本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(8p~11p)

2016-02-12 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
 赤石村を慰問した日のお別れ夕食に握飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和やかな氣分になつた時、先生は嚴かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで歸し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ──
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農會でもない。實に小農、小作人であつて將來ともこの形態は變らない。…(筆者略)…君達だつて、地主の息子然として學校で習得した事を、なかば遊び乍ら實行して他の範とする等は、もつての他の事だ。眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過勞と更に加はる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の真面目が顯現される。默つて十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をただただ信じ切つた。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p >
と、「終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ」「訓へ」があったということをそこで述べている。
 ということは、前掲の〝(1)~(5)〟がこの「小作人たれ/農村劇をやれ」に集約されていると甚次郎は受け止め、いたく感動して、この「訓へ」のとおりに生きて行こうとこの時即座に決意したのだろう。
 しかし一方で、甚次郎のこの記述が事実であったならば、賢治の甚次郎に対する教訓の仕方は私には正直意外である。「そんなことでは私の同志ではない」という言い方などから窺える賢治の強い口調、妥協を許さない姿勢は私が抱いていた賢治のイメージからはかけ離れていると感ずるからである。しかも、「黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。……今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」というようなだめ押しまでを賢治が言うなどということはゆめゆめ思っていなかったからだ。だからもしかすると、賢治の発言に対して甚次郎は多少自分の想いを織り込みすぎた記述をしているという可能性も否定しきれない。がしかし、少なくとも甚次郎がこのように受け止めたという事実は動かせない。
 さらに賢治は続けて「農村劇をやれ」ということに関しては、次のように諭したと『𡈽に叫ぶ』は伝えている。
 次に農民芝居をやれといふことだ。これは單に農村に娯樂を與へよ、といふ樣な小さなことではないのだ。我等人間として美を求め美を好む以上、そこに必ず藝術生活が生れる。殊に農業者は天然の現象にその絶大なる藝術を感得し、更らに自らの農耕に、生活行事に、藝術を實現しつゝあるのだ。たゞそれを本當に感激せず、これを纏めずに散じてゐる。これを磨きこれを生かすことが大事なのである。若しこれが美事に成果した暁には、農村も農家もどんなにか樂しい、美しい日々を送り得ることであらうか──と想ふ。…(筆者略)…
 そしてこれをやるには、何も金を使はずとも出來る。山の側に土舞臺でも作り、脚本は村の生活をそのまゝすればよい。唯、常に教化といふことゝ、熱烈さと、純情さと、美を沒却してはいけない。あく迄も藝術の大業であることを忘れてはならいない」と懇々教えられた上、小山内氏の『演劇と脚本』といふ本をくださつた。そしてこれをよく硏究して、年達を一團としてやる樣にと、事こまごまとさとされた。つい時の過るのを忘れ、恩師の溫情と眞心溢るゝ教訓に、首を垂れたものであつた。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)4p >
 それにしても、自分は小作人になっているわけでもない賢治が「小作人たれ」とまず諭し、続けて「農村劇をやれ」と一回り以上も年が若い甚次郎に対してたたみかけ、結果的には他人の人生を決定づけるようなことを言い切ったということは私にとっては予想外であった。一方で、賢治に初めて見えて直ぐさま彼に尊敬の念を抱き始めたのであろう甚次郎とすれば、「そんなことでは私の同志ではない」と外堀を埋められてしまえばその選択肢は他にはなかったのではなかろうかということさえも私などは想像してしまうのだが、おそらくそうではなくて、賢治からのこの時の「訓へ」は熱と気迫のこもったものだったので甚次郎は圧倒されると共にとても感動し、たちまち賢治に心酔するようになっていったに違いない。
 そして実際、この「訓へ」どおりに甚次郎は故郷山形の稲舟村鳥越に戻って本当に小作人になり、農村劇を毎年のように上演しながら農村改革に我が身を捧げ、遂には昭和18年8月4日、賢治より若い享年35歳で志し半ばで斃れてしまうのである。

〈注三:本文7p〉佐藤隆房は、『宮澤賢治』(冨山書房)において、
     八二 師とその弟子
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、旧冬の東北は天も地も凍結れ、路はいてつき、弱い陽が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風にゆり動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒のマントを着た高農の生徒が辿って行きます。生徒の名は松田君、岩手日報紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導にあたる。」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房、昭和26年)197p >
と述べていて、大正15年12月25日にも甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪れたことにしているが、少なくとも甚次郎自身の日記及び出納帳を見る限りそれは事実とは言えず、訪ねてはいないだろう。
 ちなみに、甚次郎の当日の日記は下記のとおりである。
1926年 12月25日(土)戌子 クリスマス
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 noot
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
 人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
 明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ
  快晴  赤石村行 大行天皇崩御
<大正十五年の『松田甚次郎日記』>
 したがってこの日記に従うならば、甚次郎はこの日は花巻の賢治の許にではなくて、大旱魃罹災によって飢饉寸前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛いというようなことも記している。したがって慰問後は直盛岡へ帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしてはるわけでもない。このことは、同日記所収の「出納帳」によって、この日購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことからもそれが確認できる。

 賢治の「訓へ」の矛盾
 しかしここで冷静に振り返ってみると、急に不安に襲われ始める。常識的に考えれば賢治のこの「訓へ」はおかしいことにすぐ気付かざるを得ないからだ。
 なぜなら、これほどまでに賢治が他人に対して「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く迫るのであれば、当然それは素晴らしいことであると賢治は確信していたことであろうから、
「小作人たれ/農村劇をやれ」という「訓へ」は賢治の信念であり、いわば「賢治精神」とも、その方法論とも言える。
ことになるばずで、賢治も甚次郎と同じような立場と環境にあったのだからまず隗より始めよということで、当然、賢治自身が小作人となり、農村劇をやるということに普通はなると思うのだが、賢治はそうならなかったし、やらなかったということが知られているからである。
 したがって、客観的には、賢治の甚次郎に対する「訓へ」は無責任なものであるという誹りを免れられないものとなる。言い換えれば、甚次郎は「賢治精神」を実践したが、肝心の賢治自身がそれを実践しなかったし、する気がなかったという非難を受けることにはならないだろうかという危惧が私にはある。
 そこでその辺りをもう少し具体的に見てみたい。まずは、甚次郎の生家についてだが、『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾―』(安藤玉治著、農文協)によれば、「新庄鳥越一二〇戸集落で一番の大地主」であり、甚次郎はその惣領息子であったということだから、本来ならば小作人になることはまずあり得ない。ところが、賢治の「訓へ」に従って、甚次郎は父に懇願して水利の劣悪な六反歩の田圃を借り受けて小作人になったのだという。
 一方の賢治だが、賢治も惣領息子であり、賢治の生家も当時10町歩ほどの小作地があったと云われている。例えば、飛田三郎は「肥料設計と羅須地人協會(聞書)」の中で、
 「あそご(宮澤家)の土地を小作(しつけ)でら人も多がったしさ……。」
 これが眞因のようです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭44)281p>
と述べているし、川原仁左エ門は、大正4年の「岩手紳士録」に
   宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272p>
と載っているとことを紹介していることから、賢治の母イチの実家「宮善(<注四>)」ほどではないにしても、賢治の生家も当時少なくとも10町歩ほどの地主であり、田圃を小作させていたことに間違いはなかろう。
 ということであれば、賢治と甚次郎は共に地主の家の長男であり、二人の立場と環境はやはりほぼ同じであったと言える。しかし現実は、その一方の賢治が、甚次郎に「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」たのに、その「訓へ」た賢治自身はそうはならなかったし、しなかった。なぜならば賢治が「小作人」にならなかったことは周知のとおりだし、「農村劇(農民劇)」についても、昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事によれば、賢治は「目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる」と記者に答えてはいるものの、その後にこの上演をしたことはないということもまた周知のことである(一方の甚次郎の方は、昭和2年の農村劇「水涸れ」を初回として、その後毎年のように上演し続けていった)からだ。
 つまり、賢治は甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」たのだが、甚次郎とほぼ同じような環境と立場にありなが賢治自身はそうはならなかったし、しなかったということになる。したがって、やはり賢治のこの「訓へ」は無責任で身勝手なものだと批判されたとしてもやむを得ないだろう。だから当然、賢治のこの「訓へ」は当初から決定的な矛盾を孕んだいたことなる。となれば、あの賢治のことだから後々この時の甚次郎に対する「訓へ」を恥じ、慚愧に堪えなくなるということがもちろん予想される。

〈注四:本文11p〉森嘉兵衛の論文「明治百年序説」の中の〝岩手県大地主調査表(昭和12年)〟から拾ってみれば花巻関係の大地主のリストは以下のとおりである。
◇50町歩以上花巻関係者7名(岩手県54人中)
花巻 瀬川弥右衛門(金融業)
        田 107.0 畑27.5 計134.5 小作人158人
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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