の大地主であった。しかも甚次郎はその惣領息子であったから、本来ならば小作人になるなどということはまずあり得ない立場にあった。しかし、息子甚次郎の強い願いを入れて父甚五郎は水利が劣悪な六反歩の田圃を小作貸借契約し、甚次郎は自宅から数百メートル離れた場所に三坪の小さい小屋を建て、羊を飼う生活から小作人生活に入った。
そしてその後、甚次郎が取り組んだ主なものを箇条書きにしてみると次のようになる。
・自給肥料を増産し金肥を全廃
土を肥やし、自給自足の小作生活を送るための必然でもあり、下肥のみならず川ごみや鋸屑などの廃物も集めて作った堆肥を使った。(賢治の稲作指導は金肥に対応して作られた陸羽132号による増収であったが、甚次郎の場合は金肥を全廃した自給肥料によるそれであった。これは昨今の持続可能な稲作にも通ずるところがあると筆者の私は思っている。「賢治精神」には沿っているが方法論はそのまま賢治の真似をしているわけではなくて、甚次郎の場合には小作人の実態に即して工夫していて現実的であった、とも言えよう)。
・村をあげての麹・醤油・味噌・澱粉作り
日々の農家生活で現金支出を最も多く要したのが調味料であり、それを自給するために麹室や醤油タンクを作ったりして、村をあげて麹・醤油・味噌・澱粉を自分達で作った。
・ホームスパン作り
折角羊を飼育して剪毛までしているのだからということで、被服の自給を図るために甚次郎は古自転車を利用して「松田式紡毛機」を造り、ホームスパンの織物も作った。
・「鳥越倶楽部」の発足
賢治から「訓へ」られたもう一つ、「農村劇」をやるために創設した会であり、当初は「休日に色々話し合ったり、そこいらを見物したりする、楽しい会を作ろうではないかと」同級生たちなどに話しかけて昭和2年4月25日に十数名で立ち上げたという(甚次郎はこの年の3月に賢治に初めて会い、その年度末に盛岡高等農林学校を卒業して鳥越に帰郷したのだから、甚次郎の実践は着々と進められていったことがこれで了解できる)。
・農村劇「水涸れ」の初公演
次に、甚次郎はこの倶楽部の皆に「お盆か村祭りの時、芝居をやってみないか」と提案し、「水掛の労苦」をテーマにした農村劇の脚本を書き、昭和3年8月8日に再び「下根子桜」に賢治を訪れ、野外演劇のノウハウを教わり、劇の題名も「水涸れ」と命名してもらった。
そして、同年9月10日村社の八幡神社の境内に土舞台を作って上演した。
・農村劇による農村文化運動
そしてその後も甚次郎は農村劇を上演し続け(<注五>)、農村文化の向上のために活動に尽力した。
・「鳥越隣保館(農繁期託児所)」の建設
前述したような活動が認められて、昭和8年に「有栖川宮記念更正資金」を受領。それを機に、鳥越に会館建設を企て、同年10月に落成。「鳥越隣保館」と命名し、そこで農繁期の託児を始めた。
・農村婦人愛護運動
甚次郎は昭和6年住井すゑと会って農村婦人問題に関心を持ち始め、住井も同7年に鳥越を訪れて「新しき農村婦人」という題の講演をしているし、奥むめおも同様鳥越で講演をしてるという。さらには、住井の紹介で増子あさが鳥越にやって来て「産婆先生」と皆に慕われながら、農村婦人愛護運動に献身した。
・「最上共働村塾」設立
昭和7年8月14日、2週間の予定で「誰が先生で、誰が生徒ということもなしに自治共働でやるのだ」という村塾を開始。そして、この塾の名を「最上共働村塾」と命名、その後は毎年期間が11ヶ月間の村塾が続けられていった。
これらのこと以外にも甚次郎の実践は目覚ましいものがあったと伝えられているがそれは割愛する。ここまで掲げた事項の具体的な内容からして、甚次郎が賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)を実践し続けたことはもはや確かなことであったと判断できたからだ。まさに、
松田甚次郎は「賢治精神」を実践し続けた。
と言えるようだ。ただし、甚次郎のこれらの実践やこれら以外の彼の実践が皆「賢治精神」に沿ったそれであったかというと議論の余地がありそうだから、もっと正確に言えば、
少なくとも、松田甚次郎は「賢治精神」を実践しようと努力し続けた。
となるのかもしれないが。
さりながら、「賢治精神」といえばそれこそ「農民芸術概論綱要」で高らかに謳い上げたことと言い換えていいのであろうが、残念ながらそこには方法論がほぼ提示されていないようだし、その実践も賢治の場合にはあまり見られず長続きもしなかったので、甚次郎の継続的で徹底した実践ぶりに(もちろんその実践に問題点がないわけではないが)素直に頭が下がる。
そして、甚次郎はこれらの実践をまとめて昭和13年に本を出版した。それが他ならぬ『𡈽に叫ぶ』であり、これが一躍大ベストセラーになったというわけである。するとおのずから、このベストセラーの読者の多くは、巻頭に揚げている「恩師宮澤賢治先生」とは一体どんな人物なのだろうかと興味と関心を抱いたはずだ。しかも、甚次郎は昭和14年に今度は『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)を出版し、これまたベストセラーとなって増刷が繰り返されたので、賢治とその作品がこれを機に全国の多くの人々に知られるようになっていったのは当然の帰結であった。
とりわけ、この『宮澤賢治名作選』を手にしたことが切っ掛けで、賢治研究家になった高名な作家も少なくないはずだ。例えば、吉本隆明とか西田良子氏などのように。よって、賢治の受容などを始めとして、甚次郎の果たした役割と貢献度は計り知れないものがあると私は確信しているのだが、どうしてだろうか、現状は「今では殆ど忘れ去られてしまった松田甚次郎」になってしまっている。そう簡単に井戸を掘った人の恩を忘れてしまってよいものなのだろうか。
〈注五:本文13p〉「松田甚次郎の行った農村劇公演等のリスト」
昭和2年9月10日 │農村劇「水涸れ」
昭和4年 │農村劇「酒造り」
昭和5年9月15日 │農村劇(移民劇)
昭和6年9月 │農村劇「壁が崩れた」
昭和7年2月 │農村劇「国境の夜」
昭和8年2月 │農村劇「佐倉宗吾」
昭和9年 │農村喜劇「結婚後の一日」
昭和10年12月 │「ベニスの商人」
〃 暮 │選挙粛正劇「ある村の出来事」
昭和11年4月 │農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」
昭和12年1月10日│「農村劇と映画の夕」公開
(実家の都合により塾一時閉鎖)
昭和13年 │農村劇「永遠の師父」
昭和14年8月15日│農村劇「双子星」
昭和17年2月 │農村劇「勇士愛」
昭和18年3月21日│「種山ヶ原」「一握の種子」
(昭和18年8月4日│松田甚次郎逝去(享年35歳))
<『𡈽に叫ぶ』及び『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)の年譜より抜粋)>
大正十五年の未曾有の旱害と多くの救援
さて、これで甚次郎の実践、とりわけ賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)に従ったそれについては徹底していたし、継続的に続けられていたことがわかったのだが、不安が増してくるのは賢治の方の実践である。管見故か、甚次郎の実践のような賢治のそれを思い付かないからだ。
そこで、どうやら私は今まで賢治のことを良心的に見過ぎていたのかもしれないということが頭の隅をよぎり始め、そんなことに思い悩んでいた頃、『𡈽に叫ぶ』の巻頭、
一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p >
を読み直して、「旱魃に苦悶する赤石村のこと…道々會ふ子供に與へていつた」に目が留まった。そこからは、大正15年の赤石村では旱害が甚大だったということなどがおのずから導かれるからだ。
そこで『新校本年譜』を見てみると、昭和2年について、
三月八日(火) 盛岡高農農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。…(筆者略)…
「松田甚次郎日記」は次の如く記されている。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9. for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
2. 生活 其他 処世上
[?]pple
2.30. for morioka 運送店
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
となっていて、この日が甚次郎が初めて「下根子桜」を訪れた日であるということははっきりしているのだが何か変だぞと直感した。そうだ、そこには甚次郎が赤石村を慰問したとは記されていない!
幸いその後、何度か甚次郎の故郷新庄を訪れることができて私は甚次郎の日記を直接見ることが叶って、大正15年の彼の日記を見たならばその12月25日(10p参照)には次のようなことなどが書かれていた。
9.50 for 日詰 下車 役場行
赤石村長ト面会訪問 被害状況
及策枝(?)国庫、縣等ヲ終ッテ
國道ヲ沿ヒテ南日詰行 小(ママ)供ニ煎餅ノ
分配、二戸訪問慰問 12.17
for moriork ? ヒテ宿ヘ
****************************************************************************************************
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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花巻 梅津健吉(金融業)
75.7 18.9 94.6 115
花巻 宮沢直治(商 業)
62.9 23.7 86.6 102
花巻 佐藤秀六郎(商業)
49.1 26.4 75.5 92
花巻 松田忠太郎(商業)
52.9 9.6 62.5 60
湯口 宮沢善治(旅館業)
46.9 13.2 60.1 100
花巻 宮沢商店(商 業)
24.6 26.8 51.4 57
(筆者注:田畑の単位は町歩である)
<『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)16p~>
なんと、昭和12年当時、宮沢直治の小作人は102名、宮沢善治同100名、宮沢商店同57名にも及ぶ。いわゆる「宮澤マキ」は計134町歩の田圃、畑も加えれば計198町歩もの小作地を有していたことになるし、小作人の総数は259名にも及ぶ。
「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎
さて賢治から「小作人たれ/農村劇をやれ」と「訓へ」を受けた甚次郎は、昭和2年3月に盛岡高等農林学校を卒業し、故郷に帰ってその「訓へ」どおりに小作人となり、農村劇を上演し続けたという。いわば「賢治精神」を甚次郎は実践しようと心に決め、その実践をし続けたとも言える。具体的には、前掲の『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾―』や松田甚次郎の『𡈽に叫ぶ』(羽田書店)によれば、前述したことと一部重複するが、おおよそ以下のとおりである。
実は、甚次郎の生家は稲舟村(現新庄市)鳥越一二〇戸集落の中で一番の大地主であった。しかも甚次郎はその惣領息子であったから、本来ならば小作人になるなどということはまずあり得ない立場にあった。しかし、息子甚次郎の強い願いを入れて父甚五郎は水利が劣悪な六反歩の田圃を小作貸借契約し、甚次郎は自宅から数百メートル離れた場所に三坪の小さい小屋を建て、羊を飼う生活から小作人生活に入った。
そしてその後、甚次郎が取り組んだ主なものを箇条書きにしてみると次のようになる。
・自給肥料を増産し金肥を全廃
土を肥やし、自給自足の小作生活を送るための必然でもあり、下肥のみならず川ごみや鋸屑などの廃物も集めて作った堆肥を使った。(賢治の稲作指導は金肥に対応して作られた陸羽132号による増収であったが、甚次郎の場合は金肥を全廃した自給肥料によるそれであった。これは昨今の持続可能な稲作にも通ずるところがあると筆者の私は思っている。「賢治精神」には沿っているが方法論はそのまま賢治の真似をしているわけではなくて、甚次郎の場合には小作人の実態に即して工夫していて現実的であった、とも言えよう)。
・村をあげての麹・醤油・味噌・澱粉作り
日々の農家生活で現金支出を最も多く要したのが調味料であり、それを自給するために麹室や醤油タンクを作ったりして、村をあげて麹・醤油・味噌・澱粉を自分達で作った。
・ホームスパン作り
折角羊を飼育して剪毛までしているのだからということで、被服の自給を図るために甚次郎は古自転車を利用して「松田式紡毛機」を造り、ホームスパンの織物も作った。
・「鳥越倶楽部」の発足
賢治から「訓へ」られたもう一つ、「農村劇」をやるために創設した会であり、当初は「休日に色々話し合ったり、そこいらを見物したりする、楽しい会を作ろうではないかと」同級生たちなどに話しかけて昭和2年4月25日に十数名で立ち上げたという(甚次郎はこの年の3月に賢治に初めて会い、その年度末に盛岡高等農林学校を卒業して鳥越に帰郷したのだから、甚次郎の実践は着々と進められていったことがこれで了解できる)。
・農村劇「水涸れ」の初公演
次に、甚次郎はこの倶楽部の皆に「お盆か村祭りの時、芝居をやってみないか」と提案し、「水掛の労苦」をテーマにした農村劇の脚本を書き、昭和3年8月8日に再び「下根子桜」に賢治を訪れ、野外演劇のノウハウを教わり、劇の題名も「水涸れ」と命名してもらった。
そして、同年9月10日村社の八幡神社の境内に土舞台を作って上演した。
・農村劇による農村文化運動
そしてその後も甚次郎は農村劇を上演し続け(<注五>)、農村文化の向上のために活動に尽力した。
・「鳥越隣保館(農繁期託児所)」の建設
前述したような活動が認められて、昭和8年に「有栖川宮記念更正資金」を受領。それを機に、鳥越に会館建設を企て、同年10月に落成。「鳥越隣保館」と命名し、そこで農繁期の託児を始めた。
・農村婦人愛護運動
甚次郎は昭和6年住井すゑと会って農村婦人問題に関心を持ち始め、住井も同7年に鳥越を訪れて「新しき農村婦人」という題の講演をしているし、奥むめおも同様鳥越で講演をしてるという。さらには、住井の紹介で増子あさが鳥越にやって来て「産婆先生」と皆に慕われながら、農村婦人愛護運動に献身した。
・「最上共働村塾」設立
昭和7年8月14日、2週間の予定で「誰が先生で、誰が生徒ということもなしに自治共働でやるのだ」という村塾を開始。そして、この塾の名を「最上共働村塾」と命名、その後は毎年期間が11ヶ月間の村塾が続けられていった。
これらのこと以外にも甚次郎の実践は目覚ましいものがあったと伝えられているがそれは割愛する。ここまで掲げた事項の具体的な内容からして、甚次郎が賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)を実践し続けたことはもはや確かなことであったと判断できたからだ。まさに、
松田甚次郎は「賢治精神」を実践し続けた。
と言えるようだ。ただし、甚次郎のこれらの実践やこれら以外の彼の実践が皆「賢治精神」に沿ったそれであったかというと議論の余地がありそうだから、もっと正確に言えば、
少なくとも、松田甚次郎は「賢治精神」を実践しようと努力し続けた。
となるのかもしれないが。
さりながら、「賢治精神」といえばそれこそ「農民芸術概論綱要」で高らかに謳い上げたことと言い換えていいのであろうが、残念ながらそこには方法論がほぼ提示されていないようだし、その実践も賢治の場合にはあまり見られず長続きもしなかったので、甚次郎の継続的で徹底した実践ぶりに(もちろんその実践に問題点がないわけではないが)素直に頭が下がる。
そして、甚次郎はこれらの実践をまとめて昭和13年に本を出版した。それが他ならぬ『𡈽に叫ぶ』であり、これが一躍大ベストセラーになったというわけである。するとおのずから、このベストセラーの読者の多くは、巻頭に揚げている「恩師宮澤賢治先生」とは一体どんな人物なのだろうかと興味と関心を抱いたはずだ。しかも、甚次郎は昭和14年に今度は『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)を出版し、これまたベストセラーとなって増刷が繰り返されたので、賢治とその作品がこれを機に全国の多くの人々に知られるようになっていったのは当然の帰結であった。
とりわけ、この『宮澤賢治名作選』を手にしたことが切っ掛けで、賢治研究家になった高名な作家も少なくないはずだ。例えば、吉本隆明とか西田良子氏などのように。よって、賢治の受容などを始めとして、甚次郎の果たした役割と貢献度は計り知れないものがあると私は確信しているのだが、どうしてだろうか、現状は「今では殆ど忘れ去られてしまった松田甚次郎」になってしまっている。そう簡単に井戸を掘った人の恩を忘れてしまってよいものなのだろうか。
〈注五:本文13p〉「松田甚次郎の行った農村劇公演等のリスト」
昭和2年9月10日 │農村劇「水涸れ」
昭和4年 │農村劇「酒造り」
昭和5年9月15日 │農村劇(移民劇)
昭和6年9月 │農村劇「壁が崩れた」
昭和7年2月 │農村劇「国境の夜」
昭和8年2月 │農村劇「佐倉宗吾」
昭和9年 │農村喜劇「結婚後の一日」
昭和10年12月 │「ベニスの商人」
〃 暮 │選挙粛正劇「ある村の出来事」
昭和11年4月 │農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」
昭和12年1月10日│「農村劇と映画の夕」公開
(実家の都合により塾一時閉鎖)
昭和13年 │農村劇「永遠の師父」
昭和14年8月15日│農村劇「双子星」
昭和17年2月 │農村劇「勇士愛」
昭和18年3月21日│「種山ヶ原」「一握の種子」
(昭和18年8月4日│松田甚次郎逝去(享年35歳))
<『𡈽に叫ぶ』及び『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)の年譜より抜粋)>
大正十五年の未曾有の旱害と多くの救援
さて、これで甚次郎の実践、とりわけ賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)に従ったそれについては徹底していたし、継続的に続けられていたことがわかったのだが、不安が増してくるのは賢治の方の実践である。管見故か、甚次郎の実践のような賢治のそれを思い付かないからだ。
そこで、どうやら私は今まで賢治のことを良心的に見過ぎていたのかもしれないということが頭の隅をよぎり始め、そんなことに思い悩んでいた頃、『𡈽に叫ぶ』の巻頭、
一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p >
を読み直して、「旱魃に苦悶する赤石村のこと…道々會ふ子供に與へていつた」に目が留まった。そこからは、大正15年の赤石村では旱害が甚大だったということなどがおのずから導かれるからだ。
そこで『新校本年譜』を見てみると、昭和2年について、
三月八日(火) 盛岡高農農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。…(筆者略)…
「松田甚次郎日記」は次の如く記されている。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9. for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
2. 生活 其他 処世上
[?]pple
2.30. for morioka 運送店
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
となっていて、この日が甚次郎が初めて「下根子桜」を訪れた日であるということははっきりしているのだが何か変だぞと直感した。そうだ、そこには甚次郎が赤石村を慰問したとは記されていない!
幸いその後、何度か甚次郎の故郷新庄を訪れることができて私は甚次郎の日記を直接見ることが叶って、大正15年の彼の日記を見たならばその12月25日(10p参照)には次のようなことなどが書かれていた。
9.50 for 日詰 下車 役場行
赤石村長ト面会訪問 被害状況
及策枝(?)国庫、縣等ヲ終ッテ
國道ヲ沿ヒテ南日詰行 小(ママ)供ニ煎餅ノ
分配、二戸訪問慰問 12.17
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
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